第四 椎の木かげ(4-29~4-32) [第四 椎の木かげ]
4-29 市人の喧嘩やとしの川向ひ
季語=「としの川向ひ」=「年の瀬(せ=川)」(仲冬・暮・歳末・歳晩)など」(「都市」の「川向ひ)」=「川向こう」が掛けられている用例と解する。)
「喧嘩(水論)」も季語(仲夏)だが、ここは一群(4-29~4-32)の「歳末」の句として置きたい。
「望白馬津」(前書)=「白馬津(「白馬の戦い」と「延津の戦い」を「望む」)
https://three-kingdoms.net/26161
句意(その周辺)=前書の「「望白馬津」を、「三国志」の「白馬津(「白馬の戦い」と「延津の戦い」を「望む」)との、大袈裟の意に解して、「江戸八百八町」(「助六由縁江戸桜」の一節)の年の暮れの句意とする。
句意(その周辺)=百姓の「水喧嘩」と同じく、「川」(墨田川)の「西岸」(「いろは四十八組」の火消しが管轄する「江戸八百八町」)の「市人」(江戸の住人)は、「火事と喧嘩は江戸の華」とやらで、この年の暮れの忙しい最中にあっても、「三国志」の「白馬津の戦い」のように喧嘩ばかりしている。
(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html
「め組の喧嘩」(め組の喧嘩は、文化二年二月(1805年3月)に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件。講談や芝居の題材にされた)=「ウィキペディア」)
https://mag.japaaan.com/archives/166647
4-30 麓にも手を組む松や師走山
季語=「師走山」の「師走」(仲冬・暮・歳末・歳晩)」など)
「師走山」=「師走の山」=この「師走山」は、「待乳山聖天宮(まつちやましょうでんぐう)」の、「師走の待乳山」(下記の「東都三十六景 今戸橋真乳山」の「真乳山」)と解したい。
句意(その周辺)=「墨田川」と「山谷堀」との分岐点の「待乳山聖天宮・今戸橋」は、今、まさに、その「待乳山」は「師走山」と化して、その麓の「今戸橋」の傍らの「松」は、何やら、「手を組む(んで)」いるような光景である。(蛇足=この麓の「松」から通じている「山谷堀」の「日本堤」を上って行くと「吉原大門」に通ずる。さて、どうするか「手を組んで」いるのである。そして、それはまた、「望白馬津」なのである。)
(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html
「東都三十六景 今戸橋真乳山」(絵師:広重出版者:相ト)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail308.html?sights=matsuchiyamashodengu-imadobashi
「待乳山聖天宮・今戸橋 (まつちやましょうでんぐう・いまどばし)」
https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/matsuchiyamashodengu-imadobashi/
≪(解説) 待乳山は現在の隅田公園内にある小さい丘で、東に筑波山、西に富士山をのぞむことができた。本所・深川などが埋立てられる以前はこの山を入津の目標にしていたといわれ、付近の土を採って日本堤を築いたという言伝えもある。山上には聖天しょうでん宮が祀られ、商店・花柳界の信仰が厚かった。山の下にある今戸橋は山谷堀の最下流にかかっており、現在の浅草7丁目と今戸1丁目を結ぶ。≫
4-31 としの菊うち拂ふ袖のほこり哉
季語=「としの菊」=「師走の菊」(仲冬・暮・歳末・歳晩)」など)
「袖」=① 衣服で、身頃(みごろ)の左右にあって、腕をおおう部分。和服には、袂(たもと)の長さや形によって、大袖、小袖、広袖、丸袖、角袖、削(そぎ)袖、巻袖、元祿袖、振袖、留袖、筒袖などの種類があり、袂を含んでいうことがある。② 鎧(よろい)の付属具。③ 牛車(ぎっしゃ)の部分の名。
⑫ 小袖のこと。
※俳諧・独吟一日千句(1675)四「うたひ初とてまかり立声 広蓋に匂ひをふくむ花の袖」
⑬ 振袖のこと。また特に、振袖新造(しんぞう)をいう。
※雑俳・柳多留‐四八(1809)「本鬮(くじ)が三歩で袖が一歩也」
⑭ 「そでとめ(袖留)」の略。
※雑俳・柳多留‐三(1768)「しんぞうの袖も思へばこわいもの」(「精選版 日本国語大辞典」)
「ほこり(埃)」=① とび散る粉のようなごみ。細かいちり。② 数量や金銭などの余り。残余。はした。(「精選版 日本国語大辞典」)
句意(その周辺)=「菊・袖・埃」と、何とも平易な言葉だが、この三つの平易な言葉を連結する足掛かりが、これまた、何とも平易には見つからない。この「袖」は、「振袖新造」(15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。)の雰囲気もするのだが、ここは、前書の「望白馬津」に敬意を表して、この「ほこり(埃)」に着目し、「師走」の「十二月十三日」の「煤払い(すすはらい)・煤掃(すすはき)」の、「江戸城大掃除の日」の「一年間に溜まった煤や埃を掃き清めるとともに、邪気や穢れをも払うという意味の年中行事が行われる日」と関連させたい。
すなわち、この翌日の「十二月十四日」は、「旧赤穂藩士・四十七士による吉良邸討ち入り事件」(浄瑠璃や歌舞伎では「仮名手本忠臣蔵」通称、「忠臣蔵」、講談では「赤穂義士伝」、「義士伝」)があった「望白馬津」の最大の「大喧嘩」の日なのである。
そして、それは、後に、歌舞伎の「松浦の太鼓」の、その「両国橋の場」の、「雪の降る師走の江戸、俳諧の師匠宝井其角は両国橋で笹売りに身をやつしている赤穂浪士の大高源吾(仮名手本忠臣蔵では塩冶家浪人・大鷹文吾に相当)に偶然出会う」場面と重なってくる。
句意=今日は、「師走」の大掃除の十三日、吉原の「振袖新造」(「袖」)が、「菊」(「としの菊」)の「ほこり(埃)」を、その「袖の埃」を「打ち払う」ように、綺麗に飾り立てている。(蛇足=「仮名手本忠臣蔵(後の「松浦太鼓)」の、その「両国橋の場」での、宝井其角宗匠の「年の瀬や/水の流れと/ 人の身は」に、義士の大高源吾(俳号=子葉)が「明日待たるゝ その宝船」と唱和した場面が、しみじみと思い起こされてくる。)
(参考) 「松浦の太鼓(歌舞伎)」周辺
(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html
「両国橋で出会う源五さん(左)と其角さん」(大石神社の絵馬より)
http://chushingura.biz/gisinews07/news203.htm
https://kabukist.com/matsuuranotaikokabuki-7035
↓
「松浦の太鼓(歌舞伎)のセリフの謎は連歌にある!」
4-32 行年や何を遣手が夜念仏
季語=「行年」=行く年(ゆくとし)/暮(仲冬)
https://kigosai.sub.jp/001/archives/2740
【子季語】暮れ行く年、年逝く、年流る、流るる年、年浪流る、去ぬる年、年送る、年歩む
【解説】押し詰まった年末、忙しい日々の束の間に、過ぎ去ったこの年を思い浮かべる。また残り少なくなった暮れの日数にも感慨深いものがある。
【例句】
行く年や石噛みあてて歯にこたへ 来山「元禄七年歳旦牒」
行年や芥流る々さくら川 蕪村「夜半亭」
行年の脱けの衣や古暦 蕪村「落日庵」
行く年や空の青さに守谷まで 一茶「我春集」
「夜念仏」=「夜、念仏を唱えること。夜、唱える念仏。よねんぶつ。」
※謡曲・春栄(1435頃)「急いで来迎の夜念仏、声清光に彌陀の国の」
句意(その周辺)=「行く年・来る年」の「大晦日」の「吉原」は、「引け四ツ」(午前零時頃)が過ぎて客がいなくなると、若い者(妓牛)は、通りに門松を出し、注連縄(しめなわ)を飾るなど大忙しである。その最中、遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役をする「遣手(やりて)」が、何やら、一心不乱に「夜念仏」を唱えている。(蛇足=「行く年」の一年間の「望白馬津」の「あれこれ」を回想しつつ、「来る年」の「商売繫盛」を祈念しているのであろう。)
(参考一) 酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-12
(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html
酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)
十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他
【もと六曲一双の屏風に各扇一図ずつ十二図が貼られていたものを、現在は十二幅の掛幅に改装され、複数の個人家に分蔵されている。吉原の十二か月の歳時を軽妙な草画に表わし、得意の俳句もこれまた達意の仮名書きで添えたもので、抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている。
正月(元旦)「花街柳巷 雨華道人書之」の隷書体の題字に「元旦やさてよし原はしつかなり」の句。立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)
(参考二) 「廓の一日・吉原の正月」周辺
https://yahantei.blogspot.com/2023/01/1-11.html
(参考三) 「謡曲・春栄」周辺
http://www.tessen.org/dictionary/explain/shunnei
季語=「としの川向ひ」=「年の瀬(せ=川)」(仲冬・暮・歳末・歳晩)など」(「都市」の「川向ひ)」=「川向こう」が掛けられている用例と解する。)
「喧嘩(水論)」も季語(仲夏)だが、ここは一群(4-29~4-32)の「歳末」の句として置きたい。
「望白馬津」(前書)=「白馬津(「白馬の戦い」と「延津の戦い」を「望む」)
https://three-kingdoms.net/26161
句意(その周辺)=前書の「「望白馬津」を、「三国志」の「白馬津(「白馬の戦い」と「延津の戦い」を「望む」)との、大袈裟の意に解して、「江戸八百八町」(「助六由縁江戸桜」の一節)の年の暮れの句意とする。
句意(その周辺)=百姓の「水喧嘩」と同じく、「川」(墨田川)の「西岸」(「いろは四十八組」の火消しが管轄する「江戸八百八町」)の「市人」(江戸の住人)は、「火事と喧嘩は江戸の華」とやらで、この年の暮れの忙しい最中にあっても、「三国志」の「白馬津の戦い」のように喧嘩ばかりしている。
(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html
「め組の喧嘩」(め組の喧嘩は、文化二年二月(1805年3月)に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件。講談や芝居の題材にされた)=「ウィキペディア」)
https://mag.japaaan.com/archives/166647
4-30 麓にも手を組む松や師走山
季語=「師走山」の「師走」(仲冬・暮・歳末・歳晩)」など)
「師走山」=「師走の山」=この「師走山」は、「待乳山聖天宮(まつちやましょうでんぐう)」の、「師走の待乳山」(下記の「東都三十六景 今戸橋真乳山」の「真乳山」)と解したい。
句意(その周辺)=「墨田川」と「山谷堀」との分岐点の「待乳山聖天宮・今戸橋」は、今、まさに、その「待乳山」は「師走山」と化して、その麓の「今戸橋」の傍らの「松」は、何やら、「手を組む(んで)」いるような光景である。(蛇足=この麓の「松」から通じている「山谷堀」の「日本堤」を上って行くと「吉原大門」に通ずる。さて、どうするか「手を組んで」いるのである。そして、それはまた、「望白馬津」なのである。)
(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html
「東都三十六景 今戸橋真乳山」(絵師:広重出版者:相ト)
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail308.html?sights=matsuchiyamashodengu-imadobashi
「待乳山聖天宮・今戸橋 (まつちやましょうでんぐう・いまどばし)」
https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/matsuchiyamashodengu-imadobashi/
≪(解説) 待乳山は現在の隅田公園内にある小さい丘で、東に筑波山、西に富士山をのぞむことができた。本所・深川などが埋立てられる以前はこの山を入津の目標にしていたといわれ、付近の土を採って日本堤を築いたという言伝えもある。山上には聖天しょうでん宮が祀られ、商店・花柳界の信仰が厚かった。山の下にある今戸橋は山谷堀の最下流にかかっており、現在の浅草7丁目と今戸1丁目を結ぶ。≫
4-31 としの菊うち拂ふ袖のほこり哉
季語=「としの菊」=「師走の菊」(仲冬・暮・歳末・歳晩)」など)
「袖」=① 衣服で、身頃(みごろ)の左右にあって、腕をおおう部分。和服には、袂(たもと)の長さや形によって、大袖、小袖、広袖、丸袖、角袖、削(そぎ)袖、巻袖、元祿袖、振袖、留袖、筒袖などの種類があり、袂を含んでいうことがある。② 鎧(よろい)の付属具。③ 牛車(ぎっしゃ)の部分の名。
⑫ 小袖のこと。
※俳諧・独吟一日千句(1675)四「うたひ初とてまかり立声 広蓋に匂ひをふくむ花の袖」
⑬ 振袖のこと。また特に、振袖新造(しんぞう)をいう。
※雑俳・柳多留‐四八(1809)「本鬮(くじ)が三歩で袖が一歩也」
⑭ 「そでとめ(袖留)」の略。
※雑俳・柳多留‐三(1768)「しんぞうの袖も思へばこわいもの」(「精選版 日本国語大辞典」)
「ほこり(埃)」=① とび散る粉のようなごみ。細かいちり。② 数量や金銭などの余り。残余。はした。(「精選版 日本国語大辞典」)
句意(その周辺)=「菊・袖・埃」と、何とも平易な言葉だが、この三つの平易な言葉を連結する足掛かりが、これまた、何とも平易には見つからない。この「袖」は、「振袖新造」(15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。)の雰囲気もするのだが、ここは、前書の「望白馬津」に敬意を表して、この「ほこり(埃)」に着目し、「師走」の「十二月十三日」の「煤払い(すすはらい)・煤掃(すすはき)」の、「江戸城大掃除の日」の「一年間に溜まった煤や埃を掃き清めるとともに、邪気や穢れをも払うという意味の年中行事が行われる日」と関連させたい。
すなわち、この翌日の「十二月十四日」は、「旧赤穂藩士・四十七士による吉良邸討ち入り事件」(浄瑠璃や歌舞伎では「仮名手本忠臣蔵」通称、「忠臣蔵」、講談では「赤穂義士伝」、「義士伝」)があった「望白馬津」の最大の「大喧嘩」の日なのである。
そして、それは、後に、歌舞伎の「松浦の太鼓」の、その「両国橋の場」の、「雪の降る師走の江戸、俳諧の師匠宝井其角は両国橋で笹売りに身をやつしている赤穂浪士の大高源吾(仮名手本忠臣蔵では塩冶家浪人・大鷹文吾に相当)に偶然出会う」場面と重なってくる。
句意=今日は、「師走」の大掃除の十三日、吉原の「振袖新造」(「袖」)が、「菊」(「としの菊」)の「ほこり(埃)」を、その「袖の埃」を「打ち払う」ように、綺麗に飾り立てている。(蛇足=「仮名手本忠臣蔵(後の「松浦太鼓)」の、その「両国橋の場」での、宝井其角宗匠の「年の瀬や/水の流れと/ 人の身は」に、義士の大高源吾(俳号=子葉)が「明日待たるゝ その宝船」と唱和した場面が、しみじみと思い起こされてくる。)
(参考) 「松浦の太鼓(歌舞伎)」周辺
(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html
「両国橋で出会う源五さん(左)と其角さん」(大石神社の絵馬より)
http://chushingura.biz/gisinews07/news203.htm
https://kabukist.com/matsuuranotaikokabuki-7035
↓
「松浦の太鼓(歌舞伎)のセリフの謎は連歌にある!」
4-32 行年や何を遣手が夜念仏
季語=「行年」=行く年(ゆくとし)/暮(仲冬)
https://kigosai.sub.jp/001/archives/2740
【子季語】暮れ行く年、年逝く、年流る、流るる年、年浪流る、去ぬる年、年送る、年歩む
【解説】押し詰まった年末、忙しい日々の束の間に、過ぎ去ったこの年を思い浮かべる。また残り少なくなった暮れの日数にも感慨深いものがある。
【例句】
行く年や石噛みあてて歯にこたへ 来山「元禄七年歳旦牒」
行年や芥流る々さくら川 蕪村「夜半亭」
行年の脱けの衣や古暦 蕪村「落日庵」
行く年や空の青さに守谷まで 一茶「我春集」
「夜念仏」=「夜、念仏を唱えること。夜、唱える念仏。よねんぶつ。」
※謡曲・春栄(1435頃)「急いで来迎の夜念仏、声清光に彌陀の国の」
句意(その周辺)=「行く年・来る年」の「大晦日」の「吉原」は、「引け四ツ」(午前零時頃)が過ぎて客がいなくなると、若い者(妓牛)は、通りに門松を出し、注連縄(しめなわ)を飾るなど大忙しである。その最中、遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役をする「遣手(やりて)」が、何やら、一心不乱に「夜念仏」を唱えている。(蛇足=「行く年」の一年間の「望白馬津」の「あれこれ」を回想しつつ、「来る年」の「商売繫盛」を祈念しているのであろう。)
(参考一) 酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-12
(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html
酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)
十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他
【もと六曲一双の屏風に各扇一図ずつ十二図が貼られていたものを、現在は十二幅の掛幅に改装され、複数の個人家に分蔵されている。吉原の十二か月の歳時を軽妙な草画に表わし、得意の俳句もこれまた達意の仮名書きで添えたもので、抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている。
正月(元旦)「花街柳巷 雨華道人書之」の隷書体の題字に「元旦やさてよし原はしつかなり」の句。立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)
(参考二) 「廓の一日・吉原の正月」周辺
https://yahantei.blogspot.com/2023/01/1-11.html
(参考三) 「謡曲・春栄」周辺
http://www.tessen.org/dictionary/explain/shunnei
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