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第五 千づかの稲(5-29~5-33) [第五 千づかのいね]

    庚申春興
5-29 汐澹桶は沖のかすみや汲に行
     読抱朴子
5-30 首延て霞を呑か嶺のつる
5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月
5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子
5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

庚申春興
5-29 汐澹桶(たご)は沖のかすみや汲に行

 前書の「庚申春興」は、「康申=寛政十二年(一八〇〇)、春興=新年句会」で、抱一、四十歳時の、新年句会での一句ということになる。

 この句の「季語」は、「霞」(三春)=「春の山野に立ち込める水蒸気。万物の姿がほのぼのと薄れてのどかな春の景色となる。同じ現象を夜は「朧」とよぶ。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

春なれや名もなき山の薄霞   芭蕉「野ざらし紀行」
大比叡やしの字を引て一霞   芭蕉「江戸広小路」
はなを出て松へしみこむ霞かな 嵐雪「玄峰集」
橋桁や日はさしながら夕霞   北枝「卯辰集」
狂ひても霞をいでぬ野駒かな  沾徳「合歓の花道」
高麗船のよらで過行霞かな   蕪村「蕪村句集」
草霞み水に声なき日ぐれ哉   蕪村「蕪村句集」
山寺や撞そこなひの鐘霞む   蕪村「題苑集」
指南車を胡地に引去ル霞哉   蕪村「蕪村句集」

「汐澹桶(たご)」=「汐汲桶」=「『田子桶』とも言います。昔塩を作るために海水を汲んだ桶のことで、小道具としては直径22~23センチ、高さ24センチほど、外側は銀箔でまかれ群青で浪の模様を描き、内側は水の入っているように群青色で塗ってあります。

能の松風ではこれを車に乗せ曳いてきます。踊りでは割竹に紅白の布を巻いた棒の両端に、60センチほどの紐4本で桶を下げて、これを肩に担いで使う事が多いです。」(「玉井流日本舞踊教室」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

月岡耕漁「能楽図絵」より「松風」(「ウィキペディア」)

≪『松風』(まつかぜ)は能楽作品の一つである。成立は室町時代。観阿弥のオリジナルを世阿弥が改修したと考えられる。須磨に流された貴公子と海人との深交を記した『撰集抄』・『源氏物語』の説話、及び『古今和歌集』の在原行平の歌を元にした秋の曲である。
 シテ:海人松風の霊、
ツレ:海人村雨(松風の妹)の霊、
ワキ:旅の僧、
アイ:里の男。正面先に松の作り物。

ワキとアイの応対により、海辺の松は松風、村雨姉妹の旧跡であると説明される。作り物の潮汲み車が置かれ、一声があり、松風と村雨の姉妹が登場する。村雨は水桶を持つ。姉妹は在原行平との恋の日々を舞い、謡い、松風は大鼓前で床几に腰掛け、村雨はその後ろに座る。

 ワキ僧はこの二人に対し、海人の家を一夜の宿とさせてくれぬかと乞う。三人の会話の内に、須磨に流された貴公子在原行平と海人の姉妹が恋を結んだ次第が語られる。美しい姉妹の容貌も恋情も身分違いの前には如何ともし難く、結局一途な恋は実ることがなかった。ここで姉妹は実は自分達がその昔の姉妹の霊であると打ち明け、平座する。

 後ジテは行平形見の烏帽子と狩衣をまとい、ツレと共に叶わなかった恋と行平を偲び舞う。やがて、「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる 待つとし聞かば いま帰り来ん」(在原行平)の歌に始まる中ノ舞から心が激して破ノ舞となり、夜明けと共に霊は去って行く。

 『帰る波の音の、須磨の浦かけて、吹くやうしろの山颪、関路の鳥も声声に、夢も後なく夜も明けて、村雨と聞きしもけさ見れば、松風ばかりや残るらん、松風ばかりや残るらん』(ワキのトメ拍子)。熊野と共に賞賛された能であり、熊野の春、松風の秋、熊野の花、松風の月と好対照をなしている。≫

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

酒井抱一「松風村雨図」(細見美術館蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-20

≪「松風村雨図」は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予測させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)≫

 この抱一の「松風村雨図」では、後ろの立ち姿の女性(村雨?)が「汐汲桶(しおくみおけ)」(「汐澹桶(たご)」・「田子桶」)を肩にしている(その前の「烏帽子」を手に立膝の女性の着物の柄には「千鳥」と「松」が描かれており「松風」のように思われる。(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

「句意」は、この新年の「康申春興」に際して、正に「論語」の「四十而不惑」(「四十にして惑わず」)を実感する。思い起こせば、早世した、実兄の姫路藩酒井家二代当主・酒井忠以(茶号=宗雅、俳号=銀鵝)の庇護のもとに、吾が画人としてのスタートの「松風村雨図」を描いたのは、天明五年(一七八五)、二十五歳のことであった。あの「松村村雨図」は、「能・松風」の主役の「松風」に、「姉(兄)」の茶人「宗雅(忠以)」(立膝の「女性」)と「妹(弟)」俳人「朴綾・朴龍(抱一)」(立姿の「汐汲桶」を担ぐ女性)の、その「在りし日々」の姿なのである。その「在りしの日々」の、その「二人の面影」は、「汐澹桶(たご)は沖のかすみや汲(くみ)に行(ゆく)」の如くに、つくづくと、「松風ばかりや残るらん、松風ばかりや残るらん』(ワキのトメ拍子)の一節が耳底にこだましてくるのである。

    読抱朴子
5-30 首延て霞を呑か嶺のつる
5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月
5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子
5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

 この「前書」の「抱朴子」は、孔子・孟子の「孔孟思想」(「儒家思想」)に続く、「老荘思想」(「諸子百家」の「道家思想」)に深い関係のある「神仙思想」を著わした「抱朴子」(晋の葛洪の著書。内篇20篇、外篇50篇が伝わる)の、その「道家思想」のバイブルのようなものなのであろう。

 ここでは、その「抱朴子」に深く立ち入らず、前句の「論語」の「四十而不惑」(「四十にして惑わず」)に続く、その一つの「抱朴子を読む」ということで、その鑑賞を深めていきたい。

    読抱朴子
5-30 首延て霞を呑か嶺のつる

 季語は「霞」(三春)=「春の山野に立ち込める水蒸気。万物の姿がほのぼのと薄れてのどかな春の景色となる。同じ現象を夜は「朧」とよぶ。」(「きごさい歳時記」)

 「つる(鶴)」も季語(三春)だが、ここは、『抱朴子』の、次の一節を踏まえての「千歳の鶴」の用例で、季語としての「鶴」(三冬)の用例ではない。

http://www2.otani.ac.jp/~gikan/4_1situ2_4.html

「千歳之鶴、随時而鳴、能登於木。其未千載者、終不集於樹上也。」(『抱朴子』内篇 對俗巻第三)
(千歳の鶴、時に随いて鳴き、能く木に登る。其の未だ千載ならざる者は、終いに樹上に集わず。)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

「州浜に松、鶴亀図」(酒井抱一筆/三幅/個人蔵

≪抱一は、寛政九年(一七九七)末、浅草寺北の千束村に転居し役七年住んだ。新出の本図中幅には「千束陰居士庭柏子」と款しており、この間の作である。「冥々居」と「抱一」円印を両方捺すが、抱一の号を用いるのもこの転居の頃からである。吉祥性の高い蓬莱の定まった図様の中にも、松籟など着実に琳派風を習得してきたのを見ることができる。≫

(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「38 作品解説」の「図版解説」(松尾和子稿))」)

「句意」は、「抱朴子」を拾い読みしていると、「仙人学んで至るべし」などの「仙人」や、「長寿」の象徴である「松・鶴・亀」などに関しての記述が見られる。この「嶺の鶴」は、その「抱朴子」のいう「千歳の鶴」で、おそらく、その長い首を伸ばして、「不老不死の仙人」が食べている、この霊気新たなる「霞」を食べて長寿を保っているのであろう。 

5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月

 この句にも、前書の「読抱朴子」が掛かるのかも知れないが、この句は「狂言」の「仁王」に由来があるように思われる。

 季語は「おぼろ月」(三春)=「春の夜の朧な月をいう。澄んだ秋の月に対し、春の月は水蒸気のベールがかかったように見える。暈のかかることもある。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

藥盜む女やは有(あり)おぼろ月  蕪村「蕪村句集」

≪「薬盗む女」=嫦娥=不死の薬を盗んで飲み、月(月宮殿)に逃げ蟾蜍(ヒキガエル)になった仙女=『嫦娥奔月』(じょうがほんげつ)の「本説(伝説)取り」の句とされている。≫(『蕪村全集一・講談社』所収「858頭注」など)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

「能楽図絵」「狂言 仁王」(「立命館大学」蔵)

https://ukiyo-e.org/image/ritsumei/arcUP0992

≪「仁王」=狂言の曲名。雑狂言。賭(か)け事に負け無一文になった博打(ばくち)打ち(シテ)が、国元を出奔する前に知り合いのところに寄ると、事情を聞いた知人は、博打打ちを仁王に仕立て参詣(さんけい)人から供え物をとる知恵を授ける。そして仁王の扮装(ふんそう)をさせ上野に立たせると、知人は大ぜいの参詣人を連れてき、まず「さくら」になって刀を供えて願い事をする。それにつられた参詣人たちは着物や金銭などを次々に供え、願をかけて帰っていく。上々の首尾に調子にのった博打打ちが、もうひと稼ぎと待ち受けているところに、足の悪い男が登場して、仁王の御利益(ごりやく)にすがって治そうと、仁王の身体をなで回すうち、仁王が動くので偽者と気づき、追い込む。博打打ちが目をむき口をかっと開いた「仁王立ち」の姿や、参詣人たちの当意即妙の願い事などが理屈抜きに楽しい作品。[油谷光雄]≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

「句意」は、「嫦娥奔月」(じょうがほんげつ)の、「暈(かさ)=光の輪=光背」のかかった「朧(おぼろ)月」が中天に輝いている。そこには、「抱朴子」の「仙人」ならず、「仙女・嫦娥」(『淮南子(えなんじ/わいなんし)』)が隠れ住んでいるという。その「暈(かさ)=光の輪=光背」を背負った「狂言」の「仁王」(「博打打ちが、供物詐欺を企んで「仁王」に化ける)の、その『阿吽(あうん)の仁王」の、『吽(有無の「無」)の仁王』 ではなく、『阿(有無の「有」の仁王))の仁王』の、その「筆(遣い)」(図柄=口をかっと開いた「仁王立ち」の姿)であることよ。


5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子

 前書の「「読抱朴子」の一群の作品として、この「抱朴子」の「長寿の松」、それらが、宋の時代の「歳寒三友(さいかんのさんゆう)」の「松竹梅」(「清廉潔白・節操」の象徴)となり、その系譜から日本では「松竹梅」(「目出度い・吉祥もの」の象徴)として、慶事には必須のものとなってくる。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

「松竹梅図屏風」立林何帠(げい)筆/江戸時代・18世紀/紙本金地着色/133.9×149.1/2曲1隻/東京国立博物館蔵

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/558890

≪マッシュルームのような形の松葉の表現が特徴的です。梅と松が重なるように描くのは、おそらく意図的にそうしたと思われ、なんらかの手本によっているのでしょう。何帠は、尾形乾山(おがたけんざん)の江戸における弟子で、光琳の画風を継承した画家です。≫(「文化遺産オンライン」)

 この句の季語は「梅」(初春)=「梅は早春の寒気の残る中、百花にさきがけて白色五弁の花を開く。「花の兄」「春告草」とも呼ばれ、その気品ある清楚な姿は、古くから桜とともに日本人に愛され、多くの詩歌に詠まれてきた。香気では桜に勝る。」(「きごさい歳時記」)

「松」=「色変へ(え)ぬ松」(晩秋)、「松飾る」(暮/仲冬)、「松の内」(新年)、「初松風」(新年)などで、この句の「松」は、「梅」の咲く頃の、初春の「松」だが、「抱朴子」の「松」と解すると、仙人の住む「蓬莱山・蓬莱」(新年)の「松」のイメージである。

「金砂子」=「金箔(きんぱく)を細かい粉にしたもの。蒔絵(まきえ)、襖(ふすま)、絵画などにおしたり、散らして用いる。金粉。」(「精選版 日本国語大辞典」)

(例句)

年立(としたつ)や日の出を前の舟の松      (年立・新年) 一茶(「文化句帳」)
松竹(まつたけ)の行合(ゆきあい)の間より初日哉 (初日・新年) 一茶(「寛政句帖」)
蓬莱(ほうらい)や只三文の御代の松       (蓬莱・新年) 一茶(「七番日記」)
犬の子やかくれんぼする門(の)松        (門松・新年) 一茶(「七番日記」)
正月やよ所(そ)に咲ても梅の花         (正月・新年) 一茶(「文化句帖」)
長閑しや梅はなく(と)もお正月         (正月・新年) 一茶(「文化句帖」)
正月や村の小すみの梅の花           (正月・新年) 一茶(「文化句帖」)

「句意」は、慶事の日の床の間に「蓬莱山の長寿の松」の絵図が掛けられている。庭には、慶事の日に相応しい、新春の「梅の花」が、「昏れ行く、金砂子を散らしたような夕映え」の中に咲いている。

(蛇足)

 一茶の例句のように、正月に咲く「早咲きの梅の花」として、この「昏行く梅や」を捉えることも、さらに、抱一と同時代の、同じ「光琳・乾山」の流れの「琳派」の画人・「立林何帠」の「松竹梅図屏風」に似せての、「松梅図」の一句としての「句意」もあろう。その「句意」は、正月の「蓬莱の松」に、「金砂子」を撒き散らして、光琳の描く「早咲きの紅白の梅の花」を、豪奢に仕立てたいと念じている。

5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

「竹返し」(「デジタル大辞泉」)

≪ 伝承的な子供の遊びの一。長さ15センチ、幅2センチほどの竹べら数本を上に投げて手の甲で受け、そのまま滑り落として全部を表か裏かにそろえることを競う。竹なんご、六歌仙などともいう。≫(「デジタル大辞泉」)

5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子
 「松竹梅」の、「松と梅」の句である。
5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

 前句(5-32)の「松と梅」の句に続きの、「松竹梅」の「竹」だけの一句である。この句の「下五」の「竹かへし」は、「竹片を用いる日本の子供の遊戯」の「竹返し」の一句のようである。

http://ohanashi-donguri.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-a954.html

≪ 「竹かえしのうた」

1)ひと投げ ふた投げ みー投げ よ投げ   →「投げ」
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ

2)ひと立で ふた立で みー立で よ立で   →「立で」
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ

3)ひとねじ ふたねじ みーねじ よねじ   →「捩じ」
  いつやの むーすこさん 
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ

4)ひとわけ ふたわけ みーわけ よわけ   →「分け」
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ

5)ひときり ふたきり みーきり よきり   →「切り」
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ                ≫

 この句の季語は、「はるさめ(春雨)」(三春)=「春に降る雨の中でも、こまやかに降りつづく雨をいう。一雨ごとに木の芽、花の芽がふくらみ生き物達が活発に動き出す。「三冊子」では旧暦の正月から二月の初めに降るのを春の雨。それ以降は春雨と区別している。」(「ぎごさい歳時記」)

(例句)

春雨や小磯の小貝ぬるゝほど 蕪村 「蕪村句集」
物種の袋ぬらしつ春のあめ 蕪村 「蕪村句集」
春雨の中を流るゝ大河かな 蕪村 「蕪村遺稿」
春雨や人住ミて煙壁を洩る 蕪村 「蕪村句集」
春雨や身にふる頭巾着たりけり 蕪村 「蕪村句集」
春雨や小磯の小貝ぬるゝほど 蕪村 「蕪村句集」
滝口に燈を呼ぶ聲や春の雨 蕪村 「蕪村句集」
春雨やもの書ぬ身のあハれなる 蕪村 「蕪村句集」
はるさめや暮なんとしてけふも有 蕪村 「蕪村句集」
春雨やものがたりゆく簑と傘 蕪村 「蕪村句集」
柴漬の沈みもやらで春の雨 蕪村 「蕪村句集」
春雨やいさよふ月の海半(なかば)蕪村 「蕪村句集」
はるさめや綱が袂に小ぢようちん 蕪村 「蕪村句集」
春雨の中におぼろの清水哉 蕪村 「蕪村句集」

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

「竹返し殿(おしのび殿さんぽ)」(「福島県立博物館」)

https://twitter.com/fukushimamuseum/status/1258917098350313472

春雨や身にふる頭巾着たりけり 蕪村 「蕪村句集」

≪春雨が艶の情趣を醸し出している。ふと気がつけば、老いたわが身は冬の古頭巾をかぶって、まだ外界と不調和の冬の姿の身のままであることよ。 ≫(『蕪村全集一・講談社』所収「432頭注」など)

「句意」は、「春雨」が艶な情趣を醸し出している。ここ千束の近くの吉原の茶屋で、子供の遊びの「竹返し」を、その「竹返しの童唄」を唱じながら、ひと時を童心に帰っている。今や、その「竹返し」の、「投げ」の、数枚の「筏」のような「竹べら」を、手の甲の乗せて、それを上に投げ、手で掴むという場面である。何とも、出家後の「京都移住」を放棄して、「関西蜚遯人」と自嘲しつつ、今や、「抱朴子」の「仙人」の境地とは雲泥の、「千束の隠士・抱一堂屠龍」の、何とも、形容し難い姿であることよ。

(蛇足)

 「抱一」の号の初見は、寛政十年(一七九八)、『軽挙館句藻』所収「千づかの稲」の内表紙(序章扉)に、「抱一堂稿」と記し、同年の秋に書かれた『哲阿弥句藻』の「跋」の署名に「千束の隠士 抱一堂屠龍」と記したことに由っており、その記載から、当初のそれは「堂号・庵号」だったことが分かる。

 そして、その出典は、「営魄(えいはく)に載(の)りて一(いつ)を抱(いだ)き、能(よ)く離るること無からんか」(『老子』十章)、「是(これ)を以て聖人は、一(いち)を抱(だ)いて天下の式(しき)と為(な)る」(同二十二章)、老子の言としてみえる「衛生(えいせい)の経(けい)は、能(よ)く一(いち)を抱(いだ)かんか」(『荘子』「康桑楚篇」)のいずれかであると、『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』では記述している(同書p93)。

 それらに、『屠龍之技』所収「第五 千づかいね」の「読抱朴子」の前書を有する「5-30 首延て霞を呑か嶺のつる/5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月/5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子/5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし」の四句なども、その号の由来と何らかの関わりがあるように思われる。
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