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第七 かみきぬた(7-5~7-8) [第七 かみきぬた]

    卯春興
7-5 鴨のりて氷ながるゝ春日かな

 この前書「卯春興」は、「文化丁卯(文化四年・一八〇七・四十七歳)春興(正月歳旦・春興)」の句ということになる。

 「鴨」(三冬)、「氷」(晩冬)、「氷流る=流氷」(仲春)、「薄氷(春の氷)」(初春)、そして、「春日」(三春)、「初春」(新年)と、この句の主たる季語は、前書の「卯春興」の「春日」の「初春」(新年)の句と解したい。

「初春(はつはる)」(三春)
≪【解説】年の始めをことほいで初春という。旧暦の年の始めは、二十四節気の「立春」のころにあたったので、「初春」と呼んで祝った。新暦に変わって冬に正月を迎えるようになっても、旧暦の名残から年の始を「初春」と呼ぶ。
【実証的見解】二十四節気は太陽暦に基づいて、一年の長さを二十四に分けたもの。その節入を「立春」や「啓蟄」、「秋分」などの言葉で区切る。二十四節気はもともと中国で生まれたもの。中国では、「立春」と立春の次の「雨水」を含む月を正月として年のはじめとし、これが日本にも伝わって、「立春(現在の二月四日ごろ)」を「正月節」、次の雨水を「正月中」というようになった。以下、啓蟄は「二月節」、春分は「二月中」、清明は「三月節」(以下略)である。旧暦は、月の満ち欠けを基本とした暦であるから、二十四節気に先行して月日が移ろうが、行過ぎれば「閏(うるう)月」を設けて月日を後戻りさせ、基本的には二十四節気に添って進行するのである。≫(「きごさい歳時記」)

 句意は、初春の、ここ紙洗橋付近の「山谷堀」(隅田川の今戸から山谷に至る間の掘割)に、越冬中の鴨が、流れ行く薄氷に乗って、そこに初春の初日が射しこめている。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/08/7-57-8.html

「山谷堀/今戸橋/慶養寺」(江戸名所図会より)

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue17.html

≪「待乳(まつち)しづんで、梢(こずえ)のりこむ今戸橋、土手(どて)の合傘(あいがさ)、片身がはりの夕時雨、君をおもへば、あはぬむかしの細布(ほそぬの)

   右 英一蝶(はなぶさいっちょう)戯作」
挿絵の手前の川は隅田川でそこに注ぐ川には「今戸堀り」とあり、これが山谷堀です。堀には「今戸橋」が架かっており、その左上には「此辺船宿」とあります。絵の中央が「慶養寺」で「本堂」、「弁天」があります。遠景に「山谷」があります。≫


    鎌田の梅見にまかりて
7-6 萬歳を居並て待つ田舎哉

 この前書の「鎌田の梅見にまかりて」の「鎌田」は、下記の「蒲田の梅園」(現在の東京都大田区蒲田に所在した梅園)を指しているのであろう。

 季語は「萬歳=万歳(まんざい)」(新年)
≪【子季語】千秋万歳、万歳楽、御万歳、門万歳、三河万歳、加賀万歳、大和万歳、万歳大夫
【関連季語】才蔵市
【解説】新年を祝う門付けの一つであり、主役の万歳大夫と脇役の才蔵との二人組で行われる。その家が千年も万年も栄えるようにと賀詞をのべる。才蔵の鼓に合わせて舞ったり歌ったり、滑稽な問答を交わしたりする。
【実証的見解】万歳は出身地によって、三河万歳、大和万歳、尾張万歳などと地名を冠して呼ばれる。もともとは室町時代の下層民の千秋(せんず)万歳が起源とされる。主役の万歳太夫は、風折烏帽子に紋服姿で手に扇を持つ。脇役の才蔵は大黒頭巾をかむって鼓を打つ。昔、江戸では、「才蔵市」なるものが立ち、万歳太夫が相方の才蔵をその市で見つけたという。
【例句】
やまざとはまんざい遅し梅の花  芭蕉「真蹟懐紙」
万歳の踏みかためてや京の土   蕪村「落日庵句集」
万歳や門に居ならぶ鳩雀     一茶「七番日記」
万歳や黒き手を出し足を出し   正岡子規「寒山落木」
万歳も乗りたる春の渡かな    夏目漱石「漱石俳句集」  ≫(「きごさい歳時記」)

 句意は、この正月、何時もの「百花園」(向島百花園)の「梅見」でなく、遠出をして「鎌田村梅園」(「蒲田梅園」)に出掛けた。折から、新年を祝う門付けの「万歳」が来ていて、それを行列して見物するというのは、これは、やはり、田舎の梅見だと実感した。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/08/7-57-8.html

「蒲田の梅園」(『絵本江戸土産』冊次2)/二世歌川広重画。/嘉永3年(1850)~慶応3年(1867)刊。

https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hana/contents/02.html

≪現在の東京都大田区蒲田に所在した梅園(梅の木を多く植えた庭園)のこと。≫


7-7 はつ午やしるし斗りを揚豆腐

 季語は、「はつ午・初午(はつうま)」(三春)
≪【解説】二月の最初の午の日に行われる稲荷神社の祭礼で、午祭ともいう。京都深草の伏見稲荷をはじめ大阪の玉造、愛知県の豊川稲荷、また神戸の摩耶参など、各地の稲荷神社で盛大に行われる。二の午、三の午もある。
【実証的見解】稲荷信仰はもともと農事の神の信仰で、初午はその年の五穀豊穣を願うものであった。農家はこの日、稲荷社にお神酒や油揚げ、初午団子を供えたりした。
【例句】
はつむまに狐のそりし頭哉   芭蕉「末若集」
初午や物種うりに日のあたる  蕪村「蕪村句集」
初午やその家々の袖だゝみ   蕪村「蕪村句集」  ≫(「きごさい歳時記」)

 句意は、今日は、如月の「初午」の日、この日の「油揚げ」や「揚げ豆腐」は、それはそれとして、ここは、談林誹諧の井原西鶴師匠の「初午は乗ってくる仕合せ」(下記)を、夢みたい。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/08/7-57-8.html

「▲はるばる江戸から大坂の水間寺まで銭を運んできた通し馬。運送馬(駄馬)の腹当には、縁起をかついで「仕合」「吉」「宝」という文字を書くのが通例であった。(小学館『新編日本古典文学全集68 井原西鶴集3』より)

 井原西鶴…1642~93。江戸前期の浮世草子作者・俳人。大坂の人。俳諧では矢数俳諧を得意とした。庶民の生活を写実的に生き生きと描いた浮世草子の名作を多数書き、『好色一代男』『好色五人女』などの好色ものや、経済小説とも言える『日本永代蔵』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』などで知られる。」

http://www.edoshitamachi.com/modules/tinyd11/index.php?id=5

≪「初午は乗ってくる仕合せ」

江戸時代、初午(はつうま)の日(2月の初めに巡ってくる午の日。今年は2月5日は縁起がよく、物事を始めるのに良い日だとされた。

初午にかかわるこんな話が、元禄元年〈1688〉年に刊行された井原西鶴(さいかく)の浮世草子(うきよぞうし)『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』の劈頭(へきとう)を飾っている(「初午は乗つてくる仕合(しあわ)せ」)。

 初午の日、泉州(せんしゅう。大阪府貝塚市)にある水間寺(みずまでら)は参詣人が多かったが、この寺には古くからのある風習があった。参詣した折に、寺から借銭するとご利益があるというのだ。お寺から3文(もん)、100文と銭を借りたとすると、翌年に借りた倍の6文、200文を返すという習わしであり、信者は決まって「倍返し」したものだった。

 ある年の初午の日、年の頃なら23、4歳の質素な身なりをした男が水間寺へやってきて、「借り銭を一貫文(いっかんもん)欲しい」と言った。一貫文とは1両の4分の1、すなわち1000文(実際は960文)である。寺の役人は例のない高額で驚いたが、きっと倍返しをしてくれるだろうからと一貫文を渡したところ、男は借りたまま行方が分からなくなってしまった。

 じつはこの男は、江戸の小網町(こあみちょう。中央区日本橋)のはずれで船問屋(ふなどんや)「網屋(あみや)」をしている者であった。水間寺で金を借りて、漁師たちに貸付けようと考えていたのである。江戸に戻った男は、「仕合丸」と書いた引出しに水間寺の銭を入れておき、漁に出る漁師たちに、これは水間寺で借りた縁起がいい金だからと言って貸付けていた。その噂(うわさ)が広がって、漁師たちは100文借りたなら、無事に漁から帰ったら倍の200文を返すという具合に、倍返しが定着した。そして13年目になると、それが積もり積もって、8192貫文(819.2万銭)にまで増えた。

 そこで男は、この銭8192貫文を「通し馬」(東海道を江戸から泉州まで同じ馬で運ぶ)で水間寺まで運び、お礼参りをしたのである。

  初午の日に借りた1貫文が、13年目におよそ8000倍、当時の換金レートにすると2048両に膨れあがった。ちなみに、これを西鶴は逆に、「借銀(かりがね)の利息程おそろしき物はなし」と慨嘆している。今でもローンの複利計算の利息は「おそろしき物」であろう。

 さて、この男は、江戸から大坂まで銭8192貫文を返しに行くのに205頭の馬を連ねて行った。当時、駄馬(だば。荷物を専門に運ぶ馬)1頭に積める荷は40貫(約150㎏。銭は約4万文を積める)と決められているから、銭8192貫文を運ぶには205頭の駄馬が必要となる。

 ふつう駄馬は、2里運んで42文、江戸と大坂は130里とされるから、この計算でゆくと、1頭あたり(130里÷2里=65)×42文=2730文(約0.68両)の経費がかかる。帰りの空馬代を合わせて、1頭につき1両ほど運賃がかかったとすると、雇った通し馬205頭なら205両になり、2048両運ぶのに205両の運送費がかかった計算となる。

  一方、定飛脚(じょうびきゃく)の江戸為替での送金は手数料が5、6%程度だから、5%で計算しても、2048両×5%=102.5両となり、江戸為替のほうが半分の割安になっていた。

 約2倍の経費をかけてまでなぜ馬で運んだと思うだろうが、そこには男の計算があったのである。

 つまり、たとえ輸送費が高くついても「網屋」の宣伝になると男は考え、通し馬で東海道をパフォーマンスしながら水間寺に銭を運んだ。そんな宣伝上手のアイディアマンだった故に、この男は、西鶴がいう「親の譲りを受けず、その身才覚にして稼ぎ出し」儲(もう)けて、「武蔵にかくれなし」と、今で言えば首都圏でも有名な富豪になったという。

  親譲りの資産がなくても金持ちになれたという例は、現代で言えばIT産業の起業家が莫大(ばくだい)な資産を築いたものに匹敵しよう。

  だが、小説のモデルになった「網屋」の栄華も長く続かず、その存在は早く人びとの記憶から消えてしまったと西鶴は結んでいる。ひょっとしたら現代のIT産業で富豪になった場合も、アイディアが続かないと、この男の二の舞になるかも知れない。≫


7-8 芹摘みに出て孫もるす彦も留守 

 季語は「芹(摘み)」(三春)
≪【子季語】根白草、根芹、田芹、芹摘む、芹の水
【解説】芹は春の七草の一つで、若菜を摘んで食する。七草粥が代表的だが、ひたし、和え物にしたり香味料として吸い物に用いたりする。
【科学的見解】芹(セリ)は、在来の植物であり、田圃や池付近など湿り気のある場所に生育する。花期は、七月~八月であり、小さな白い花がたくさん集まった花序を形成する。名前は、水辺に群がって「競り(せり)」合うように増え、また花が咲くと草丈を「競り(せり)」合うことに由来する。(藤吉正明記)
【例句】
我がためか鶴はみのこす芹の飯  芭蕉「続深川」
これきりに径尽たり芹の中  蕪村「蕪村俳句集」 ≫(「きごさい歳時記」)

 句意は、春の七草の芹を所望と、訪ねた先の、その家の主「彦」さんこと「「山の神」の女性たちも、その「お孫」さんの子供たちも、「皆みなさん」留守でごわすわい。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/08/7-57-8.html

喜多川歌麿「絵本四季花」より『若菜摘み』/寛政13年〈1801年〉/(ボストン美術館蔵)

https://www.benricho.org/koyomi/nanakusa-wakana.html

(追記)

 この句自体では、「芹(摘み)」(三春)の句ということになるが、上記の「若菜摘み」(歌麿画)になると、「若菜摘(わかなつみ)」(新年)そして「子の日遊び」(新年)の光景となってくる。そして、掲出句の、「孫もるす彦も留守」というのは、何か仕掛けのある句のようで、この「彦」は、「山彦」=「山の神」(口やかましくなった女房)などの意が隠されているような雰囲気である。

「若菜摘(わかなつみ)」(新年)

≪【解説】一月七日の七種の菜を摘むこと。古くから正月はじめての子の日に若菜を摘む習慣があったが、後に、七種に合わせて一月六日の行事になった。
【例句】
畠より頭巾よぶなり若菜つみ    其角「鳥の道」
ととははやす女は声若しなつみ歌  嵐雪「虚栗」
山彦はよその事なりわかな摘    千代女「千代尼句集」 ≫(「きごさい歳時記」)
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第七 かみきぬた(7-2~7-4) [第七 かみきぬた]

    駒宮如岡を悼(いた)みて
7-2 露霜に手を合(せ)たる紅葉哉
 この前書の「駒宮如岡」と抱一の関係は不明だが、その追悼句であり、掲出句は、手の込んだ仕掛けのある句ではなく、「露霜」(晩秋)と「紅葉」(晩秋)との、「古歌」などを踏まえての「取り合わせ」の一句と解したい。

露霜の消やすき我が身老いぬともまた若反り君をし待たむ 『万葉集(巻12-3043)』

(露や霜のように消えやすいわが身ですが、たとえ老いてもまた若返り、あなた様を待とうと思います。)

https://manyoshu-japan.com/10535/

朝霜の消ぬべくのみや時なしに思ひわたらむ息の緒にして 『万葉集(巻12-3043)』

(朝霜はたやすく消えていくが、そのようにはかなく消えてゆくのみだろうかこの恋は。時を定めず恋い続けるだろう細々と。)

https://manyoshu-japan.com/10533/

こころとて人に見すべき色ぞなきただ露霜の結ぶのみにて<道元:傘松道栄>

(こころは元来無色、露霜も無色、色なき世界に色なきものが消滅するのみ)

https://suikan.seigasha.co.jp/mado54.htm

 この抱一の句は、「露霜」(晩秋)と「紅葉」(晩秋)と、季語が二つの「季重なり」の句で、さらに、「句切れ」からすると、「二句切れ」(二句一章体)とも、「句切れなし」(一句一章体)の句とも取れる、独特の構成を有している句とも言える。

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/08/7-27-4.html


「句切れ」(「ウィキペディア」)

露霜に・手を合(せ)たる/紅葉哉 (「二句切れ」)

露霜に・手を合(せ)たる・紅葉哉/ (「句切れなし」)

 この中七の「手を合(せ)たる」というのは、追悼する作者(抱一)の所作で、これを、上記の「句切れなし」の句とすると、「紅葉が・手を合(せ)たる」と、やや、自然の流れのようには思われない。

 また、季語の働きからすると、「二句切れ」でも、「句切れなし」でも、下五の「紅葉」が、主たる季語で、上五の「露霜」は、それを補完する、従たる季語ということになろう。

「句意」は、「『露霜』が一面を白覆っている。それは、忽然と亡くなった『駒宮如岡』が、姿を変えて現れたようにも思われる。しみじみと合掌し、在りし日の『駒宮如岡』を追悼する。眼を転ずれば、ことごとく、『紅葉』の世界である。」


    箕輪石川矦(候)口切出し
    給ふときゝて
7-3 軒にけふはこび手前の時雨哉

 この前書の「箕輪石川矦(候)口切出し/給ふときゝて」は、『軽挙館句藻』に、「箕輪石川候日向守口切出し給ふときゝて」とあり、「伊勢亀山藩の第4代藩主・伊勢亀山藩石川家9代:『石川 総博(いしかわ ふさひろ)』(宝暦9年(1759)~文政2年(1819))」の「箕輪」の屋敷での「口切り茶事」関連の句ということになる。

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/08/7-27-4.html

「今戸箕輪・石川日向守の屋敷(「池波正太郎「「鬼平犯科帳」の短編「五月闇」)

https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/323360

 掲出の句の季語は、「時雨」(初冬)。「冬の初め、降ったかと思うと晴れ、また降りだし、短時間で目まぐるしく変わる通り雨。この雨が徐々に自然界の色を消して行く。先人達は、さびれゆくものの中に、美しさと無常の心を養ってきた。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

一時雨礫や降て小石川 芭蕉「江戸広小路」

行雲や犬の欠尿(かけばり)むらしぐれ 芭蕉「六百番俳諧発句合」

草枕犬も時雨るかよるのこゑ 芭蕉「甲子吟行」

この海に草鞋(わらんぢ)捨てん笠時雨 芭蕉「皺箱物語」

新わらの出そめて早き時雨哉 芭蕉「蕉翁句集」

「口切り」(くちきり)/初冬。「その年の新茶を葉のまま陶器の壺に入れ、口を封じて保存する。冬にその封を切り、茶臼でひいて茶をたてる。口切の茶事として客を招いてふるまう。もっとも晴れがましい茶会として、しつらいや装いに気を配る。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

口切に堺の庭ぞなつかしき 芭蕉「深川」

口切のとまり客あり峰の坊 太祗「石の月」

口切りや湯気ただならぬ台所 蕪村「落日庵句集」

口切りの庵や寝て見るすみだ河 几董「井華集」

口切りや寺へ呼ばれて竹の奥 召波「春泥発句集」

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/08/7-27-4.html

「口切り茶事ご案内状」

https://ameblo.jp/koisuruchakai/entry-12650644272.html

「句意」は、「近くの、今戸箕輪の石川日向守の屋敷から、口切り茶事の案内状が届いた。折から、その茶事に相応しい時雨模様で、その茶事が行われる茶室の風情が、ありありと偲ばれてくる。」

    歳暮
7-4 鷹の棲む山は霞むかとし樵

 季語は、前書の「歳暮」を受けての「とし樵(年木樵)」(暮・仲冬)。「年内に、新しい年に使う薪を伐りだして来ること。伐り出した薪を年木といい、その山を年木山という。伐った木を里へ舟で運ぶこともあって、その舟は年木舟。薪は家裏などに積んで新年を迎えた。年用意のひとつである。」(「きごさい歳時記」)

 「鷹」(三冬)も「霞」(冬霞=三冬)も季語だが、ここは、「鷹が住む冬霞で茫々とした深山」の意で、「とし樵(年木樵)」(暮・仲冬)の補完的な用例である。

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/08/7-27-4.html

「樵夫蒔絵硯箱」(伝本阿弥光悦/江戸時代(17世紀)/一具 縦24.2㎝ 横23.0㎝ 総高10.1㎝/MOA美術館蔵)

https://www.moaart.or.jp/?collections=203

≪ 蓋の甲盛りを山形に高く作り、蓋と身の四隅を丸くとったいわゆる袋形の硯箱である。身の内部は、左側に銅製水滴と硯を嵌め込み、右側を筆置きとし、さらに右端には笄(こうがい)形に刳(く)った刀子入れを作る。蓋表には、黒漆の地に粗朶を背負い山路を下る樵夫を、鮑貝・鉛板を用いて大きく表す。蓋裏から身、さらには身の底にかけて、金の平(ひら)蒔絵の土坡(どは)に、同じく鮑貝・鉛板を用いてわらびやたんぽぽを連続的に表し、山路の小景を表現している。樵夫は、謡曲「志賀」に取材した大伴黒主を表したものと考えられる。樵夫の動きを意匠化した描写力や、わらび・たんぽぽを図様化した見事さには、光悦・宗達合作といわれる色紙や和歌巻の金銀泥(きんぎんでい)下絵と共通した趣きがみられる。また、鉛や貝の大胆な用い方や斬新な造形感覚からは、光悦という当代一流の意匠家が、この制作に深くかかわっていることが感じられる。原三渓旧蔵。≫

「句意」は、「この歳暮に、鷹の棲む冬霞で茫々とした深山に入り、年用意の薪の年木を切り出して、それを背負いながら、その深山から里へと向かっている。」
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第六 潮のおと(6-27~6-30) [第六 潮のおと]

    初幟を祝ひて
6-27 犗(ウシ)を餌に釣上げたりな吹ながし

 季語は「吹きながし」(初夏)。「犗(うし・カイ)」=去勢された牛。[字音] カイ、[字訓] うし。」(「普及版 字通」)

 前書の「初幟を祝ひて」は、「男児の初節句を祝って立てる幟。また、その祝い」のこと。掲出句の「吹きながし」は、下記の「武家の端午の節句(尚武の節句)」=「五色の吹き流し+家紋の幟+絵幟(「鍾馗」幟など)の「五色の吹き流し」で、「商家の端午の節句(鯉のぼり)=鯉の吹き流し)」ではない。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-276-30.html


歌川広重(初代)「名所江戸百景/水道橋駿河台/大判錦絵 /安政4年(1857)」(国立国会図書館デジタルコレクション)

https://rnavi.ndl.go.jp/imagebank/data/post-42.html

https://hiroshige-ena.jp/collections/major-works/7

≪《名所江戸百景》は、広重の絶筆となった揃物です。近接拡大したモティーフを手前に描き極端なまでに遠近を強調する構図は、晩年の広重が多用したものです。現在“子どもの日”として馴染み深い端午の節句ですが、庶民にも親しまれる行事として広まったのは江戸時代のこと。端午の節句は古代中国の行事に由来し、日本では厄払いの儀式と結びつき、中世に入って男児の成長を祝う節句として定着していきました。画中の遠景に見えるように、江戸の武家屋敷では五色の吹き流しや幟(のぼり)を立てました。その前面に鯉のぼりが、ひときわ大きく描かれています。町人の家では幟飾りを揚げることが禁じられていたため、代わって鯉のぼりが立てられるようになりました。鯉のぼりは5月の江戸の風物詩でした。富士山よりも高く、力強く天に上るこの作品の鯉の姿は、安政の大地震(1855年発生)の被害を受けた町の復興を象徴しているともいわれています。≫(「中山道広重美術館」解説)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-276-30.html

左:歌川広重画「水道橋駿河台(全体図)」=「商家の端午の節句(鯉のぼり)=鯉の吹き流し)

右:同上の「部分図」=「武家の端午の節句(尚武の節句)」=「五色の吹き流し+家紋の幟+絵幟(「鍾馗」幟など)

「句意」は、「五月の端午の節句に、江戸の市中では、『鯉の吹き流し』が威勢良いが、ここ、旗本の武家の、端午の節句(尚武の節句)では、去勢された牛を餌に釣り上げたような、『鯉のぼり』に非ざる『形なき巨大な吹き流し』のみが、風に靡いている。」


6-28 やよ水鶏さいたる門を敲とは

 「季語」は、「水鶏」(三夏)。「夏、水辺の蘆の茂みや水田などに隠れて、キョッキョッキョキョと高音で鳴く鳥。古来、歌に多く詠まれてきたのは緋水鶏で、その鳴声が、戸を叩くようだとして『水鶏叩く』といわれる。」(「きごさい歳時記」)

(参考歌)

水鶏だにたゝけば明くる夏の夜を心短き人や帰りし 「よみ人しらず『古今六帖』」
水鶏だに敲く音せば槙のとを心遣にもあけて見てまし「和泉式部『家集』」

「水鶏はたたく」=「くひなのうちたたきたるは 誰が門さしてとあはれにおぼゆ」(紫式部「源氏物語」) 

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-276-30.html

「水鶏にだまされて・部分図 (石川豊信)」({高橋浮世絵コレクション})
https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/ukiyoe/1527

≪ 「だまされて姿はつかし水鶏(くいな)かな」 蚊帳の中から出て立つ、あられもなき姿の女。手に団扇をもち、気ぜわしく寝所から出てきたようすがうかがわれる。夏の鳥である水鶏は、古来「叩く」と形容される鳴き声で知られるところから、図は待ち人が来て戸を叩く音と鳥の鳴き声を勘違いした女の心模様と仕草とを、絵画化したものとわかる。 石川豊信は奥村政信の影響を受けながら人気絵師の仲間入りを果した。紅摺絵と呼ばれる簡素な色摺版画の時代に、本図のようにセクシャルな「あぶな絵」を含む数多くの美人画を世に送り出している。≫(「慶応義塾大学メディアデジタルコレクション」)

「句意」は、「『水鶏はたたく月下の門』、今、まさに、水鶏が、この狭い、水の裂け目を叩いている。」


6-29 突ふるせ神の切けん此藜(あかざ)

季語=「藜(あかざ)」(三夏)=「藜(アカザ)は、北海道から沖縄まで全国的に分布するアカザ科の一年草で、若葉には赤色の粉粒が密集するのでわかりやすい。人里周辺の畑や荒地などで見られる。茎は乾燥すると固くなるため、昔から杖として利用されてきた。近縁の種としては、葉が白くなるシロザが存在する。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

やどりせむ藜の杖になる日まで  芭蕉「笈日記」
おもひ出や藜の杖の肩過ぎぬ   大魯「題葉集」

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-276-30.html

漱石自筆の猫画「あかざと黒猫図」=神奈川近代文学館蔵

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20160520003948.html

子規の「藜」の句

https://fudemaka57.exblog.jp/25786955/

しくるゝや藜の杖のそまる迄  「子規・ 時雨」
わびしさや藜にかゝる夏の月  「子規・夏の月」
五月雨は藜の色にしくれけり  「子規・五月雨」
五月雨は藜の色を時雨けり   「子規・五月雨」
空寺や藜箒木など茂る     「子規・草茂る」
箒木にまじりて青き藜哉    「子規・藜」
老かはで藜の杖にのこしけり 「子規・ 藜」

「句意」は、「この神が切り割いて作ってくれた」、この『藜(あかざ)の杖』よ、どうか、この旅路の最期まで、突き古していただきことよ。」


6-30 売薬が黒き扇の暑かな

 季語は「暑さ(し)」(三夏)。「売薬」は、「あらかじめ調剤しておいて売る薬、また、その薬売る人」のこと。「黒き扇」は、「黒い(「厄災から身を守る」という意があるとされる)、紙扇の『夏扇』」で『蝙蝠扇』(「蝙蝠」=「コウモリ」=「幸守り・幸盛り」で吉祥ものの意もあるとされている)ともいわれる。

「句意」は、「この暑さの『売薬』には、何はともあれ、身近にある、『災厄から身を守る』という「黒い」、そして、団扇ではなく、『幸守り・幸盛り』の意が込められているという『蝙蝠扇』で、当面凌ぐとするか。」

 この抱一の句は、其角の「まんぢうで人を尋ねよ山ざくら」(『去来抄(「同門評」)』) の句に関連しての、「聞句(ききく)」(「謎句」「謎句仕立て」など)の系統に属する句で、句意が人によって、色々に取れる、多義性の「句作り」といえよう。そして、この「謎句」については、その背景に、その時代の「世相・風俗」などの「風刺」的な作意と深く関与しているものが多く、この句も、当時の、次の「枇杷葉湯(ようとう)売り」(鍬形蕙斎画)などと深く関与している一句なのかも知れない。

 ちなみに、この「枇杷葉湯(ようとう)売り」を描いた「鍬形蕙斎」(浮世絵師・北尾政美)は、「太田南畝・亀田鵬斎・谷文晁」らと共に、抱一と深い関係にある「八尾善」(『江戸流行料理通』発刊)の常連メンバーの一人でもある。

(参考)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-276-30.html

「近世職人尽絵詞」中「枇杷葉湯売り」(鍬形蕙斎画)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/481541

https://ameblo.jp/tachibana2007/entry-10309097502.html



≪ 「江戸の生業・枇杷葉湯売り」 

  枇杷黄なり空はあやめの花曇り  素堂

 江戸の頃は現在では考も及ばないような商いがいくつかあります。そのひとつが枇杷葉湯(ビワヨウトウ)売りです。

 広辞苑によれば、

『ビワ』の葉に肉桂・甘草・莪蒁(がじゅつ)・甘茶などを細かく切って混ぜ合わせたもの煎汁。清涼飲料として用い、暑気あたりや痢病を防ぐ効能がある。京都烏丸に本家があり、江戸では馬喰町山口屋又三郎の店がこれを扱い宣伝用に路傍で無料で飲ませた』

 とありますが、天明元年(1781年)には、江戸の街を売り始めたといいます。

  『真っ黒になって商う烏丸』(柳多留57)
  『真っ昼間目ばかり光る烏丸』』(柳多留121)

 4月上旬から8月下旬までの商いです。

  『売りながら枇杷葉湯は達くらみ』(俳諧ケイ20)

 中には夏の暑さにあてられる枇杷葉湯売りも出ます。

 精選版 日本国語辞典 小学館)には

『山口屋又三郎が販売した。「本家京都烏丸、枇杷葉湯山口又三郎」と記した長方形の箱の中に、茶釜・茶碗などを入れ、天秤で担いで、往来で煎じて飲ませた…、店頭に調整していたものを通行人には無料で飲ませた』 とあります。 (以下略)  ≫
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第六 潮のおと(6-21~6-26) [第六 潮のおと]

    是齢文化丙寅春二月二十九日
晋子の百年忌たるにより、
肖像百幅を畫き、上に一句を
題して人々にまゐらせける
又追幅の一句をなす。
6-21 囀れや魔佛一如の花むしろ
6-22 田から田に降りゆく雨の蛙かな
6-23 護田鳥の鳴く木屋が置場や宵の月
6-24 剖葦や燈火もるゝ夜の川
6-25 鷲の棲む其木末とは柏餅
6-26 さきのぼる葵の花や段階子


    是齢文化丙寅春二月二十九日
    晋子の百年忌たるにより、
肖像百幅を畫き、上に一句を
題して人々にまゐらせける。
又追幅の一句をなす。
6-21 囀れや魔佛一如の花むしろ

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-30

(再掲)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-216-26.html

酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇
≪「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 この著者(井田太郎)が、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情』(岩波新書一七九八)を刊行した(以下、『井田・岩波新書』)。

 この『井田・岩波新書』では、この「其角肖像百幅」について、現在知られている四幅について紹介している。

一 「仏とはさくらの花の月夜かな」が書かれたもの(伊藤松宇旧蔵。所在不明)
二 「お汁粉を還城楽(げんじょうらく)のたもとかな」同上(所在不明)
三 「夜光るうめのつぼみや貝の玉」同上(上記の図)
四 「乙鳥の塵をうごかす柳かな」同上(『井田・岩波新書』執筆中の新出)

 この四について、『井田・岩波新書』では、次のように記述している。

【 ここで書かれた「乙鳥の塵をうごかす柳かな」には、二つの意味がある。第一に、燕が素早い動きで、「柳」の「塵」、すなわち「柳絮(りゅうじょ)」(綿毛に包まれた柳の種子)を動かすという意味。第二、柳がそのしなやかで長い枝で、「乙鳥の塵」、すなわち燕が巣材に使う羽毛類を動かすという意味。 】『井田・岩波新書』

 この「燕が柳の塵を動かす」のか、「柳が燕の塵を動かす」のか、今回の『井田・岩波新書』では、それを「聞句(きくく)」(『去来抄』)として、その「むかし、聞句といふ物あり。それは句の切様、或はてにはのあやを以て聞ゆる句也」とし、この「聞句」(別称、「謎句」仕立て)を「其角・抱一俳諧(連句・俳句・狂句・川柳)」を読み解く「補助線」(「幾何学」の補助線)とし、その「補助線」を補強するための「唱和と反転」(これも「聞句」以上に古来喧しく論議されている)を引いたところに、この『井田・岩波新書』が、これからの「井田・抱一マニュアル(教科書)」としての一翼を担うことであろう。

 そして、次のように続ける。

【 これに対応する抱一句が、第一章で触れた「花びらの山を動かす桜哉」(『句藻』「梶の音」)である。早くに詠まれたこの句は『屠龍之技』「こがねのこま」にも採録され、『江戸続八百韻』では百韻の立句にされており、抱一自身もどうやら気に入っていたとおぼしい。句意は、大きな動きとして、桜の花びらが散れば、桜花爛漫たる山が動くようにみえるというのが第一。微細な動きとして、桜がさらに花弁を落とし、すでにうず高く積もった花弁の山を動かすというのが第二。

 燕の速度ある動きと柳の悠然たる動き、桜の大きな動きと微細な動き、両句ともに、こういった極度に相反する二重の意味をもつ「聞句」である。また、有名な和歌「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」(『古今和歌集』巻第一)をはじめとし、柳と桜は対にされてきたから、柳を詠む其角に対し、意図的に抱一が桜を選んだと考えられる。抱一句は全く関係のないモティーフを扱いながら、其角句と見事に趣向を重ねているわけで、これは唱和のなかでも反転にほかならないと確認される。 】『井田・岩波新書』

  乙鳥の塵をうごかす柳かな  其角 (『五元集』)
  花びらの山を動かす桜哉   抱一 (『屠龍之技』)

 この両句は、其角の『句兄弟』(其角著・沾徳跋)をマニュアル(教科書)とすると、「其角句=兄句/抱一句=弟句」の「兄弟句」で、其角句の「乙鳥」が抱一句の「花びら」、その「塵」が「山」、そして「柳」が「桜」に「反転」(置き換えている)というのである。

 そして、其角句は「乙鳥が柳の塵を動かすのか/柳が乙鳥の塵を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」だとし、同様に、抱一句も「花びらが桜の山を動かすのか/桜が花びらの山を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」というのである。

 さらに、この両句は、「其角句=前句=問い掛け句」、そして「抱一句=後句=付句=答え句」の「唱和」(二句唱和)の関係にあり、抱一は、これらの「其角体験」(其角百回忌に其角肖像百幅制作=これらの其角体験・唱和をとおして抱一俳諧を構築する)を実践しながら、「抱一俳諧」を築き上げていったとする。

 そして、その「抱一俳諧」(抱一の「文事」)が、江戸琳派を構築していった「抱一絵画」(抱一の「絵事」)との、その絶妙な「協奏曲」(「俳諧と絵画の織りなす抒情」)の世界こそ、「『いき』の構造」(哲学者九鬼周三著)の「いき」(「イエスかノーかははっきりせず、どちらにも解釈が揺らぐ状態)の、「いき(粋)の世界」としている。

 さらに、そこに「太平の『もののあわれ』」=本居宣長の「もののあわれ」)を重奏させて、それこそが、「抱一の世界(「画・俳二道の世界」)」と喝破しているのが、今回の『井田・岩波新書』の最終章(まとめ)のようである。   ≫

 掲出句の前書の「是齢文化丙寅春二月二十九日晋子の百年忌たるにより、肖像百幅を畫き、上に一句を題して人々にまゐらせける。又追幅の一句をなす」の「文化丙寅春二月二十九日」は、「文化三年(一八〇六)二月二十九日」、抱一、四十六歳の時である。

 この句もまた、季語が、上五の「囀れ(囀り)」(三春)と、下五の「花むしろ(筵)」(晩春)

と二つあるが、主たる季語は、上五「や切り」の「囀れ(囀り)」(三春)と解したい。

 この中七の「魔佛一如」は、「魔界の魔王と仏界の仏とは全く同一であって、別のものではない」(『仏教語大辞典』)の意で、「魔仏一如絵詞(詞書5段,絵4段)」や、謡曲「善界」の「もとより魔仏一如にて凡聖不二なり」などに由来があるようである。

 其角没後の追善集『類柑子』に収載されている「歌の島幷恋の丸」にも、「風雅の狐狸なれば、弶(わな)をのがれて産業となる事、和光同塵のことはり、魔仏一如の見ゆる成べし」という一節があり、それを踏まえてのものとの解もある(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)。

「句意」は、「魔仏一如のごとく、魔の花も仏の花も、皆々咲き誇る一面の花野に、一筋の光明を照らすように、高らかな囀りを聞かせてほしい。(その「囀り」は、「晋子終焉記」(『類柑子』)所収)の「其角」先師の一声に違いない。)」



6-22 田から田に降りゆく雨の蛙かな

此(この)ほたる田ごとの月にくらべみん (芭蕉「元禄元年/1688/みづのかほ」)
元日は田ごとの日こそ恋しけれ      (芭蕉「元禄2年/1689/真蹟懐紙」)
帰る雁(かり)田毎の月のくもる夜に    (蕪村「年次未詳/1775/蕪村句集」)
さみだれや田ごとの闇と成にけり     (蕪村「安永4/1775/新花摘」)
さつき雨田毎の闇となりにけり      (蕪村「安永4/1775/蕪村句集」)
落水(おとしみず)田ごとのやみとなりにけり(蕪村「安永4/1775/自筆句帳」)
月に聞(きき)て蛙(かわず)ながむる田面(たのも)哉(蕪村「安永4/1775/自筆句帳」)

 掲出句の「季語」は「変える(買わず)」(見張る)。「宝谷」というイメージは、芭蕉の「田ごとの月・田ごとの日」、そして、蕪村の「田毎の月・田ごとの闇/さみだれと田ごと・さつき梅と田毎/田毎の月と蛙」などの「本句取り」(唱和と反転化)の一句として鑑賞もあろう。

「句意」は、「ここ隅田川近郊の千束の里にも、田に水が張られ、蛙が一斉に鳴き始める季節となった。殊に、降り続く雨の田は、これぞ、田から田へ、田ごとの『蛙』の合唱の趣である。」


(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-216-26.html

歌川広重【六十余州名所図会 信濃 更科田毎月 鏡台山】
https://matsutanka.seesaa.net/article/387138900.html


6-23 護田鳥(ばん)の鳴く木屋が置場や宵の月

 季語は「護田鳥(うすべ)・鷭(ばん)の古名・溝五位(みぞごい)の異名」(「鷭」=三夏)。「鷭の笑い(ひ)」=「鷭の低い鳴き声を笑い声に例えた言い回し」=「鷭(バン)の体長はハトくらいの大きさ。腋と下尾の白斑が目立つ。全国の池、湖沼、水田、湿地等で繁殖する。草の中や水辺を歩いたり水を泳いで餌を漁る。尾を高く上げクルルクルルとよく鳴きながら泳ぎ、水面を足で蹴って助走してから飛び立つ。この草の中でクルルクルルと鳴く声は『鷭の笑い』と言われてきた。(「増殖する俳句歳時記/ May 13・2016)」

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-216-26.html

絵本江戸土産の第二編の『深川木場(ふかがわきば)』」(初代「広重」画)

http://arasan.sakura.ne.jp/wpr/?p=339

≪「この辺、材木屋の園(その)多きにより、名を木場(きば)という。その園中(えんちゅう)おのおの山水(さんすい)のながめありて風流の地と称せり。」≫

「句意」は、「ここ深川の木屋の置き場には、夏の宵の月が掛かっている。折から、水辺の鷭(ばん)が、『クルルクルル』と、『日がクルルクルル』とも、『クルルクルル・ケケケッ』と『鷭の笑い声』のようにも聞こえて来る。」


6-24 剖葦や燈火もるゝ夜の川

 この句の季語は、次句が「柏餅」(初夏)の句で、それからすると、この上五の「剖(割き・さき)葦」は、「青葦簾=青簾」(三夏)と解したい。下五の「夜の川」との「取り合わせ」の句と解すると「納涼船」(晩夏)の「青簾」の

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「『東京二十景」より 荒川の月(赤羽)』」(「川瀬巴水 (1883-1957)画/東京国立近代美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/53038

「句意」は、「青葦の漉き割りする家の燈火も、納涼船の青簾の燈火も、今、まさに、この夜の、隅田川(旧荒川)の面に、漏れ照らしている。」


6-25 鷲の棲む其木末とは柏餅

 季語は「柏餅」(初夏)。「鷲」も「三冬」の季語だが、ここは、「柏餅」(初夏)の、「鷲の棲む其木末(梢)」で、季語の働きはしていない。

 この句の、上五と中七の「鷲の棲む其木末」とは、次の凡兆の句が相応しい。(「きごさい歳時記」)

鷲の巣の樟の枯枝に日は入ぬ   凡兆「猿蓑」

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-216-26.html

「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」(「歌川広重」画/東京富士美術館蔵)

https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=10184

「句意」は、「ここ、江戸、深川洲崎十万坪の、それを支配する、鳥の王者・『大鷲の棲む木末』には、『五月冨士』ならず『五月の柏餅』が、時節的に似つかわしい。。」


6-26 さきのぼる葵の花や段階子

 季語は「葵の花」(仲夏)。「段梯子(「だんばしご)」は、「幅の広い板をつけたはしご状の階段」のこと(「デジタル大辞泉」)。この句は、「見立て」(「俳諧で、あるものを他になぞらえて句をつくること」)の面白さを狙っての一句と解したい。

「句意」は、「葵の花が、中天に向かって、段梯子のように、上へ上へと、咲き上っている。」

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-216-26.html

酒井抱一筆「立葵紫陽花に蜻蛉図」(「十二か月花鳥図・六月」・宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
https://my-art.jp/?mode=f9
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第六 潮のおと(6-16~6-20) [第六 潮のおと]

    霜葉紅於二月花
6-16 もみぢ折人や車の酔ざまし

(画像)→http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-166-20.html

『山行』杜牧
http://chugokugo-script.net/kanshi/sankou.html

 前書の「霜葉紅於二月花」は、杜牧(とぼく)の「山行(さんこう)」の、次の七言絶句の第四句のものである。

遠上寒山石径斜 (遠く寒山に上れば石径《せっけい》斜《ななめ》なり)
白雲生処有人家 (白雲生ずる処《ところ》人家有り)
停車坐愛楓林晩 (車を停めて坐《そぞろ》に愛す楓林の晩)
霜葉紅于二月花 (霜葉は二月の花よりも紅《くれない》なり)

 「霜葉」は「霜にあたった葉」で紅葉した葉っぱのこと、「二月の花」は「旧暦二月のころ咲く花」(桃の花)の意である。

 掲出の句の季語は「もみぢ」(紅葉)、「晩秋」の季語である。この中五の「人や車の」は、「山行」(杜牧)の三句目の「停車坐愛楓林晩 (車を停めて坐《そぞろ》に愛す楓林の晩)」を踏まえてのものなのであろう。その漢詩に、謡曲「紅葉狩り」の詞章の「。夢ばし覚ましたもうなよ.夢ばし覚まし.たもうなよ。」などわ利かせていると解せられる。
 また、上五の「紅葉折る」というのは、「紅葉を折る」という動作というよりも、「紅葉狩り」(「紅葉見に出て、愉しむ」)という意での用例なのであろう。

「句意」は、「漢詩『山行』(杜牧)の『霜葉紅於二月花』よろしく、紅葉狩りに出かけて、ついつい、その紅葉のように赤ら顔となり、乗り物から降りて、酔い覚ましをしていると、謡曲の『紅葉狩り』の、「夢ばし覚ましたもうなよ.夢ばし覚まし.たもうなよ」などのセリフが口を突いて出てくる。」


    歳暮
6-17 ちよと鳴けとしくれ竹の庭雀

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-10

(再掲)

(画像)→http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-166-20.html

酒井抱一筆「竹雀図」(『絵手鑑帖・七十二図・静嘉堂文庫美術館蔵』の五十四図)
紙本墨画淡彩 「抱一筆」(墨書) 「文詮」(朱文内瓢外方印) → C図
【 このような様々な主題・技法の作品を寄せ集めた作品形式のひとつのアイディアとして、『光琳百図(後編)』所載の雑画セット全二十四図をあげておきたい。このセットの形状は画帖であったかは不明ながら、そのなかに「富士山図」「竹雀図」「寒山拾得図」「大黒天図」「梅図」「芙蓉図」などが含まれ、様式は抱一の『絵手鑑』と異なるものの、主題など共通点も多い。もちろん『絵手鑑』は江戸時代の画帖の大きな流れのなかに位置する作品であるが、光琳のこのような作品からも形式や編集の方法を学んでいるのではないかと思われる。 】(『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「静嘉堂文庫美術館蔵 酒井抱一筆『絵手鑑』について(玉蟲敏子稿)」)

 掲出の句の季語は、中七の「としのくれ竹」の「年の暮れ(歳暮)」(暮・仲冬)。この「年の暮れ(歳暮)」と「くれ(呉)竹=呉竹=中国から伝来した竹の一種=くれたけ=こちく(胡竹)=それで作った横笛」とを掛けての用例である。
 この上五の「ちよと鳴け」の「ちよ」も、雀の鳴き声の「ちよ」と、「行く年・来る年」の、次の「新しい年も『千代(千世)』=『千年。また、非常に長い年月。ちとせ』に『永久の栄え』よ」との意が掛けられている。

「句意」は、「この歳暮の草庵の狭庭の呉竹に群れ雀が鳴いている。その「ちよ・ちょ」との鳴き声は、この「太平の世が永久に栄あれ」と、「ちよ(千代)に・やちよ(八千代)に」と鳴いている。」


    読王充論衝
6-18 わか草や鶴の踏(ふみ)たる跡は皆

≪ 三つ典拠がある。第一は、『論衝(ろんこう)累害(るいがい)篇の「牛馬根を践(ふ)み、刀鎌(たうけん)を割れば、生ぜし者育たず」である。同書は,後漢の王充が『論語』など先行する思想書に反駁を唱えたものである。第二は、北宋の林和靖が仕官せぬまま、隠棲して生涯娶らず、梅を妻とし、鶴を子としたという故事である。第三は、貞享三年(一六八八)、其角が新年を悠然と歩む鶴を詠んだ「日の春をさすがに鶴の歩み哉」(『丙寅初懐紙』)である。
 抱一句は、「牛馬が根を踏みつけたら万物は育たないが、鶴が歩んだあとからは若草が生えている」と『論衝』を反転している。この鶴を介して、林和靖から隠遁、其角から新年のめでたさへと連想は広がるのだが、『論衝』の累害篇そのものは色あいが異なる。累害とは中傷を意味し、この一篇は累害について思索をめぐらせ、吉祥性とは径庭(けいてい)がある。抱一は出家したのち、市井をさまよっていた時期の句であることを知る後世の立場からは、中傷されて出家、隠遁したが、文人的な生活を送ることで再生し、なんとかるでたく春を迎えた、と一抹の苦さを観察したくなる。
 林和靖は西湖(浙江省)のほとり、抱一は浅草寺の弁天池あるいは隅田川のほとり、ともに水辺に隠れ住んだことも重ねられているのかもしれない。実感に裏打ちされた抱一自身の陰翳が、韜晦の彼方に見えるような一句である。陰翳に満ちた場と、それに応ずるような内たる陰翳。抱一において、『論衝』が推奨した詩歌を学習する効果は、其角を通じ、このように開花していったのである。≫(『酒井抱一(井田太郎著・岩波新書)』p134)

 掲出の句の季語は「わか草=若草」(晩春)なのだが、其角の「日の春(三春→新年)をさすがに鶴(三冬)の歩み哉」(丙寅初懐紙)の「本句取り」(「唱和」と「反転」)の句と解すると、この「若草(晩春)→わか草(新年)」の「新年」の詠草となり、「若草」(晩春→新年)と「鶴」(三冬)との「取り合わせ」の一句ということになる。
「鶴」も季語(三冬)だが、この句の「鶴」は「若草(晩春)→わか草(新年)」を踏む鶴」で、季語の働きはしていない。
 この句は、前書の「読王充論衝」の意が分からないと、その真意は十全でないのかも知れないが、其角の「日の春(三春→新年)をさすがに鶴(三冬)の歩み哉」の「本句取り」(「唱和」と「反転」)の句と解しても、この句のイメージは伝わって来る。

  日の春をさすがに鶴の歩(あゆ)みかな  (其角)
  わか草や鶴の踏(ふみ)たる跡は皆    (抱一)

「句意」は、「若草の新芽が萌え出ずる、この新春の日に、鶴が悠然と歩いている。その姿は、冬の間に、その根を踏みつけないようにと、ゆったりと歩んでいたことを証するように、一面の若野と化している。」

(画像)→http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-166-20.html

安藤広重画「名所江戸百景」のうち「蓑輪 金杉 三河しま」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-11-21

初子の日、長浦とゆふ所にて
6-19 松眞木も引けや若菜の茹加減

 前書の「初子の日、長浦とゆふ所にて」の、「初子の日」は、「新年」の季語で、「正月の最初の子の日。古く、野外に出て小松引きをしたり、若菜を摘んだりして遊び、子の日の遊びと呼んだ。初子の日」のことである。そして、「長浦とゆふ所にて」は、「百花園」の近くの「長浦神社」(墨田区東向島)付近のことであろう。

(画像)→http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-166-20.html

喜多川歌麿「絵本四季花」より『若菜摘み』 寛政13年〈1801年〉 (ボストン美術館蔵)
https://www.benricho.org/koyomi/nanakusa-wakana.html

 掲出の句の季語は、「若菜」(新年)で、「七種粥に入れる菜の総称。新春の菜は香りが強く精気に満ちている。その気をいただいて、一年を健やかに過ごそうというのが七種粥。春の七草は芹、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、繁縷(はこべら)、仏の座、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)をいう。今ではパックにしてスーパーなどで売られている。」(「きごさい歳時記」)
 この句には、蕉門の、次の「例句」(「きごさい歳時記」)などが、似つかわしい。

(例句)
蒟蒻に今日は売かつ若菜哉   芭蕉「俳諧薦獅子集」
霜は苦に雪に楽する若菜哉   嵐雪「きれぎれ」
老の身に青みくはゆる若菜かな 去来「追鳥狩」
つみすてゝ踏付がたき若な哉  路通「猿蓑」

「句意」は、「今日は、新春の『初子の日』、「七種粥」の日だ、「芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、繁縷(はこべら)、仏の座、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)」と、ここ、東向島の『長浦神社』付近の野で摘んだんものだ。その「七種粥」も、丁度、良い「茹で上がりだ。」 そろそろ、松飾りの『松真木』も、御用納めの時だ。」


6-20 乙鳥の棚うちつけよ花のやど

(画像)→http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-166-20.html

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035815
(同上:部分拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-17

≪ 上図の中央は、枝垂れ桜の樹間の枝の合間を二羽の燕が行き交わしている図柄である。右側には「春(三)」の続きの地上に咲く黄色の菜の花、左側には、これまた、右側の菜の花に対応して、黄色の連翹の枝が、地上と空中から枝を指し伸ばしている。
この行き交う二羽の燕が、これまでの地面・地上から空中へと視点を移動させる。さらに、枝垂れ桜のピンクの蕾とその蕾が開いた白い花、それらを右下の黄色の菜の花と、左上下の黄色の連翹、さながら色の協奏を奏でている雰囲気である。その色の協奏とともに、この二羽の燕の協奏とが重奏し、見事な春の謳歌の表現している。

燕(仲春・「乙鳥(おつどり)・つばくら・つばつくめ・つばくろ・飛燕・濡燕・川燕・群燕・夕燕・初燕」)「燕は春半ば、南方から渡ってきて、人家の軒などに巣を作り雛を育てる。初燕をみれば春たけなわも近い。」
 燕来る時になりぬと雁がねは国思ひつつ雲隠り鳴く 大伴家持「万葉集」
 盃に泥な落しそむら燕      芭蕉 「笈日記」
 海づらの虹をけしたる燕かな   其角 「続虚栗」
 蔵並ぶ裏は燕の通ひ道      凡兆 「猿蓑」
 大和路の宮もわら屋もつばめかな 蕪村 「蕪村句集」
 夕燕我にはあすのあてはなき   一茶 「文化句帖」
 滝に乙鳥突き当らんとしては返る 漱石 「夏目漱石全集」  ≫

 「花の宿」(晩春・「花の咲き盛る家屋敷のこと」)も季語だが、この句の主たる季語は、上五の「乙鳥や」の「乙鳥」(仲春)で、この「花の宿」は、「花の咲き初めるころの家屋敷」の、仲春の景に解したい。
「句意」は、「初燕が行き交うころとなった。その初雀の巣作りの棚を、どうか、その花が咲き初めた家の一角に、作っていただきたい。」

(追記) 「乙鳥の棚うちつけよ花のやど」句周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-30

(再掲)

(画像)→http://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-166-20.html

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵  六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝ 落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

≪ デンバー美術館所蔵となっている、この「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)は、まさしく、「桜」と「柳」とを主題としたものである。

  乙鳥の塵をうごかす柳かな    其角 (『五元集』)
  花びらの山を動かす桜哉     抱一 (『屠龍之技』)
  見渡せば柳桜をこきまぜて
       都ぞ春の錦なりける  素性法師(『新古今』巻一)   

 其角句と抱一句を「唱和」(抱一句は其角句の「本句取り」)とすると、この二句は、素性法師の「本歌取り」の句ということになる。其角はともかくとして、抱一は、この句に唱和し、それを反転させる際に、間違いなく、この素性法師の古歌が、その反転の要因になっていることは、上記のように並列してみると明瞭になってくる。
 この素性法師の歌には「 花ざかりに京を見やりてよめる」との前書きがある。抱一は、それを「江戸の太平の世を見やりてよめる」と反転しているのかも知れない。 ≫

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第六 潮のおと(6-8~6-15) [第六 潮のおと]

   立秋
6-8 先一葉秋に捨たるうちは哉
    七夕
6-9 空に二ツほしきもの有り機道具
6-10 人有や暴風の中を飛ぶ筵
6-11 いなづまや夜と昼との田一枚
6-12 旅人にかしてうたするきぬた哉
6-13 臺笠も立笠も有り作り萩
6-14 柿畠やけろりと二本休みとし
6-15 鶴の子の額は赤き梢かな


   立秋
6-8 先一葉秋に捨たるうちは哉

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-86-15.html

抱一画集『鶯邨画譜』所収「団扇図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「団扇図」の「賛」(発句=俳句)は、『屠龍之技』所収「千づかのいね」編の、次の句であろう。

 井の水の浅さふかさを門すゞみ (『屠龍之技』所収「第五 千づかのいね( 5-48)」

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-465-49.html

≪ この句は、「門(かど)涼み」(外に出て夕涼みをすること・晩夏の季語)の句である。「井の水」の、「井」は、「掘り抜き井戸」ではなく、「湧(わ)き水や川の流水を汲み取る所」の意であろう。「門涼み」とは別に、「噴井(ふきい)」(絶え間なく水が湧き出ている井戸、三夏の季語)という季語もある。

 句意は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている」というようなことであろう。特別に「李笠翁になろふて」の前書きが掛かる句ではないかも知れないが、強いて、その前書きを活かすとすれば、「風流人・李笠翁に倣い」というようなことになろう。

 そして、次の無風流な宝井其角の作とされる句と対比させると、「風流人・李笠翁に倣い」というのが活きてくるという雰囲気で無くもない。

 夕すずみよくぞ男に生れけり  宝井其角(伝)    ≫

 掲出の句の、主たる季語は、上五の「先(まづ・まず)一葉」の「一葉・ひとは・桐一葉・一葉落つ・桐散る・一葉の秋・桐の秋」(初秋)。「秋に桐の葉が落ちること。桐一葉、あるいは一葉という。本来の桐はアオギリ科の悟桐を指すがゴマノハグサ科の桐を含めて「桐」と称されている。」(「きごさい歳時記」)

 そして、従たる季語が、中七・下五に掛けての「秋に捨たるうちは・秋団扇・捨て団扇」(初秋)。「秋風の通うころになって扇、団扇を必要としなくなること。立秋が過ぎても残暑は厳しく、扇や団扇はなかなか離せないもの。扇をしまうころには秋も一気に深まり、空気も身にしむようになってくる。」(「きごさい歳時記」)

 さらに、この句の前書の「立秋」も「初秋」の季語で、「子季語」に「秋立つ・秋来る・秋に入る・今朝の秋・今日の秋」などがある。「二十四節気の一つ。文字どおり、秋立つ日であり、四季の節目となる「四立」(立春、立夏、立秋、立冬)の一つ。この日から立冬の前日までが秋である。新暦の八月七日ころにあたる。実際には一年で一番暑いころであるが、朝夕の風音にふと秋の気配を感じるころでもある。≪秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行『古今集』≫ 」(「きごさい歳時記」)

 その上で、この抱一の句は、次の嵐雪の辞世吟を想い起こさせる。

   辞世
  一葉ちる咄(トツ)一葉ちる風のうへ(嵐雪『玄峰集(上・下)』巻末)

 この「咄(トツ)」は、禅用語で、「激しくしかるときに発する語」の意味に解せられている。

https://blog.goo.ne.jp/blue1001_october/e/784f159bc1aeaabff0a65cbff8d547e0

 それと同時に、「驚き怪しむときに発する語」(「デジタル大辞泉」)の意も加味されていると解したい。

「句意」は、「今日は、立秋の日。それを知ったのは、先ず、この『桐一葉』、嵐雪先師の『咄(トツ)』の一句、さも有らん、この立秋の『秋立つ』日に、その『桐一葉』は、其角先師の『涼みの団扇』ならず、『捨て団扇』の名が相応しい。」


    七夕
6-9 空に二ツほしきもの有り機道具


 この抱一の句自体の「季語」は、「空に二ツ」の「二つ星・二星(にせい・じせい)」(初秋)。「初秋の季語。陰暦七月七日の七夕に、年に一度天の川を渡って出会う織姫星と彦星のこと。実際の星の名は琴座のベガと鷲座のアルタイル。」(「きごさい歳時記」)
(例句)

天にありて比翼とちぎる二星かな 季吟「山の井」

 前書の「七夕(たなばた)」(初秋)の季語。「七夕(たなばた)」(初秋)=「夏から秋に季節が変わるころ、『棚機女(たなばたつめ)』と呼ばれる少女が、人里離れた水辺の『棚』の中で『機』を織りながら、水の上を渡って訪れる神を待つという言伝えがある。この『棚』と『機』が『たなばた』の語源である。この言伝えが、奈良時代になって、裁縫上達を願う中国の『乞巧奠』の行事と結びついて、現在の『七夕』の行事になったとされる。中国の『乞巧奠』では五色の糸や針を供えて、星に裁縫の上達を願った。これが発展して七夕の夜にはさまざまの願いごとを短冊に書いて竹に飾るようになった。七夕の夜には、天の川をはさんで、彦星と織姫星が接近することから、年に一度の逢瀬にたとえられ、さまざまな伝説が各地で生まれた。また、七夕は、盆の前のみそぎの行事でもあり、笹竹や供え物を川や海に流し、罪や穢れを祓う儀式も行われた。これが『七夕流し』である。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
七夕や秋を定むる初めの夜   芭蕉「有磯海」

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-86-15.html

葛飾応為『女重宝記』五「たなばたまつり」(「すみだ北斎美術館蔵」)
https://serai.jp/event/1002167

「句意」は、「七夕の日、空には、二星(織姫星と彦星の夫婦星)が輝き、願い事に『織姫星の機織り道具が欲しい』と短冊に書いた。」


6-10 人有(あり)や暴風(のわき)の中を飛ぶ筵

 文化元年(一八〇四)の秋、千束村に居た頃の句で、『軽挙館句藻』の「千束のいね」所収の句で、そこには、「野分(のわき)」との前書を付して、中七の「暴風」に「のわき」と詠ませている(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-86-15.html

鈴木春信画「野分の中を歩く二人の女」(「ボストン美術館蔵」)
https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Harunobu_WindyDay/#group1-8

 掲出の句の季語は、「暴風(のわき)・野分」(仲秋)。「野の草を吹き分けて通る秋の強い風のこと。主に台風のもたらす風をさす。地方によっては「やまじ」「おしあな」などと呼ぶところもある。『枕草子』(百八十八段)では「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」とあり、野分の翌日はしみじみとした趣があるとする。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな  芭蕉「武蔵曲」
吹き飛ばす石は浅間の野分かな   芭蕉「更科紀行真蹟」
猪もともに吹かるゝ野分かな    芭蕉「蕉翁句集」
鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな    蕪村「蕪村句集」
ぽつぽつと馬の爪切る野分かな   一茶「文化句帖」

 掲出の抱一の句は、上記の例句の中では、「吹き飛ばす石は浅間の野分かな/芭蕉「更科紀行真蹟」」のイメージに近い。

「句意」は、「隅田川河岸の千束村、そして、それに続く、浅草寺弁天池周辺の『野分』は、その近郊の『吉原』のイメージを彷彿させる『野分の中を歩く二人の女』の人影などは微塵もなく、芭蕉翁の『吹き飛ばす石は浅間の野分かな』の、『吹き飛ばす筵』という光景である。」


6-11 いなづまや夜と昼との田一枚

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-86-15.html

歌川国芳画「橋立雨中雷」(「ボストン美術館蔵」)
https://ja.ukiyo-e.org/image/mfa/sc169039

 掲出の季語は、「いなづま・稲妻(いなずま・いなづま)」(三秋)。「空がひび割れるかのように走る電光のこと。空中の放電現象によるものだが、その大音響の雷が夏の季語なのに対し、稲妻が秋の季語となっているのは、稲を実らせると信じられていたからである。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
稲妻を手にとる闇の紙燭かな  芭蕉「続虚栗」
稲妻に悟らぬ人の貴さよ    芭蕉「己が光」
あの雲は稲妻を待つたより哉  芭蕉「陸奥鵆」
稲妻やかほのところが薄の穂  芭蕉「続猿蓑」
いなづまや闇の方行五位の声  芭蕉「続猿蓑」
稲妻や海の面をひらめかす   芭蕉「蕉翁句集」
いなづまやきのふは東けふは西 其角「曠野」
いなづまや堅田泊りの宵の空  蕪村「蕪村句集」
稲妻に近くて眠り安からず   夏目漱石「漱石全集」

 抱一の句は、抱一の「其角好き」に因んでの、「いなづまやきのふは東けふは西/其角『曠野』」、そして、「抱一好き」の、「漱石」に因んでの、「稲妻に近くて眠り安からず」の、それらのイメージに近い。

「句意」は、「江戸っ子の其角先師の『いなづまやきのふは東けふは西』のとおり、この千束村近辺の田に「稲光」が、『夜となく、昼となく、それも、全く同じ、近くの田んぼ』にやって来て、これでは、とても、江戸っ子の「漱石・某」やらの、『稲妻に近くて眠り安からず』なのです。」


6-12 旅人にかしてうたするきぬた哉

 掲出の句の「季語」は「きぬた・砧(きぬた)」(三秋)。「木槌で布を和らげるために棒や杵などで打つ台をいう。麻・葛などの繊維はかたいので、打って和らげる。女性の夜なべ仕事とされた。秋の夜長、遠くに聞こえるその音はもののあわれを誘う。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
声澄みて北斗にひびく砧かな     芭蕉「都曲」
碪打ちて我に聞かせよや坊が妻    芭蕉「野ざらし紀行」
針立や肩に槌うつから衣       芭蕉「江戸新道」
猿引は猿の小袖をきぬた哉      芭蕉「猿舞師」
このふた日きぬた聞えぬ隣かな    蕪村「夜半叟句集」
聞かばやと思ふ砧を打ち出しぬ    夏目漱石「漱石全集」

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葛飾応為画「月下砧打ち美人図」( 113.4×31.1/款「應為栄女筆」印「應」(白文方印)/東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0034762

「句意」は、「芭蕉翁の、『碪打ちて我に聞かせよや坊が妻』の『坊が妻』ならず、名も知れない『旅人』に、『砧を貸して』、その『旅人の砧打つ音』を、しんみりと味わっている。」


6-13 臺笠も立笠も有り作り萩

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-86-15.html

鈴木其一筆「萩月図襖」(絹本着色 襖(四面)/168.8×68.5cm(各)/東京富士美術館蔵)
https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=3579

≪ 萩と月は秋を表す好画題といえよう。左右から伸びた紅白の萩は緩やかな動きをもって、対角線上に配置されている。花房と葉の表現には、輪郭線を引かず色の階調を作る付け立ての技法がとられ、葉の葉脈には金泥が施されている。月下の葉色に変化をつけ、絹地の背景に銀泥を引くことで月光を演出するなど、こうした其一の細部へのこだわりが画面に程よい緊張感をもたらすとともに、江戸琳派特有の美麗で瀟洒な品格を醸し出している。≫

「台笠」=近世、大名行列などのとき、袋に入れ長い棒の先につけて、小者に持たせたかぶり笠。(「デジタル大辞泉」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-86-15.html

https://www.city.himeji.lg.jp/daimyo/isho/honjin.html

「立笠(傘)」=江戸時代に用いられた長柄の大傘。ビロードやラシャなどで作った袋に入れ、大名行列などの際に供の者に持たせた。(「精選版 日本国語大辞典」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-86-15.html

https://www.city.himeji.lg.jp/daimyo/isho/honjin.html

 掲出の句の「季語」は、「作り萩」の「萩」(初秋)。「紫色の花が咲くと秋と言われるように、山萩は八月中旬から赤紫の花を咲かせる。古来、萩は花の揺れる姿、散りこぼれるさまが愛され、文具、調度類の意匠としても親しまれてきた。花の色は他に白、黄。葉脈も美しい。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
白露もこぼさぬ萩のうねりかな 芭蕉「栞集」
一家に遊女もねたり萩と月   芭蕉「奥の細道」
行々てたふれ伏すとも萩の原  曽良「奥の細道」
小狐の何にむせけむ小萩はら  蕪村「落日庵句集」
萩散りぬ祭も過ぬ立仏     一茶「享和句集」

「句意」は、「向島に開園した、百花園の秋の『萩見』の趣向も、多種・多彩で、中には、池を這うように「台笠」仕立ての萩、その上に重なるように「立笠」仕立ての萩と、周囲には、秋の七草が靡き、さながら、秋の七草の大名行列のようである。


(補記)「向島百花園について」

https://tesshow.jp/sumida/sight_emukojima_hyakka.html

≪ 百花園を造ったのは佐原鞠鵜で、文化元年(1804)のことでした。鞠鵜は宝暦12年(1742)仙台に生まれました。(一説に明和3年生まれ)。天明年間(1781-1788)江戸に出て、芝居茶屋に永年勤めたのち、日本橋住吉町で骨董店を開き北野屋平兵衛と改名し、諸大名に出入りして大いに繁昌しました。さらに長谷川町(中央区日本橋堀留町)に転居するとますます賑わい、茶人や文人・墨客の著名人が集まるようになりました。世才はもとより文才にもたけ、当時の文化人である加藤千蔭・村田春海・亀田鵬斎・大窪詩仏・蜀山人(太田南畝)・酒井抱一等にことのほか愛顧を受けました。

 その後、故あって隠居して本所中之郷にひそみ、菊屋宇兵衛と改め、剃髪して鞠鵜と号し、寺島村の多賀屋敷跡三千坪を買い求めて百花園を開きました。この時、愛顧を受けた文人墨客に梅樹の寄付を求め、たちまち360本余りを得たといいます。そして風流第一ということで凝った囲いなどはせず、荒縄を結んで囲いとしました。そしてその伝統は守られ、今でも素朴で自然なたたずまいを残しています。

 百花園という名は「梅は百花のさきがけ」という意味で、酒井抱一が命名したといわれています。そのほか臥竜梅で有名な亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれたり、花屋敷、七草園、鞠鵜亭などとも呼ばれました。やがて宮城野萩や筑波萩等の秋草をはじめ、しだいに草木の種類をふやし、四季花の絶えぬ庭園になりました。

 こうした百花園の開園を何よりも喜んだ文人墨客たちは、何かと口実を設けて来園し、茶を喫したり談笑したりしました。そして蜀山人が「花屋敷」の扁額を掲げ、詩仏が左右の門柱に「春夏秋冬不断」「東西南北客争来」の聯をかけ、千蔭は「お茶きこしめ梅干もさむらふそ」の掛行燈を掲げる等して、百花園は江戸中にその名が知れわたり、庶民の行楽地にもなりました。なお、詩仏は「隅田川の土を以て製したる都鳥の香合云々」と角田川焼の看板を与え、園内で隅田川岸の土を使って楽焼きをし、香合のほか皿とか湯呑等素朴なものが作られました。

 鞠鵜は天保2年(1831)8月に亡くなりました。辞世の歌は「隅田川 梅のもとにてわれ死なば 春咲く花の肥料ともなれ」の一首です。墓は近くの蓮花寺にあります。

 この庶民の庭に、文政12年(1829)3月に11代将軍家斉が来園したことは当時としては破格のことでした。

 この名園も、明治以来しばしば災難にあい荒廃に瀕しました。当時寺島村に別荘を構えた小倉石油の小倉常吉氏はこれを惜しく思い、私財を投じて園地を収め、旧景の保存に努めました。そして後々公開の意図を持って亡くなられ、未亡人がその遺志を継いで昭和13年すべてを東京市に寄贈されました。市は鋭意復旧にあたり14年公開にこぎつけました。しかし、今次の大戦ですべて焼失し、現在の姿にまでなったのは同33年頃以降のことです。たあ福禄寿の尊像だけは残り、隅田川七福神の一尊として人々から厚く信仰されています。なお、ふだんは白髭神社境内の小堂に祀られ、お正月だけ園内の福禄寿堂にお祀りします。≫

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-86-15.html

「東都三十六景 向しま花屋敷七草」(二代歌川広重画/出版者:相ト/国立国会図書館蔵)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail338.html?sights=mukojimahyakkaen



6-14 柿畠やけろりと二本休みとし
6-15 鶴の子の額は赤き梢かな

 『軽挙館句藻(千束のいね)』には、この「6-15 鶴の子の額は赤き梢かな」の前書に、「閏八月二十四日橘千蔭のとおなしく千束の里なる文字楼の別荘に遊びてあまたの柿を植えあつめ給ふ人の許にまかりけるに禅師妙見御所蜂谷その外の名かそへも不尽」が付せられているようである。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜稿(相見香雨稿)」)

 この二句は、その「浅草千束村」(千束の里)の柿畑などを見ての句と解する。なお、この「閏八月二十四日」は「文化二年(一八〇五)八月二十四日」、そして、この「文字楼の別荘」は、「新吉原」の妓楼「大文字屋」(初代村田市兵衛・大文字屋市兵衛・加保茶元成)であろう。この「大文字屋」(初代村田市兵衛・大文字屋市兵衛・加保茶元成)については、下記のアドレスなどて触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-03

 また、「禅師妙見御所蜂谷」というのは、その柿畑に植えられている柿の種類(禅師柿(禅寺丸)・妙見柿(妙丹柿)・御所柿・蜂谷柿)であろう。

6-14 柿畠やけろりと二本休みとし

 「季語」は、「柿」(晩秋)。「カキノキ科の落葉高木。東アジア温帯地方固有の植物で、果実を食用にする。かたい葉は光沢がある。雌雄同株。富有、御所、次郎柿などの甘柿は熟すると黄色が赤くなりそのまま食する。渋柿は、干し柿にすると甘くなる。青い実の渋柿からは、防水防腐に使われる「柿渋」がとれる。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
里古りて柿の木持たぬ家もなし        芭蕉「蕉翁句集」
祖父(おほぢ)親まごの栄や柿みかむ(蜜柑) 芭蕉「堅田集」

「けろり」=「何事もなかったように平然としているさま、また、図々しいくらい平気なさまを表わす語。」(「精選版 日本国語大辞典」)

「けろり」(擬態語)の一茶の句(「一茶の俳句データベース」)
http://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/jsearch.cgi

(例句)
鳴た顔けろりかくして猫の恋 一茶『八番日記』
山きじや何に見とれてけろりくわん 一茶『七番日記』
夕雉や何に見とれてけろりくわん   一茶『浅黄空』
けろりくわんとして雁と柳哉   一茶『七番日記』
けろりくわんとして烏と柳哉   一茶『文政版他』
夕立やけろりと立し女郎花  一茶『七番日記』
大水や大昼顔のけろり咲      一茶『七番日記』
名月にけろりと立しかゞし哉  一茶『七番日記』
はつ雪や上野に着ばけろり止  一茶『八番日記』
10はつ雪や腹拵へはけろり止  一茶『自筆本』
11おち葉してけろりと立し土蔵哉  一茶『七番日記』

「句意」は、「新吉原の遊郭地に近い『千束の里』の一画に、色々な種類の『柿』を植えた畠があって、今や、その収穫も殆ど終わって一休みの状態なのだが、何故か、二本だけ、図々しいくらい、『取っては駄目よ』と、実がたわわのままの木がある。(これはきっと、この『千束の里』の『鳥さんたち食い扶持を遺しているのかも。)』


6-15 鶴の子の額は赤き梢かな

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/07/6-86-15.html

「鶴柿(鶴の恩返し)・昔話(山口昔ばなし9)」
https://ameblo.jp/shufreeter7978/entry-12735136556.html
https://www.yamaguchibank.co.jp/portal/special/story/story09/p03.html

「季語」は、「鶴の子」=「鶴の子柿」(「(鶴の子)柿」=晩秋)・「鶴の子柿の吊し柿」(「鶴の子柿)甘干し=吊し柿/釣柿/干柿/ころ柿」=晩秋)。掲出句の句は、「「鶴の子柿の吊し柿」ではなく、収穫前の柿の木の梢の「鶴の子柿」(晩秋)の句である。(「昔話」の「鶴柿」などに視点を置いての句意などもあるが、ここでは、前句の「柿畠やけろりと二本休みとし」との、連作ものとしての句意にして置きたい)

「句意」は、「この柿畠の、二本だけ取り残している柿の木は、渋柿の『吊(つる)柿』用の『鶴子の柿』で、その「梢(木末)」の実(実の「額」)は、たわわに、赤く実っている。」
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第六 潮のおと(6-1~6-7) [第六 潮のおと]

6-1 鳥さしが手際見せけり梅林
6-2 から傘に柳を分(わけ)るいほり哉
6-3 銭湯も浅香の沼の六日かな
6-4 鉞(まさかり)に氷を砕くあつさかな
6-5 物申(す)に返事の遅き暑(さ)哉
6-6 とび移る蝉の羽赤きあつさ哉
6-7 御袚して各々包む袴かな

6-1 鳥さしが手際見せけり梅林

http://yahantei.blogspot.com/2023/02/6-1.html

(再掲)

季語=梅林(うめばやし・ばいりん)=梅(初春)の林

「句意」は、「『鳥刺し』が、この『梅林』で、見事な『手際』を見せている。折から、声曲『鳥さし』の『手際』よい調べが聞こえくる。『さいてくりょ さいてくりょ これ物にかんまえて まっこれ物にかんまえて ちょっとさいてくりょうか …… 』と、これまた、見事な『手際』であることよ。」

 この「第六 潮のおと」は、文化二年(一八〇五)、抱一、四十五歳、「浅草寺の弁天池に転居」の頃に、スタートしており(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、この前年の文化元年(一八〇四)に、抱一と親交の深い「佐原菊塢(さはらきくう)」が「向島百花園(別称「新梅屋敷」)」を開園している。その梅林での一句と解するのも一興であろう。

(追記) 「潮(しお)の音(おと)」の由来

《 浅草寺周辺(浅草寺弁天池付近)に居た頃の句襲名は「潮(しお)の音(おと)。浅草寺の祀る観音菩薩像にちなみ、「法華経観世音菩薩普門品偈(ふもんぼんげ)」の「妙音観世音、梵音(ぼんおん)海潮音(かいちょうおん)」を出典とする。 》(『酒井抱一(玉蟲敏子著・山川出版社)』)

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「東京名所四十八景 浅草寺境内弁天山」(昇斎一景筆/蔦屋吉版/竪大判錦絵・画帖1冊(目次共49図)/40.6×28.7 /慶応大学・ボン浮世絵コレクション)

https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/bon-ukiyoe/016/018


6-2 から傘に柳を分(わけ)るいほり哉

季語は、「柳」(晩春)。「柳といえば枝垂柳。春、柔らかい葉が煙るように美しいので春の季語とされる。街路や庭園、水辺などに植えられ、古くから、霊力のある木とされてきた。枝垂柳のほか、枝が上に向かって伸びる川柳などもある。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな  芭蕉「炭俵」

 抱一の句は、この芭蕉の「傘と柳」との本句取りの句のようである。この芭蕉の句は、元禄七年(一六九四)、濁子・野坡・曾良らと八吟歌仙『傘に(雨中)』の、即興的な発句である。

「傘に(歌仙)」表六句(抜粋)

発句 傘におし分見たる柳かな      芭蕉
脇  わか草青む塀の筑(つき)さし   濁子
第三 おぼろ月いまだ巨燵にすくみゐて  涼葉
四  使の者に礼いふてやる       野坡
五  せんたくをしてより裄(ゆき)のつまりけり  利牛
六  誉られてまた出す吸もの      宗波

この歌仙が巻かれた元禄七年(一六九四)は、芭蕉が五十一歳時で、この年の十月十二日に、芭蕉は大坂南御堂前花屋仁右衛門宅で客死する。この脇句の「中川濁子(じょょくし)」(生年不詳、大垣藩江戸詰めの武士。絵の才能が優れてプロの域にあったといわれる。その腕で『野ざらし紀行画巻』を描いた。)で、この歌仙は、芭蕉の、その最期の旅路の留別吟という雰囲気で無くもない。

 この濁子の脇句の「塀の筑(つき)さし」は、「塀の中途で造作を止めている」という意で、芭蕉の発句と一体となると、「傘におし分見たる柳かな(草庵の入り口の枝垂れ柳を唐傘を押し分けて見る)」と、「わか草青む塀の筑(つき)さし(その草庵の塀は未完成のままに柳が青めいて茂っている)」というような光景であろう。

 そして、この光景は、抱一が、文化二年(一八〇五)、四十五歳時に浅草寺の弁天池に転居した、その詫び住まいを連想させる。それは、まさしく、抱一が出家して、市井を彷徨っていた、隠遁していた、されど、文人的な生き方を見出していたイメージと重なってくる。

「句意」は、「折からの雨中の柳が、我が詫び住まいを覆い、それを唐傘で押し分けて出入りする、何ともうら淋しい光景であることよ。」


6-3 銭湯も浅香の沼の六日かな

 季語は、この掲出の一句だけでは、「六日」(新年)。「正月六日のこと。節日である七日正月の前日で、この日に年をとりなおすといって、麦飯をたいて、赤イワシを食べる風習がある。」(「きごさい歳時記」)ということになるが、前句の「6-2 から傘に柳を分(わけ)るいほり哉」の次に搭載されていることになると、この「浅香の沼の六日」の「浅香の沼」に仕掛けを施しているようである。

 この句の「参考句」(例句)としては、芭蕉の『奥の細道』の次の一句を挙げたい。

文月や六日も常の夜には似ず  芭蕉「奥の細道」

 この芭蕉の句の季語は、「文月(旧暦七月)」で「初秋」。即ち、「七月七日」の「七夕」の前日(「六日)」の句ということになる。抱一の掲出の「銭湯も浅香の沼の六日かな」、この「浅香の沼の六日」の仕掛けは、この芭蕉の「文月の六日」の仕掛けと同じ趣向ということになる。

 そして、この「浅香の沼の六日」の典拠は、『奥の細道』の「元禄六年(一六九三)四月二十九日・五月一日日・二日」の「安積山・信夫もじ摺り」の条ということになる。

≪ 等窮が宅を出て五里計*、檜皮の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども、更知人なし。沼を尋、人にとひ、「かつみかつみ」と尋ありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。

 あくれば、しのぶもぢ摺りの石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや*。

  早苗とる手もとや昔しのぶ摺 

( 四月二十九日。快晴。須賀川を出発。まず、南下して石川郡玉川村の石河の滝を見物。あちこち立ち寄りながら夕方、郡山に到着してここで一泊。宿はむさ苦しかったようである。

 五月月一日。快晴。日の出とともに宿を出て、郡山市日和田町で馬を求め、安積山・安積沼を見ながら、二本松へ。黒塚の鬼を埋めたという杉の木立を眺めながら、日の高いうちに福島に入る。福島に一泊。ここでは、宿はきれいだった。

 五月月二日、快晴。福島を出発。阿武隈川を岡部の里にて船で渡り、信夫文字摺石を見物。源融<みなもとのとおる>と土地の長者の娘虎女との悲恋伝説のある「虎が清水」などを見てから、月の輪の渡しで再度阿武隈川を渡って瀬の上に出た。ここより佐藤兄弟の旧跡へと辿るのである。)≫(「芭蕉データベース」)

 そして、この「あさかのぬま」(「安積沼・浅香沼・朝香沼」)は、≪福島県郡山市、安積山のふもとにあったといわれる沼。ショウブの名所。歌枕。※古今(905‐914)恋四・六七七「みちのくのあさかのぬまの花かつみかつみる人に恋ひやわたらん〈よみ人しらず〉」≫(「精選版 日本国語大辞典」)ということになる。

 これらを踏まえると、抱一の掲出の句の季語は、「浅香の沼=あさかのぬまの花かつみ=菖蒲=菖蒲(尚武)の節句=端午の節句(午=五が重なる五月五日)」のの翌日の、「立夏(五月六日)」の日で、「夏」(初夏)の句ということになる。

 そして、この句には、もう一つ、「銭湯も浅香の沼の六日かな」と、「銭湯(お風呂に入る)も、六日(六日ぶり)」と、即ち、芭蕉の句の「文月や六日も常の夜には似ず」の根底に流れている「不易流行」の「不易」(「永遠に変わることのない不易そのの本質」)の句を、「流行」(「新しみを求めてたえず変化する流行性」=「俳諧・諧謔・滑稽・洒落・臨機応変・ユーモア」)の句に仕立てているということになる。

「句意」は、「芭蕉翁の『奥の細道』の、『安積山・信夫もじ摺り』」の条を見ながら、その典拠となっている『みちのくのあさかのぬまの花かつみかつみる人に恋ひやわたらん(古今集)』の幻の花『花かつみ』(姫菖蒲)ならず、これまた、芭蕉翁の『文月や六日も常の夜には似ず』の、その『菖蒲の節句・端午の節句の五月五日』」の翌日の「立夏(五月六日)」の日を反芻しながら、どっぷりと『六日ぶり』の銭湯の湯に浸かっている。」

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「湯屋(銭湯)=戸棚風呂」

http://kamikuzuann.web.fc2.com/zakkiire/yuyanituite.html

≪(湯屋=銭湯)

 江戸では武家屋敷以外で風呂のある家は稀で、住民は湯屋(銭湯)通いが当たり前でした。旅籠屋にも風呂はなく、客を湯屋へ行かせていました。このため各町内に必ず一軒は湯屋がありました。これは江戸では水が貴重で、薪代も高く、なにより火事を恐れたためで、風の強い日には湯屋も店を休むほど火の扱いには気を付けていました。

(戸棚風呂)

江戸時代初期の銭湯は戸棚風呂という蒸し風呂でした。これは湯気を逃がさないよう浴槽を戸棚で仕切り、体を蒸気で蒸し、洗い場に出て垢を落とすというものです。浴槽と洗い場の間は引戸を使って出入りするのですが、開ける度に湯気が逃げ湯が冷めるので人口増加に伴い各湯屋は引戸をやめ、湯が冷めにくいように入り口を低くした柘榴口を設置するようになりました。さらに江戸市中に水道網が整備され、上方から掘り抜き井戸の技術が伝わると、蒸し風呂から湯に浸かる形式へと変化していきます。≫


6-4 鉞(まさかり)に氷を砕くあつさかな

「季語は、「あつさ」の「暑し」(三夏)で、それを「鉞(まさかり)に氷(晩冬の季語)を砕く」でも足りないほどの「酷暑」であると、何とも「意表を突く大袈裟な形容詞」をもって一句に仕立てている。そして、「鉞(まさかり)」と来ると、「鉞(まさかり)担いだ金太郎」(「まさかり(大斧)を担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデル」)の「坂田金時(坂田公時)」(頼光四天王の一人)の幼名「金太郎」(「金太郎伝説」)と言うことになる。

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「幼時を夢見る坂田金時(部分)」鳥居清長筆/江戸時代・18世紀/東京国立博物館蔵

https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=6655

「句意」は、「どうにも暑くて堪らない。『鉞(まさかり)金太郎』の『鉞(まさかり)』で、貴重な『夏氷』を砕き『酷暑退治』をしたいが、それでも、この『酷暑』には耐えられないであろう。」


6-5 物申(す)に返事の遅き暑(さ)哉

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「幼時を夢見る坂田金時」鳥居清長筆/江戸時代・18世紀/東京国立博物館蔵

https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-1195?locale=ja

≪ 「金」と大きく書かれた着物を片肌脱ぎしている坂田金時(さかたのきんとき)からふき出しが出ています。ふき出しに描かれているのは金時が見ている夢、森で熊と闘う幼い金時は昔話の金太郎です。金時は歴史上に実在した武将(ぶしょう)で、金太郎のモデルとなった人物でもあります。金時がもたれ掛かっている酒樽(さかだる)にはお正月の飾りがついており、足元にある宝船の絵は良い初夢を見るために用いられることから、金時が見ている夢は初夢なのでしょう。初夢には、なりたい姿が出てくると言われています。丈夫で元気な金太郎には子どもの健やかな成長を願う親の思い、武将になった金時には出世や成功への願いが表されています。見る人が様々な願いを抱くことができる作品です。酒樽に書かれている「馬喰町(ばくろちょう)西村版(にしむらはん)」はこの作品の版元(はんもと)、今でいう出版社の名です。日本橋馬喰町にあった西村屋はこのように趣向を凝らした作品を多く制作しました。≫

 季語は「暑さ」=「暑し」(三夏)。「句意」は、「この暑さで、この草庵の主は暑気にやられたようで、問い掛けての返答も、何時もの「ツーといえばカー」という感じて、どうにも、朦朧状態のようである。」


6-6 とび移る蝉の羽赤きあつさ哉

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「准源氏教訓図会・空蝉(ナゾラエゲンジキョウクンズエ・ウツセミ)」/作者名・歌川国芳/落款等備考・朝桜楼國芳画/制作者備考・丸甚/時代区分・天保14年、弘化1~4年※名主障印より/西暦・1843-1847/形態・大判、木版浮世絵、錦絵/公文教育研究会蔵」 

https://www.kumon-ukiyoe.jp/index.php?main_page=product_info&cPath=8_17&products_id=1116

≪ 源氏物語「空蝉」になぞらえた教訓画であり、殻を脱ぎすて、短い夏を樹上で鳴きくらすゆえに、捕えられることも多い蝉をテーマにしている。源氏物語の空蝉は、伊予介の妻で、一度は源氏に身を許すがその後は自制、ある夜忍んできた源氏に、小袿一枚を寝所に残して去る。こちらは、蝉の殻のように小袿を残すが、そっと静かに消え去り、悩みながらも源氏をこばみ続ける。≫

「季語」は、主たる季語が「あつさ」の「暑し」(三夏)、従たる季語が「蝉」(晩夏)の「季重なり」(二つ以上の季語がある)の句。「句意」は、「蝉が、一瞬、赤き翅(はね)を広げて、別な木に飛び移る。蝉の鳴き声も、そして、その、垣間見せた赤き翅の赤さも、この酷暑を象徴しているようだ。」


6-7 御袚して各々包む袴かな

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抱一画集『鶯邨画譜』所収「禊図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

「季語」は「御袚・御禊(みそぎ)」(晩夏)。「陰暦六月晦日、神社で行われる神事。人の罪や穢れを祓う。夏の疫病などの災いを逃れ、無事を祈願する。宮中では古くから六月と十二月に行ったが、現在では、六月三十日に行うことが多い。茅の輪潜り、形代を流したりする。」

(「きごさい歳時記」)

(例句)

吹く風の中を魚飛ぶ御祓かな   芭蕉「真蹟画賛」
沢潟による傾城や御祓川     蕪村「落日庵句集」
泪して命うれしき御祓かな    樗良「樗良発句集」
川ぞひを戻るもよしや御祓の夜  白雄「白雄句集」
夕虹も消えて御祓の流れかな   闌更「三傑集」
雨雲の烏帽子に動く御祓かな   正岡子規「寒山落木」

「句意」は、「禊祓(みそぎはらえ)の水垢離(みずごり)で身体を浄める者が、各々、自分の袴(はかま)をたたんで、身繕いをしている。」

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-06-23

尾形光琳・乾山の「禊図」周辺

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A Shinto ceremony  → 禊図屏風 (フリーア美術館蔵)
Type  Screen (two-panel) 二曲一隻
Maker(s) Artist: Attributed to Ogata Kenzan (1663-1743) 尾形乾山
Historical period(s) Edo period, 1615-1868
Medium  Color on paper  紙本着色
Dimension(s) H x W: 173.5 x 177 cm (68 5/16 x 69 11/16 in)

(メモ)

一 乾山の作品としては、二曲一隻の屏風画として大作である。落款はないが、右の端に下記の朱印(「深省」)が押されていて、乾山作というのが分かる。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/06/6-16-7.html

二 原題は「A Shinto ceremony」(神道儀式)だが、下記の「禊図」(光琳筆)を念頭に置いたもので、「禊図屏風」として置きたい。 

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/06/6-16-7.html

尾形光琳筆「禊図」 一幅 紙本着色 畠山記念館蔵 九七・〇×四二・六㎝

【『伊勢物語』六十五段禊を絵画化したもの。人物のポーズと配置は、宗達も利用した『異本伊勢物語絵巻』(鎌倉時代末の作か)を踏襲するが、縦長の拡幅画の画面に合わせて、水流を光琳好みの意匠化された形に変え、狩野派風の樹木を添えている。 】(『もっと知りたい 尾形光琳(仲町啓子著)』)

三 上記の解説文の『伊勢物語』(六十五段)の絵画化というのは、『異本伊勢物語絵巻』との関連に焦点を当てたものであるが、上記の光琳の「禊図」は、「家隆禊図」と言われ、次の解説文の方が分かり易い。

【 この図は藤原家隆(一一五八~一二三七)の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を描いたもので「家隆禊図」ともいわれる。左下に暢達(ちょうたつ)した線にまかせて、簡潔に水流の一部を表わし、流れに対して三人の人物が飄逸な姿で描かれ、色調は初夏のすがすがしさを思わせる。「法橋光琳」の落款、「道崇」の方印がある。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説131」)

四 『伊勢物語』の川は、「恋せじと御手洗河にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな」の「御手洗川(みたらしがわ)」(神社の近くを流れていて、参拝人が口をすすぎ手を洗い清める川)だが、これが家隆の川は、「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」で、「奈良の小川」ではなく、「京都の上賀茂神社境内の楢の木の下を流れている御手洗川」ということになる。光琳画の「禊図」の右端上部に描かれている「狩野派流の樹木」は、その「楢の木」ということになる。

五 そして、冒頭の乾山の「禊図屏風」では、左隻に、光琳が描く「楢の木」を配して、右隻には、「蛇籠」(護岸・水流制御などに使う円筒形に編んだかごに石を詰めたもの)などを配して、遠く、江戸にあって、京都の上賀茂神社の「六月の禊」などに思いを馳せての作と解したい。 

六 この右隻の「蛇籠」などについては、下記のアドレスの「武蔵野隅田川図乱箱」の「蛇籠」などが思い起こされてくる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-02

(参考)伊勢物語絵巻六五段(在原なりける男)

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/06/6-16-7.html

「禊図(俵屋宗達筆)」(伊勢物語図色紙/第六十五段「禊」/紙本着色/24.5×21.0㎝/TOREKコレクション)

https://j-art.hix05.com/17sotatsu/sotatsu18.ise.html



http://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-065.arihara.html



むかし、おほやけおぼして使う給ふ女の、色ゆるされたるありけり。大御息所とていますがりけるいとこなりけり。殿上にさぶらひける在原なりける男の、まだいと若かりけるを、この女あひしりたりけり。男、女方ゆるされたりければ、女のある所に来てむかひをりければ、女、いとかたはなり、身も亡びなむ、かくなせそ、といひければ、

  思ふにはしのぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ

といひて曹司におり給へれば、例の、この御曹司には、人の見るをも知らでのぼりゐければ、この女、思ひわびて里へゆく。

されば、何のよきことと思ひて、いき通ひければ、皆人聞きて笑ひけり。つとめて主殿司の見るに、沓はとりて、奥になげ入れてのぼりぬ。

かくかたはにしつつありわたるに、身もいたづらになりぬべければ、つひにほろびぬべしとて、この男、いかにせむ、わがかかる心やめたまへ、と仏神にも申しけれど、いやまさりにのみおぼえつつ、なほわりなく恋しうのみおぼえければ、陰陽師、神巫よびて、恋せじといふ祓への具してなむいきける。祓へけるままに、いとど悲しきこと数まさりて、ありしよりけに恋しくのみおぼえければ、

  恋せじと御手洗河にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな

といひてなむいにける。

この帝は、顔かたちよくおはしまして、仏の御名を御心に入れて、御声はいと尊くて申し給ふを聞きて、女はいたう泣きけり。かかる君に仕うまつらで、宿世つたなく、悲しきこと、このをとこにほだされて、とてなむ泣きける。かかるほどに、帝きこしめしつけて、このをとこをば流しつかはしてければ、この女のいとこの御息所、女をばまかでさせて、蔵にこめてしをりたまうければ、蔵にこもりて泣く。

  海人の刈る藻にすむ虫のわれからと音をこそ泣かめ世をば恨みじ

と泣きをれば、このをとこ、人の国より夜ごとに来つつ、笛をいとおもしろく吹きて、声はをかしうてぞ、あはれに歌ひける。かかれば、この女は蔵にこもりながら、それにぞあなるとは聞けど、あひ見るべきにもあらでなむありける。

  さりともと思ふらむこそ悲しけれあるにもあらぬ身をしらずして

と思ひ居り。をとこは、女しあはねば、かくし歩きつつ、人の国に歩きて、かくうたふ。

  いたづらにゆきては来ぬるものゆゑに見まくほしさに誘はれつつ

水の尾の御時なるべし。大御息所も染殿の后なり。五条の后とも。

(現代語訳)

昔、天皇が御寵愛になって召しつかわれた女で、禁色を許された者があった。大御息所としておいでになられたお方の従妹であった。殿上に仕えていた在原という男で、まだたいそう若かった者を、この女は愛人にしていた。男は、宮殿内の女房の詰所に出入りを許されていたので、女のところに来て向かい合って座っていたところ、女が、とてもみっともない、身の破滅になりますから、そんなことはやめなさい、と言ったので、男は

  あなたを思う心に忍ぶ心が負けてしまいました、あなたに会える喜びにかえられれば、どうなってもよいのです

と読んだ。(そして女が)曹司に下ると、例の男は、この曹司に、人目を憚らずについて来たので、この女は、困り果てて実家に帰ったのだった。

すると(男は)、なんと都合のよいことだと思って、(女の実家に)通って行ったので、人々が聞きつけて笑ったのであった。朝方に、主殿司がその様子を見ると、男は靴を手に取って、それを沓脱の奥に投げ入れて昇殿したのだった。

このように見苦しいことをしながら過ごしているうちに、これでは自分もだめになってしまって、遂には破滅してしまうだろうからとて、この男は、どうしよう、このようにはやる心を静めて下さいと神仏に御願い申し上げたが、いよいよ思いが募るのを覚えて、やはりやたらと恋しいとのみ思えたので、陰陽師や神巫を呼んで、恋せじというおはらいの道具を持参して(川へ)いったのだった。しかし、お祓いをするにつけても、ますますいとしいと思う心が募って来て、もとよりもいっそう恋しく思われたので、(男は)

  恋をすまいと御手洗河にしたみそぎを、神は受け入れては下さいませんでした

と読んで、立ち去ったのだった。

この時の帝は、顔かたちが美しくいらして、仏の名号をお心にかけられ、お声もたいそう尊く念仏を唱えられるので、それを聞いて、女はひどく泣いた。このような尊い君におつかいせずに、宿世つたなく悲しいことに、この男にほだされてしまった、といって泣いたのだった。そのうちに、帝が事情をお知りになって、この男をば流罪になさったので、この女の従姉の御息所が女を呼びつけて、蔵に閉じ込めてしまった。それで女は、蔵にこもって泣いたのだった。そして、歌うには

  海人の刈る藻に住む虫のワレカラのように、声を立てて泣きましょう、世の中を恨むことなどしないで

するとこの男は、他国より夜毎にやってきては、笛をたいそう上手に吹いて、美しい声で、哀れげに歌ったのだった。それで、女は蔵にこもりながら、男がそこにいるらしいと思いつつ聞いていたが、互いにあうこともならなかったのだった。そこで女は、

  あの方がいつかは会えると思っていらっしゃるようなのが悲しい、生きているかわからぬようなわが身の境遇を知らないままに

と思っていたのだった。男の方は、女があってくれないので、このように笛を吹いて他国を歩きながら、次のように歌うのであった。

  会えると思って行っては空しくもどってくるのだが、それは会いたい思いに誘われてのことなのだ

水の尾帝の次代のことであろう。大御息所というのも染殿の后のことだと言われている。あるいは五条の后とも言われている。


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第五 千づかの稲(5-55~58) [第五 千づかのいね]

    末白の一周忌に
5-55 ひとめぐり廻りて居るたかへ哉
5-56 月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ
    年尾
5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒(顔)
5-58 植木屋が歳暮の梅のにほひ哉


   末白の一周忌に
5-55 ひとめぐり廻りて居(いて)るたかへ哉
5-56 月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ

 「ひとめぐり廻(めぐ)りて居(いて)るたかへ哉」の「たかへ」が季語と思われるが、この「たかへ」を、「たかべ」(三夏)と解すると、「ズキ目タカベ科の硬骨魚。地方によってシャカ、ベント、ホタとも。体長二十五センチに達する。背面は青緑色で幅広い黄色縦帯が特徴。夏場、焼魚にして美味。」(「きごさい歳時記」)の、魚の句となる。

 しかし、これは、次句の「月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ」の「うき寐の鳥(浮寐鳥)」(三冬)と解すると、「毎年越冬のため、毎年日本に渡ってきて川や湖沼で一冬を過ごす水鳥の群れ。鴨・雁・鳰・鴛鴦・白鳥などが、水面に浮かんで眠るさまをいう。おおかたは羽根に首を突っ込みまるまった姿で浮いている。」(「きごさい歳時記」)の、鳥の句ということになる。

 ここは、この「たかへ」を「水鳥」(三冬)の一種と解して置きたい。

「水鳥」(《子季語》水禽/≪解説≫水上に暮らす鳥の総称である。この、水鳥がもっとも多く観察できるのが冬である。鴨、雁、白鳥、都鳥、鳰(かいつぶり)、鴛鴦(おしどり)など、家鴨(あひる)も含まれる。)(「きごさい歳時記」)

(例句)

水鳥や堤灯遠き西の京      蕪村「新五子稿」
水鳥を吹きあつめたり山おろし  蕪村「新五子稿」
水鳥や百姓ながら弓矢取     蕪村「新五子稿」
水鳥やさすがに雨をうちそむき  暁台「暁台句集」
水鳥のどちらへも行ず暮にけり  一茶「享和句帖」

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5558.html

「雪松群禽図屏風(せっしょうぐんきんずびょうぶ)」/尾形光琳 /江戸時代/18世紀初頭/紙本金地着色/2曲1隻/156.0×171.6cm/岡田美術館蔵
https://www.okada-museum.com/collection/japanese_painting/japanese_painting23.html

≪ 金箔の地に青い水面が切り込む背景が用意され、その前面に、鴨や雁などの水鳥が13羽、空を飛び、あるいは地上で休んでいます。降り止んだばかりなのか、松の木や草の葉に雪が白く積もっており、金色に輝く空や地面は、雪晴れのまばゆい光に映えていることを示しているのでしょう。 尾形光琳(1658〜1716)は、雁金屋(かりがねや)という京都の高級呉服店に生まれ育ち、工芸的なデザイン感覚を身につけて育ちました。署名には、歌枕の「蝉の小川」(瀬見の小川)に由来し、都の画家であることを雅に名乗った「蝉川(せみがわ)」が使われています。≫(「岡田美術館」)

「末白の一周忌に」の「末白」も不詳。

5-55 ひとめぐり廻りて居(いて)るたかへ哉

「句意」は、「親しい俳人・末白の一周忌、末白が愛しんだ水鳥が、この池を一巡りして、正面に居座りて、凝視している。」

5-56 月の晝うき寐の鳥をかぞへみむ

「句意」は、「折から、中天には月の昼が懸かり、末白の一周忌もさることながら、亡くなった人の数を、この池辺の浮寝鳥の水鳥を数えるように、指を折っている。」


   年尾
5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒(顔)
5-58 植木屋が歳暮の梅のにほひ哉

 「前書」の「年尾(年の尾)」(年の終わり、十二月も押し詰まったころ)も季語(仲冬・暮)だが、「5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒(顔)」の句の「季語」は「としの夜(年の夜)」(大晦日の夜。除夜ともいう。一年のけじめの日であり、その年の息災を感謝し、来る年の家内安全を願う夜である。)の大晦日(仲冬・暮)の句である。

 この「としの夜」の平仮名の表記は、「年の夜」と「都市(江戸)の夜」とを掛けての用例なのかも知れない。また、「犬の兒(顔)」の「兒(顔)は、「前書」の「年の尾」の「尾」との対応なのかも知れない。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5558.html

葛飾北斎も餅つきの風景をユーモラスに描いています。のびすぎぃ!!(『北斎漫画』十二巻より「餅は餅屋」)

https://edo-g.com/blog/2016/12/new_year_holiday_season.html/3

5-57 としの夜や庭火に白き犬の兒(顔)

「句意」は、「今日は大晦日、今年最後の夜、大掃除や餅つきなど、新年を迎えるための準備で忙殺されている。庭には焚火が焚かれ、所在投げ犬の顔を浮かび上がらせている」

5-58 植木屋が歳暮の梅のにほひ哉

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5558.html

画像右下に見える紋付の荷物はどこかの大名のお歳暮でしょう(『東都歳事記』「歳暮交加図」)

https://edo-g.com/blog/2016/12/new_year_holiday_season.html/8

 この句の季語は、「歳暮」(仲冬・暮)で、「もともとは歳暮周りといって、お世話になった人にあいさつ回りをしたことに始まる。そのときの贈り物が、現在の歳暮につながるとされる。お世話になった人、会社の上司、習い事の師などに贈る。夏のお中元と同様、日本人の大切な習慣である。」(「きごさい歳時記」)

「句意」は、「植木屋が、歳暮周りの挨拶にやってきた。新年の飾りなどの仕事も一段落して、その合間の挨拶周りで、その半纏には、新年の如月の梅の香がしていてる。」

(参考) 「二十四節季」と「季節区分」(「四季」「五季」「六季」「十七季」「旧暦」「新暦」など)

https://kigosai.sub.jp/kigoken3.html

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5558.html

四季=「春・夏・秋・冬」
五季=「春・夏・秋・冬・新年」
六季=「春・夏・秋・冬・暮・新年」
十七季=「(初春・仲春・晩春・三春)・(初夏・仲夏・晩夏・三夏)・(初秋・仲秋・晩秋・三秋)・(初冬・仲冬・晩冬・三冬)・(新年)」
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第五 千づかの稲(5-50~54) [第五 千づかのいね]

   永代橋のもとに、
 銀鱸(すずき)を
    をあぐるとき
5-50 さし覗く顔も鷗や五兵衛舟
5-51 朝がほや花の底なる蟻ひとつ
5-52 新蕎麦のかけ札早し呼子鳥

    良夜瓢雨驟雨
5-53 宵寐して雨夜の月は夢にみむ

5-54 霧吸て蟲も千代経ん渓の菊


    永代橋のもとに
    銀鱸(すずき)を、
   をあぐるとき
5-50 さし覗く顔も鷗や五兵衛舟

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5054.html

「東都名所 永代橋全図」広重初代/木版/文化−天保期(1815-1842)
 https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/detail.php?item_id=52306

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5054.html

「江戸名所図会 永代橋」

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue2.html

≪ 上の挿絵の中央が永代橋(えいたいばし)です。中央を流れる川は隅田川(浅草川)で、左から隅田川に流れ込む川は日本橋川(新川)です。日本橋川に架かる橋は豊海橋(とよみばし)です。≫

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5054.html

http://arasan.saloon.jp/rekishi/edomeishozue2.html
≪ 江戸名所図会の挿絵に描かれた範囲は上の地図の緑色の楕円の辺りです。江戸名所図会の時代の永代橋は、右の地図のオレンジの楕円の位置、つまり、現在より200m程上流にありました。≫

「五兵衛舟」=「銭屋五兵衛」の「北前船」(日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船の名称)に積荷などをする小型の「手漕ぎ舟」の意であろう。「銭屋五兵衛」関連については、下記のアドレスのものが参考になる。

https://www.zenigo.jp/zenigo/5/

「鱸」=「鱸(すずき)三秋」=「(子季語)せいご、ふつこ、川鱸、海鱸、木つ葉、鱸網 (解説)スズキ科に属する海魚で、北海道から九州に至る沿岸や近海に広く分布する。ボラなどのように成長とともに呼び名が変わるので、出世魚の名がある。刺身、洗膾、塩焼きにして食する。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

打つ櫂に鱸はねたり淵の色   其角「句兄弟」
釣り上ぐる鱸や闇に太刀の影  支考「川琴集」
釣り上げし鱸の巨口玉や吐く  蕪村「蕪村句集」
百日の鯉切り尽きて鱸かな   蕪村「蕪村句集」

「冬鴎(ふゆかもめ)三冬」=チドリ目カモメ亜科の鳥の総称。鴎、海猫、百合鴎などの種類があり秋渡来する冬鳥である。鴎はみな冬鳥であるからわざわざ冬鴎ということもないのだが、従来無季とされていたので冬鴎とされた。(「きごさい歳時記」)

「句意」=季語は、冬鳥の「鴎」が渡来する晩秋の、前書の「鱸」(三秋)を前提にしてのものと解したい。「句意」は、「隅田川の永代橋で見事な銀鱸を釣り上げた。その銀鱸を覗き込むように、渡来してきたばかりの冬鳥の鴎が飛翔している。その晩秋から初冬にかけての鴎の風情は、折からの津軽経由の『北前船』に荷揚げや積荷をする「銭屋(銭屋五兵衛)」の持ち舟の「五兵衛舟」が連れてきたような趣がする。」


5-51 朝がほや花の底なる蟻ひとつ

 季語は「朝顔」(初秋)=朝顔は、秋の訪れを告げる花。夜明けに開いて昼にはしぼむ。日本人はこの花に秋の訪れを感じてきた。奈良時代薬として遣唐使により日本にもたらされた。江戸時代には観賞用として栽培されるようになった。旧暦七月(新暦では八月下旬)の七夕のころ咲くので牽牛花ともよばれる。(「きごさい歳時記」)

(例句)

朝貌や昼は錠おろす門の垣      芭蕉「炭俵」
あさがほに我は飯くふおとこ哉    芭蕉「虚栗」
あさがほの花に鳴行蚊のよわり    芭蕉「句選拾遺」
朝顔は酒盛知らぬさかりかな     芭蕉「笈日記」
蕣(あさがほ)は下手の書くさへ哀也 芭蕉「続虚栗」
蕣や是も又我が友ならず       芭蕉「今日の昔」
三ケ月や朝顔の夕べつぼむらん    芭蕉「虚栗」
わらふべし泣くべし我朝顔の凋(しぼむ)時 芭蕉「真蹟懐紙」
僧朝顔幾死かへる法の松       芭蕉「甲子吟行」
朝がほや一輪深き淵のいろ      蕪村「蕪村句集」(例句)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5054.html

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(二)」東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035822

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-29

≪ 右から、前図に続く「朝顔」と、その上の黄色い花は、尾形光琳の「夏草図屏風」に連なる「岩菲の花」はそのままにして置きたい。そして、朝顔の下の白い蕾のようなものは、白い「綿の実」(「部分拡大図」の右脇)と解したい。そして、それに連なる黄色い一輪の花は「綿の花」と解したい。そして、それに続く、「白い大輪(蕊はピンク)・蕾二つ」は「木槿」であろう。その脇の大きな朱の花は「鶏頭」で下部に小花を咲かせている。木槿や鶏頭の背後に描かれているピンクの粒状の花は「蓼の花」であろう。≫

あさがほの花に鳴行蚊のよわり    芭蕉「句選拾遺」

白雲や花に成行顔は嵯峨       其角「五元集」

 其角の「白雲や花に成行顔は嵯峨」は、芭蕉の「あさがほの花に鳴行蚊のよわり」の本句取りの一句であろう。この其角の句は、下記のアドレスで、次のとおり紹介されている。

http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

≪ 護国寺にあそぶ時、馬にてむかへられて

   白雲や花に成行顔は嵯峨  (『五元集』)

「花に成りゆく顔は嵯峨」と読むが、前書によれば、馬を回してもらって其角が護国寺へ行く途中の吟という事になる。遠くから白雲のように見えていたものが、次第に花の山になり、自分の顔も嵯峨の景の前にいるような「嵯峨顔」になって来たの意であろう。ここで嵯峨と言ったのは、護国寺の景を京の嵯峨に見立てて言っているのだが、元禄13年の夏、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来像の出開帳が江戸の護国寺で行われて大変評判になったので、江戸市中の人は嵯峨で分かるわけだ。

 『そこの花』(元禄十四年刊)には「嵯峨の釈迦武江に下り給ひける時」と前書し掲句が載っている。この前書だと、馬上の主体は釈迦如来像という事になる。即ち、はじめ白雲のように見えていたのが、花の山のさまになり、さらに近づくにつれて京の嵯峨と見まごう面影の護国寺の森が見えて来たとの、釈迦如来像からの眼になる仕掛けの句である。

 この「白雲や」のような句をつくる(作れる)俳人は、少ないだろう。明治以降主流になった写生句を超えているし、何よりも前書によって句の意味が変わってしまう等という「連句的手法」は、俳諧を自在にしたプロの俳諧師の仕事という事になろうか。≫

 掲出の、抱一の「朝がほや花の底なる蟻ひとつ」は、この芭蕉と其角の本句取りの一句と解したい。

「句意」は、「芭蕉翁は「朝顔」の句で『花に鳴行(なりゆく)蚊のよわり』と吟じた。それに対して、其角祖師は『花に成行顔は嵯峨」と唱和した。されば、芭蕉翁・其角祖師に唱和して、『朝がほ(「蚊」・「嵯峨の釈迦如来」」) や「花の底」には「蟻一つ(一匹)」』と唱和したい。』


5-52 新蕎麦のかけ札早し呼子鳥

 季語は「新蕎麦」(晩秋)=蕎麦の実が熟すより一か月ほど早く刈り取った蕎麦粉。熟す前の蕎麦ゆえに青みがありその風味を賞する。一日も早く初物を味わうことにこだわった江戸っ子に好まれた。最近では、今年取れた蕎麦という意味でも使われる。「蕎麦刈」は冬の季語。(「きごさい歳時記」)

(例句)

堂頭の新そばに出る麓かな    丈草「笈日記」
新蕎麦やむぐらの宿の根来椀   蕪村「夜半叟句集」
江戸店や初そばがきに袴客    一茶「一茶句帖」

 この「呼子鳥」(晩春)の季語であるが、季語としての「呼子鳥」(「万葉集」や「古今集」にも出てくるが、貎鳥同様、この鳥も何の鳥であるかはわかっていない。鶫、鶯、郭公など諸説あるがどれも不確か。猿の声という説もある。)ではなく、「新蕎麦の頃の晩秋の鳥」一般の意でのものであろう。

(例句)
雫たる山路のませんよぶこ鳥    重頼「犬子集」
むつかしや猿にしておけ呼子鳥   其角「五元集脱漏」
役なしの我を何とて呼子鳥     一茶「九番日記」

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5054.html

「江戸名所道化盡(歌川広景筆)」所収 「九・湯島天神の台」(「東京都立図書館」蔵)

https://ja.ukiyo-e.org/image/metro/025-C003-010

https://www.sankei.com/article/20170119-24TLY6LKLRMHBIYL7ZSVCVD2J4/

≪ 舞台は江戸・湯島天神の境内。不忍池が見える高台の風光明媚(めいび)な地。そばの出前をしている男が犬に足をかまれ、侍の頭にそばをぶちまけてしまう。ズッコケてしまった侍をお供の者が見て大笑い。背景の風景がきれいなだけに、こっけいさが際立つ。

 この錦絵は、広景の代表作「江戸名所道戯尽」シリーズの一つ「湯嶋天神の台」だ。「江戸名所道戯尽」は1859年から61年にかけて制作された50点からなる作品で、ちゃめっ気たっぷりの表現が特徴的。「本郷御守殿前」という作品は、突然の夕立に3人の男が肩車をして1本の傘に入ろうとする場面を描写。傘はところどころで破れ、下で支える男の不満そうな表情がおかしく、あきれるほどばかばかしい。≫

「句意」は、「初物好きの江戸っ子の『新蕎麦』の、その『掛けふだ(看板)』が早くも蕎麦屋に掛かった。折しも、空には、それを呼ぶかのように、名も知れない『呼子鳥』が鳴いている。」


    良夜瓢雨驟雨
5-53 宵寐して雨夜の月は夢にみむ

 「前書」の「良夜瓢雨驟雨」は、「中秋良夜瓢風驟雨(ちゅうしゅうりょうやひょうふうしゅうう)」(『老子(第二十三章)』など)に由来するもので、抱一の代表作に数えられている「夏秋草図屏風」(重要文化財 /二曲一双/紙本銀地着色/東京国立博物館蔵)は、この漢詩文の一節を表現したものとされている。

https://intojapanwaraku.com/rock/art-rock/1992/

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5054.html

酒井抱一「夏秋草図屏風」重要文化財 二曲一双 紙本銀地着色 江戸時代・文政4(1821)年ごろ 各164.5×181.8cm 東京国立博物館蔵

≪ 俳諧をたしなんでいた抱一は、あらかじめ考えていた「中秋良夜瓢風驟雨(ちゅうしゅうりょうやひょうふうしゅうう)」の言葉をもとに、月のきれいな秋の夜と激しい風雨の後の野を描きました。右隻は夕立の後で左隻は野分(のわけ。今でいう台風)の後。銀地は、右隻では雨を、左隻では月夜を表し、右から左にかけて過ぎ行く季節を、繊細な草花で表現しました。本来、右隻から左隻にかけて春夏秋冬を描く屏風も二曲一双では自由になり、抱一はその特性を最大限生かして傑作をものにしたのです。≫(「和楽WEB」)

 この抱一の傑作画は、文政四年(一八二一)、抱一、六十一歳時の作で、掲出の抱一の句は、寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時頃のものとすると、抱一は、この「中秋良夜瓢風驟雨」という命題を、実に、二十年という長い年月の末に、その具象化を試みたということになる。

 そして、この「前書」の「良夜瓢雨驟雨」の「良夜」は「仲秋」の季語で、「子季語」に「良宵・佳宵」、「関連季語」に「名月」、意味するところのものは「月の明るい美しい夜のことだが、主として旧暦八月十五日の中秋の名月の夜を指す。」(「きごさい歳時記」)

 「瓢雨驟雨」は、『老子(第二十三章)』の「瓢風驟雨」に由来する、抱一の造語のように思われる。

https://blog.mage8.com/roushi-23

≪(原文)

希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、同於道、徳者同於徳、失者同於失。同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。

(書き下し文)

希言(きげん)は自然なり。故(ゆえ)に飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終えず、驟雨(しゅうう)は日を終えず。孰(た)れかこれを為す者ぞ、天地なり。天地すら尚(な)お久しきこと能わず、而(しか)るを況(いわ)んや人に於(おい)てをや。故に道に従事する者は、道に同じくし、徳なる者は徳に同じくす、失なる者は失に同じくす。道に同じくする者は、道も亦(ま)たこれを得るを楽しみ、徳に同じくする者は、徳も亦たこれを得るを楽しみ、失に同じくする者は、失も亦たこれを得るを楽しむ。信足らざれば、焉(すなわ)ち信ぜられざること有り。≫『老子(第二十三章)』

「飄風(ひょうふう)は朝を終えず」=「瓢風は朝まで続かず」→「瓢雨・秋驟雨」(仲秋)

「驟雨(しゅうう)は日を終えず」=「驟雨も一日中続かない」→「驟雨・夕立」(三夏)

「句意」周辺

 季語は、前書の「良夜瓢雨驟雨」の「良夜」(仲秋)、「宵寐(良宵の宵寝)・月(良宵の月=旧暦八月十五日の中秋の名月)」(仲秋)」で、「仲秋」の「名月」の句ということになる。

そこに、前書の「瓢雨驟雨」を加味すると、これは「雨月」(仲秋・「中秋の名月が雨のために眺められないこと。名月が見られないの を惜しむ気持ちがある)の句の方が、より相応しい。

句意は、「今日は仲秋の名月の日、生憎の雨で、宵寝をして、雨の名月を夢見ることにしょう。」

(補記) 能「雨月」

http://www.tessen.org/dictionary/explain/ugetsu

前シテ 老人  じつは神の化身
後シテ 神職の老人(住吉明神の憑霊)
ツレ 姥  じつは神の化身
ワキ 西行法師
アイ 眷属の神

≪ 鎌倉初期。西行(ワキ)は歌神・住吉明神へ参詣のため、住吉の里に赴く。今夜の宿を願って訪れた一軒の庵には、雨音の風情を楽しむ翁(前シテ)と、月光を愛でる姥(ツレ)の、風流な老夫婦が住んでいた。屋根を葺くべきか、葺かぬべきか。そう嘆じる翁の言葉は、期せずして歌の下句となった。これに上句を付けたならば宿を貸そうと言う翁へ、西行は二人の美学を汲み、見事な上句を付ける。しみじみとした夜、雨音かと聞き紛う松風の声に耳を傾け、秋の風情を楽しんでいた三人。やがて夜は更け、夫婦は眠りにつこうと言うと、そのまま姿を消してしまう。実はこの夫婦こそ、住吉明神の化身であった。

 やがて、西行の前に、神職に憑依した住吉明神(後シテ)が現れた。明神は歌道の奥義を示し、西行こそ和歌を語り合うべき友だと告げる。閑かに舞を舞い、歌も舞も心の表れだと明かす明神。明神は、この神託を疑わぬよう言い遺すと、天に昇ってゆくのだった。≫

(追記) 「夏秋草図屏風」

酒井抱一(その五)「抱一の代表作を巡るドラマ」


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-26


抱一の「銀」(夏秋草図屏風)と「金」(下絵)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-28


「四季花鳥図屏風」の左隻(秋)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-28


「秋夜月扇子」(抱一筆・季鷹賛)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-03


抱一筆「月に秋草鶉図屏風」など


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-12



5-54 霧吸て蟲も千代経ん渓の菊

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-5054.html

「菊慈童図」(酒井抱一筆/足立区千住個人蔵)

http://jmapps.ne.jp/adachitokyo/det.html?data_id=15560

≪ 抱一の作品中で未表装のまま伝来した希少な例である。やわらかな画風で抱一の比較的若い時代の作品と推定される。画題の菊慈童は菊の露を飲んで不老不死の仙人になった童の伝説を描く。俳賛は「やまに居て 七百とせや きくの酒」で、慈童がすむ魏の酈縣山(れっけんざん)と、その年齢「七百歳」、不老長寿の菊葉の水を表している。≫(「足立区立郷土博物館」)

 掲出の句の季語は、「渓の菊」の「菊」(三秋)。この「渓(たに)」が、「渓谷・幽谷」の「菊慈童」が流刑された「酈縣山(れっけんざん)」を連想させる。

 山中や菊はたおらぬ湯の匂 (芭蕉『おくの細道』)

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuno33.htm

≪ 謡曲『菊慈童』に、周の国の慈童が菊の露を飲んで不老長寿を得たとする話。これを題材として、薬効のある山中温泉のお湯ならば、菊の露など飲まなくても700年の不老長寿が得られるに違いないと、宿屋の主人桃妖への挨拶吟。≫(「芭蕉発句全集」)

 ちなみに、「虫も千代経ん」の「虫」も「三秋」の季語。

 蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 (芭蕉『続虚栗』)

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/minomusi.htm

≪ 貞亨4年秋、深川芭蕉庵での作。芭蕉は、この句をもって秋の虫の音を聴く会を開くべく俳友に芭蕉庵へ来るようにさそったのである。このとき、嵐雪にも届けられたが、かれは、「蓑虫を聞きに行く辞」なるものを書いて「何も音無し稲うちくふて螽<いなご>哉」なる句を添えたという話が残っている。

 なお、伊賀上野の服部土芳は、貞亨5年3月4日庵を開き、些中庵<さちゅうあん>と名づけたが、3月11日、折りしも『笈の小文』の途次伊賀上野に立ち寄った芭蕉をそこに招き句会を開いた。このとき芭蕉は一枚の絵を土芳にプレゼントし、その画讃にこの句があったので、特に蕉翁に許しを得て、この庵を「蓑虫庵」と改名したという。また、このときの句会の發句がこの句であったので、庵名をこのように変えたという説もあって判然としない。≫(「芭蕉発句全集」)

「句意」は、「能・謡曲・長唄」にも取り上げられている「菊慈童」(「菊慈童」伝説)は、奥深い山中の露の「菊の露」を飲んで「千代」の「不老長寿」を賜ったが、この深い渓間の「虫」(「蓑虫庵」の連集)も、「菊の露」ならず「菊の霧」を飲んで「千代」までの「佳吟」を遺すことであろう。

(補記) 能「菊慈童」

http://www.tessen.org/dictionary/explain/kikujidou

(前シテ) 周の穆王(ぼくおう)の寵童 慈童

シテ  同(不老長寿の身)
ワキ 魏の文帝の勅使
ワキツレ 勅使の従者 【2人】
(ワキツレ) 周の穆王の官人
(ワキツレ) 輿を担ぐ役人 【2人】

≪〔中国 周の時代。誤って王の枕を跨いだ王の寵童・慈童(前シテ)は、酈縣山へ配流となる。彼が流刑地へ続く唯一の橋を渡り終えるや、非情にも橋を切り落とした警護の官人(ワキツレ)。慈童は、王の形見の枕を抱きつつ、ひとり山中に取り残されるのだった。〕

 それから七百年が経った魏の時代。酈縣山麓から霊水が湧き出たとの報せに、勅使(ワキ・ワキツレ)が現地へ派遣される。すると、山中には一軒の庵があり、中には一人の童子(シテ)がいた。彼こそ、かの慈童のなれの果て。実は彼は、形見の枕に添えられた妙文を菊の葉に書きつけ、そこから滴る雫を飲んだことで、不老不死の身となっていたのだ。慈童は〔妙文の功徳を勅使に説いて聞かせると〕、不老長寿の薬の酒を讃えつつ上機嫌で舞い戯れ、妙文を勅使に捧げて帝の安寧を言祝ぐのだった。≫
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第五 千づかの稲(5-46~5-49) [第五 千づかのいね]

   門(文)覚上人の院宣を持来たる
    處畫たるに
5-46 伊豆千鳥その足あとの力かな

    李笠翁になろふて
5-47 一幅の春掛ものやまどの冨士
5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ
5-49 水になる自剃盥や雲のみね


    門(文)覚上人の院宣を持来たる
    處畫たるに
5-46 伊豆千鳥その足あとの力かな

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-465-49.html

「那智滝で滝行を行う文覚と、文覚を助ける矜羯羅童子・制多迦童子」(月岡芳年画)(「ウィキペディア」)

門(文)覚上人(「ウィキペディア」)

 文覚(「もんがく、生没年不詳])は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。

 (中略)

『平家物語』では巻第五の「文覚荒行」、「勧進帳」、「文覚被流」、「福原院宣」にまとまった記述があり、海の嵐をも鎮める法力を持つ修験者として描かれている。頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して蹶起をうながしたり、配流地の伊豆から福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか8日で院宣をもたらした。巻十二の「泊瀬六代」では頼朝に直接六代助命の許し文を受け取りにいく。また後鳥羽上皇の政を批判したため隠岐国に流されるが、後に上皇自身も承久の乱で隠岐国に流される結果になったとする。いずれも史実との食い違いが多く、『平家物語』特有のドラマチックな脚色がなされていると言える。 

 (中略)

 那智滝の下流に文覚が修行をしたという「文覚の滝」が存在し、滝に打たれる文覚の元に不動明王の使いがやってきて修行を成就するシーンがよく描かれる。この滝は2011年(平成23年)の紀伊半島大水害で消滅した。


 上記の「那智滝で滝行を行う文覚と、文覚を助ける矜羯羅童子・制多迦童子」(月岡芳年画)は、『平家物語』では巻第五の「文覚荒行」の場面のものである。これに続く、「文覚被流」や「福原院宣」の、流刑地の「伊豆」から「福原京の藤原光能のもとへ赴いて後白河法皇に平氏追討の院宣を出させるように迫り、頼朝にわずか8日で院宣をもたらした」場面を、抱一が描いたのであろう。そして、その画に「賛」をして欲しいと頼まれて、一句認めた「賛」が掲出句ということになろう。

  伊豆千鳥その足あとの力かな

「季語」は、「千鳥」(三冬)。「チドリ科の鳥の総称で留鳥と渡り鳥がある。嘴は短く、色は灰褐色。足を交差させて歩むのが千鳥足。酔っ払いの歩行にたとえられる。」(「季語さい歳時記」)

(例句)

星崎の闇を見よとや啼千鳥 芭蕉「笈の小文」
一疋のはね馬もなし川千鳥   芭蕉「もとの水」
千鳥立更行初夜の日枝おろし  芭蕉「伊賀産湯」

 「文覚忌」(初秋)も季語で、「陰暦七月二十日、真言宗の僧文覚の忌日。もと北面の武士で遠藤盛遠。袈裟御前を誤って殺し出家、熊野で苦行した。神護寺復興、東大寺大修理を主導したほか、頼朝の挙兵を助成。幕府開創後重用された。晩年隠岐に流刑。終焉のことは不明。」(「季語さい歳時記」)

 「前書」との一体性を重視すると、「文覚忌」(初秋)の一句としての「句意」もあろう。

「句意」は、歌舞伎・浄瑠璃の外題にもなっている「文覚上人」の、流刑地、伊豆での「源頼朝」に「後白河法皇の平氏追討の院宣」をもたらした場面も一幅の絵にした。その絵に「賛をせよ」というので、「伊豆千鳥その足あとの力かな」(伊豆の浜辺の千鳥の足跡は、伊豆と福原とを八日間で往復し、平家追悼の院宣を持って帰ってきた「荒行法師」として名高い「文覚上人」の力強い足跡のように見える。)の一句を「賛」した。


     李笠翁になろふて
5-47 一幅の春掛ものやまどの冨士

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

 上記のアドレスでは、この前書(「李笠翁になろふて」)は、この句に続く「5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ」と「5-49 水になる自剃盥や雲のみね」にも掛かるものと解したが、季語の観点からすると、「5-47 一幅の春掛ものやまどの冨士」(春)、「5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ」(夏)、そして、「5-49 水になる自剃盥や雲のみね」(夏)で、この前書は、「5-47 一幅の春掛ものやまどの冨士」(春)にのみ掛かるものとして鑑賞したい。

「李笠翁」

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

≪ この「李笠翁」(李漁)については、百科事典(マイペディア)などでは、次のとおり紹介されているが、与謝蕪村と池大雅の競作画帖「十便(大雅画)十宣(蕪村画)図」(国宝)の主題が、李笠翁の山居「伊園」における漢詩に基づくものであるということと、蕪村や大雅に大きな影響を与えた『芥子園画伝』(中国、清初に刊行された画譜)の「序」を起草した、その人こそ「李笠翁(李漁)」ということの方が、上記の抱一の句の前書きには相応しいのかも知れない。

https://kotobank.jp/word/李漁-148469

【「李笠翁」(李漁)→中国,明末清初の劇作家。字は笠翁(りゅうおう)。江蘇省の出身。明滅亡後清に仕えず終わる。自作の戯曲を上演し全国の名家を巡遊。自由で大胆な表現で恋愛や滑稽(こっけい)を扱った《笠翁十種曲》,口語短編小説集《無声戯》,戯曲論,演出論を含む随筆集《閑情偶寄》などがある。日本には18世紀初頭に伝えられ,読本(よみほん)などに影響を与えた。】≫

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/06/5-465-49.html

『古今画藪、後八種』(宋紫石画)「笠翁居室図式」(第八巻)「尺幅窓図式」(「早稲田大学図書館蔵・高村光雲旧蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_b0132/bunko08_b0132_0008/bunko08_b0132_0008_p0014.jpg

≪ 抱一は、歌川豊春に「浮世絵」、宋紫石に「漢画(明画)」を習ったされ(『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』所収「屠龍之技(贅川他石稿)」)、その宋紫石の『古今画藪』に、上記の「閑情偶奇」のものが、上記のとおりに翻刻され、掲載されている。

 この「尺幅窓図式」とは、「窓枠を掛幅に見立て、窓の外の風景を絵として楽しむ趣向をあらわしている」図ということになる。ここで、抱一の、「李笠翁になろふて」を前書きとする「一幅の春掛ものやまどの冨士」の句意は明瞭になってくる。すなわち、「李笠翁に倣って、この窓枠を一幅の春掛物と見立てて、実景の『冨士』を愉しむこととしよう」ということになる。 ≫

「季語」は「春」(三春)。「句意」は、「李笠翁に倣って、この窓枠を一幅の春掛物と見立てて、実景の『冨士』を愉しむこととしよう。」


5-48 井の水の浅さふかさの門すゞみ

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

≪ この句は、「門(かど)涼み」(外に出て夕涼みをすること・晩夏の季語)の句である。「井の水」の、「井」は、「掘り抜き井戸」ではなく、「湧(わ)き水や川の流水を汲み取る所」の意であろう。「門涼み」とは別に、「噴井(ふきい)」(絶え間なく水が湧き出ている井戸、三夏の季語)という季語もある。

 句意は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている」というようなことであろう。特別に「李笠翁になろふて」の前書きが掛かる句ではないかも知れないが、強いて、その前書きを活かすとすれば、「風流人・李笠翁に倣い」というようなことになろう。

 そして、次の無風流な宝井其角の作とされる句と対比させると、「風流人・李笠翁に倣い」というのが活きてくるという雰囲気で無くもない。

 夕すずみよくぞ男に生れけり  宝井其角(伝)    ≫

「季語」は、「門(かど)涼み・納涼(すずみ)」(晩夏)。「句意」は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている。」



5-49 水になる自剃盥や雲のみね

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

≪ 季語は「雲のみね(峰)」(聳え立つ山並みのようにわき立つ雲。積乱雲。夏といえば入道雲であり、夏の代名詞である。盛夏の季語)、「自剃盥」というのは、剃髪用の盥というようなことであろう。句意は、「雲に峰の夏の真っ盛りで、自剃盥も、お湯ではなく、冷たい水で、それが実に気持ちが良い」というようなことであろう。」

  香薷(じゆ)散犬がねぶつて雲の峰  宝井其角(『五元集』)

 この句は、抱一俳諧の師筋として敬愛して止まない其角の「雲の峰」の句である。表面的な句意は、「雲の峰が立つ真夏の余りの暑さに、犬までが暑気払いの『香薷(じゆ)散』を舐(なぶ)っている」というようなことであろう。

 しかし、この句の背景は、『事文類聚』(「列仙全伝」)の故事(准南王が仙とし去った後、仙薬が鼎中に残っていたのを鶏と犬とが舐めて昇天し、雲中に鳴いたとある)を踏まえているという。

 すなわち、其角は、この句に、当時の其角の時代(元禄時代)の、「将軍綱吉の『生類憐れみの令』による犬保護の世相と、犬の増長ぶりを諷している」(『其角と芭蕉と(今泉準一著)』)というのである。

 とすると、抱一の、この「水になる自剃盥や雲のみね」の句も、抱一の寛政時代の「松平定信の寛政の改革」と、自己に降り掛かった、その「寛政時代(寛政九年)の出家」が、その背景にあると解しても、それほど違和感もなかろう。

 ここまで来ると。この句の、意表を突く上五の「水になる」というのは、抱一の、当時の「時代風詩」と「己の自画像」と読めなくもない。

 すなわち、この句の「雲の峯」は、「寛政の改革の出版統制や風紀統制」など、また、抱一自身の「若き日の青雲の志」などが、その背景にあると解すると、この句の上五の「水になる」は、文字とおり、それらの「青雲の志」が、「水になる」ということになろう ≫

「季語」は、「雲のみね(峰)」(三夏)。「句意」は、「雲に峰の夏の真っ盛りで、自剃盥も、お湯ではなく、冷たい水で、それが実に気持ちが良い」というようなことであろう。」
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