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第八 花ぬふとり(8-1~8-7) [第八 花ぬふとり]

8-1 取遣りもおかしき村の歳暮かな

季語=歳暮=歳暮(せいぼ) 暮(仲冬)

ps://kigosai.sub.jp/001/archives/17533

【子季語】 お歳暮/歳暮祝ひ/歳暮の礼/歳暮返し

【解説】 もともとは歳暮周りといって、お世話になった人にあいさつ回りをしたことに始まる。そのときの贈り物が、現在の歳暮につながるとされる。お世話になった人、会社の上司、習い事の師などに贈る。夏のお中元と同様、日本人の大切な習慣である。

【例句】

宵過の一村歩く歳暮哉 一茶(『八番日記』)

※「取遣(とりやり)」=① 取り除くこと。かたづけること。

※枕(10C終)一八四「殿まゐらせ給ふなりとて、散りたるものとりやりなどするに」

② 受け取ったり、与えたりすること。やりとり。贈答。授受。

※応永本論語抄(1420)堯曰第二〇「先王は是を乱らずして同斗量にてとりやりするなり」

③ 交際。つきあい。

※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)前「仲間の取遣(トリヤリ)はあがったり大明神」

(「精選版 日本国語大辞典」)

「句意」(その周辺)

 前書に、「己巳(きし・つちのとみ)の冬、居を藤塚といふところにうつして」とある。「己巳)」は、文化六年(一八〇九)、抱一、四十九歳の時で、「根岸の金杉村に転居、以後、定住」(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)と、この「藤塚」は、「根岸の金杉村」の地名のようである。

 明けて文化七年(一八一〇)の正月に、この根岸の里の転居先に、吉原・大文字屋の遊女といわれる「小鸞(しょうらん)」女史を身請けして、二人の新居生活がスタートとする。その二人の合作が、下記のアドレスで紹介した「紅梅図(墨梅図)」(抱一画・小鸞書)である。

 小鸞女史は、「遊女名=香川、書を中井董堂に習い、茶の湯、俳諧、河東節の三味線を嗜み、文化十四年(一八一七)に剃髪し、妙華(みょうけ)尼と名乗る」(『酒井抱一・玉蟲敏子著・山川出版社』)。

 句意は、「長い遷住(放浪)生活に見切りをつけて、ここ『根岸の郷(里)』で、小鸞女史と、二人の新居生活をスタートする、その暮れの『歳暮』(歳暮周り・歳暮受け)の、この『根岸金杉村』の『取遣り』(しきたり)は、これがまた、まことに『お(を)かしき』(風変わりで、風情がある)ことであるよ。」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-01

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/8-18-7.html


酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 一幅 文化七年(一八一〇)作 細見美術館蔵絹本墨画淡彩 九五・九×三五・九㎝

【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。

 小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(1837)に没するまで、抱一亡き後の雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。

 本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。

 抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。

 「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。

 梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。

 「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。

(賛)

「竹斎」(朱文楕円印)

行過野逕渡渓橋

踏雪相求不憚労

何處蔵春々不見惟 

聞風裡暗香瓢

 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】

(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

(参考)「第八 花ぬふとり」の「花ぬふとり」周辺

「花に明(あ)かぬ嘆きや我が歌袋」(いが上野松尾宗房=芭蕉『続山の井』)

寛文七年(一六六七)、芭蕉、二十七歳時の作である。この句は、『伊勢物語29段:花の賀』の「花に飽かぬ嘆きはいつもせしかどもけふの今宵に似る時はなし」(在原業平)をパロディー化したものである。

 句意は、「在原業平は、『花に飽かぬ』と嘆いたが、私は花があっても、私の歌袋が「明かない=開かない」ばかりで、歌が一首も出てきません」というよう意であろう。

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/8-18-7.html


伊勢物語絵巻廿九段(花の賀)

https://ise-monogatari.hix05.com/2/ise-029.html

【 むかし、春宮の女御の御方の花の賀に、召しあづけられたりけるに、

   花にあかぬ嘆きはいつもせしかども今日のこよひに似る時はなし

(文の現代語訳)

昔、春宮の(母上の)女御の御殿で催された花の賀に、御呼び出しにあずかったある男が読んだ歌、

  花を見るたびに見飽きることのないという嘆きを覚えますが、今日の今宵は格別です

(文の解説)

春宮の女御:皇太子の母上、ここでは、後に陽成天皇になった皇太子貞明親王の母である藤原高子をさす、春宮は「とうぐう」とよみ、皇太子のこと、●召しあづけられ:お召しにあずかり、●花の賀:桜の花を見ながら行われる長寿の祝、●あかぬ:飽きない

(絵の解説)

御殿の中では大勢の人々が集まり、庭には桜の花が咲き誇っている様子が描かれている。 

(付記)

この段では、誰が歌を歌ったかは明示していないが、若い頃の藤原高子と業平との間を知っている者には、これが業平であることは明らかだ。かつて、愛した人とともに眺める桜はひとしおです、といっているわけである。 】



8-2 節季候(せきぞろ)は百轉(囀=てん・でん・さえずり)のはじめかな

季語=節季候=節季候(せきぞろ) 暮(仲冬)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/17531

【子季語】 せつきぞろ/胸叩/姥等

【解説】 年が押しつまったころにくる門付け芸人。笠の上に羊歯の葉をさし、赤い布で顔を覆って「せきぞろ、めでたい」などとと叫びながら年越しの銭を乞うた。割竹で胸をたたいたので胸叩とも呼ばれた。乞食のようなもので、凶作の時代に多く出たという。

【例句】

おどろけや念仏衆生節季候    宗因「釈教百韻]

節季候や臼こかし来て間がぬける 鬼貫「荒小田」

気にむかぬ時もあるらん節季候  来山「難波の枝折」

節季候の来れば風雅も師走かな  芭蕉「勧進牒」

節気候を雀の笑ふ出立かな    芭蕉「深川」

気候や顔つつましき小風ろ敷   蕪村「落日庵句集」

小藪から小藪蔭がくれやせつき候 一茶「九番目記」

https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E4%B8%89%E5%86%8A%E5%AD%90-%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E3%81%82%E3%81%8B%E3%81%95%E3%81%86%E3%81%97/

【「節季候のくれバ風雅も師走哉

 此句、風雅も師走哉、と俗とひとつに侍る。是先師の心也。人の句に、藏やけて、と云句有。とぶ蝶の羽音やかまし、といふ句あり。高くいひて甚心俗也。味べし。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.108)

 句は元禄四年刊路通編の『俳諧勧進牒』で、

    果ての朔日の朝から

 節季候の来れば風雅も師走哉    芭蕉

 元禄三年十二月一日の句と思われる。

 節季候(せきぞろ)はコトバンクの「精選版 日本国語大辞典の解説」に、

 「〘名〙 江戸時代、歳末の門付けの一種。一二月の初めから二七、八日ごろまで、羊歯(しだ)の葉を挿した笠をかぶり、赤い布で顔をおおって目だけを出し、割り竹をたたきながら二、三人で組になって町家にはいり、「ああ節季候節季候、めでたいめでたい」と唱えて囃(はや)して歩き、米銭をもらってまわったもの。せっきぞろ。《季・冬》 〔俳諧・誹諧初学抄(1641)〕」


(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/8-18-7.html


「節句候」(「精選版 日本国語大辞典の解説」)       】

「句意」(その周辺)

 前句の「8-1 取遣りもおかしき村の歳暮かな」と同時の作であろう。

句意=歳末・年始の風物詩の「節句候」が我が新居にもやってきた。芭蕉翁は、「節季候の来れば風雅も師走哉」と何やら皮肉めいた句を遺しているが、これは、これ、「節季候は百轉(囀)のはじめかな」で、新しい年に一斉に鳴く小鳥たちの百囀(てん=さえずり)の始めの、まさに、風雅の師走(終わり)ではなく、年始(始め)を告げるお囃子であることよ。



8-3 元日の朝寝起すや小田の鶴

季語=元日=元日(がんじつ、ぐわんじつ) 新年

https://kigosai.sub.jp/001/

【子季語】 お元日、元旦、元朝、大旦、日の始、初旦、鶏旦、朔旦、歳旦、元三、三の始、年の朝

【関連季語】 初春、若水、門松、鏡餅、雑煮、屠蘇

【解説】 一月一日。一年の始めの日である。門松や鏡餅を飾り、屠蘇を酌み、雑煮を食べてこの日を祝う。旧暦では立春の前後にめぐってきたが、新暦では冬のさなか。元旦は元日の朝のこと。

【来歴】 『俳諧初学抄』(寛永18年、1641年)に所出。

【文学での言及】

あら玉の年たちかへるあしたより待たるゝものは鶯の声 素性法師『拾遺集』

【例句】

元日やおもへばさびし秋の暮   芭蕉「真蹟短冊」

元日は田ごとの日こそ恋しけれ  芭蕉「橋守」

元日や晴れてすゞめのものがたり 嵐雪「其袋」

元日や何やら人のしたり皃    春来「俳諧新選」

※小田(おだ・をだ)=〘名〙 (「お」は接頭語) 田。たんぼ。

※万葉(8C後)七・一一一〇「斉種(ゆたね)蒔く新墾(あらき)の小田(をだ)を求めむと足結(あゆひ)出で濡れぬこの川の瀬に」(「精選版 日本国語大辞典」)

句意=新しい年の「元日」の朝に、その寝覚めを起こすかのように、この根岸の新居を取り巻く「小田」(田んぼ)」には、新年の鶴がたむろして鳴いている。我らの「東風流(あずまぶり)」(「都市=江戸」風の蕉門俳諧)の、その源流の芭蕉翁は、「元日は田ごとの日こそ恋しけれ」と、「更科紀行」での「田ごとの月」を、「田ごとの日(新年の初日と日々)」と反転しているが、ここは、「東風流」の祖(先々師「(馬場)存義)」の師)の「(前田)春来」の「元日や何やら人のしたり皃(かお)」に倣い、「したりがお(顔)」の一句を吟ずることにする。 

(参考)「江戸座俳諧」の「東風流(あずまぶり)」(「都会=江戸」風の蕉門俳諧)の系譜

松尾芭蕉→宝井(榎本)其角=服部嵐雪



(「江戸座俳諧」の「東風流(あずまぶり)」

前田春来(二世青峨)→馬場存義(有無庵)→柳沢米翁(大名俳人・抱一の師)→佐藤晩得(米翁の知己・抱一の師)→酒井抱一

  悼米翁老君

 聡き人耳なし山や呼子鳥   (第一 こがねのこま)

 船頭も象と成けり夏まつり  (同上)

  存義先師七七回忌

 ふるふると鳴て千鳥の磯めぐり (第五 千づかのいね)

 雪おれの雀ありけり園の竹   (同上)

 雪の夜や雪車に引せん三布団  (同上)


【 柳沢 信鴻(やなぎさわ のぶとき)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主柳沢吉里の四男。

時代 江戸時代中期
生誕 享保9年10月29日(1724年12月14日)
死没 寛政4年3月3日(1792年4月23日)
別名 久菊、義稠、信卿、伊信
諡号 米翁、春来、香山、月村、蘇明山、紫子庵、伯鸞
戒名 即仏心院無誉祐阿香山大居士
墓所 東京都新宿区 正覚山月桂寺
幕府 江戸幕府
藩 郡山藩主
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢吉里、母:森氏
兄弟 信睦、時英、信鴻、信昌、伊奈忠敬、坪内定規
妻 正室:伊達村年の娘  継室:真田信弘の娘
子 保光、信復(次男)、武田信明、六角広寿(四男)、里之、
    娘(米倉昌賢正室)、娘(阿部正倫正室)   】(「ウィキペディア」)


【 前田春来(二世青峨) 1698-1759 江戸時代中期の俳人。

元禄(げんろく)11年生まれ。江戸の人。鴛田(おしだ)青峨の門人で2代青峨をつぐ。宝暦6年江戸俳諧(はいかい)の伝統の誇示と古風の復活をはかって「東風流(あずまぶり)」を編集,刊行した。宝暦9年4月16日死去。62歳。別号に春来,紫子庵。 】(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)


【 馬場存義(ばば ぞんぎ)  1703-1782 江戸時代中期の俳人。

元禄(げんろく)16年3月15日生まれ。2代前田青峨にまなぶ。享保(きょうほう)19年俳諧(はいかい)宗匠となり,存義側をひきいて江戸座の代表的点者として活躍した。与謝蕪村(よさ-ぶそん)とも交友があった。天明2年10月30日死去。80歳。江戸出身。別号に泰里(たいり),李井庵,有無庵,古来庵。編著に「遠つくば」「古来庵句集」など。】(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)


【 佐藤晩得 (さとう-ばんとく) 1731-1792 江戸時代中期-後期の俳人。

享保(きょうほう)16年生まれ。出羽(でわ)久保田藩(秋田県)の江戸留守居役。馬場存義(そんぎ)の門人で酒井抱一としたしく,西山宗因風をこのんだ。遺句集に「哲阿弥(てつあみ)句藻」,随筆に「古事記布倶路(ぶくろ)」。寛政4年10月18日死去。62歳。名は祐英。通称は又兵衛。別号に哲阿弥,木雁,北斎,朝四など。 】(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)



8-4 うめ守に硯借れば筆もなし

季語=うめ守=梅(初春)

※参考季語:花守=花守(はなもり) 晩春

https://kigosai.sub.jp/001/archives/9920

【子季語】 花の主/花のあるじ/桜守

【解説】 寺や庭園、山野等の桜の木の手入れをしたり、番をしたりする人。和歌から派生した季語である。

【例句】

一里はみな花守の子孫かや  芭蕉「猿蓑」

花守や白きかしらをつき合はせ 去来「薦獅子」

花守の身は弓矢なきかがしかな 蕪村「続一夜松後集」

花守のあづかり船や岸の月   太祇「太祇句選」

句意=「花守」ならず「梅守」に、一句を書き留めようと、硯を借りて、さて「一筆」と思ったら、肝心要の「筆」もない。蛇足=「うめ守」は、「梅守」(梅・梅林の管理)に没頭していて、「硯・筆」(「風雅」=俳諧など)には、とんと、気がまわらない。

 上記の例句の「花守の身は弓矢なきかがしかな(蕪村)」の、「花守」(花の番人=風雅の道の護持者=「花咲翁」=松永貞徳)と関連させる句意もあろう。


(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/8-18-7.html

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十六 松永貞徳」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1506

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

【松永貞徳(まつながていとく) [生]元亀2(1571).京都 [没]承応2(1653).11.15. 京都

 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。

 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について】



8-5 山陰の梅まだ寒し活大根(いけだいこ)

季語=梅(初春)

※「活大根」=いけ‐だいこん(生大根・埋大根)

【〘名〙 (「いけ」は生かす、埋める意の「いける」から)

① 畑から引き抜いたままの大根を地中に深くうずめて、翌年の春まで貯蔵し、食用とするもの。いけだいこ。《季・冬》

※俳諧・笈日記(1695)中「寒菊の隣もありやいけ大根〈許六〉」

② 大根の栽培品種で、根が地上に出ないで、深く地中に隠れているもの。二、三月頃に収穫する。かつて京都付近で多く栽培された。《季・春》

※俳諧・骨書(1787)下「かくれ家や花咲かかるいけ大根〈鶴市〉」】(「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=この句は、「梅」の句なのか、それとも「活大根(いけだいこ)」の句なのか? この「活大根」は、「いけ(活け)だいこ」(春)なのか、それとも、「いけ(埋け)だいこ」(冬)なのか?

 この疑問には、この句が、「第八 花ぬふとり」の、冒頭(8-1)から五番目で掲載されていて、これに続く七番目(8-7)の句まで、冒頭(8-1)の前書の「己巳(きし・つちのとみ)の冬、居を藤塚といふところにうつして」が掛かる一群の、新居を構えた「根岸の郷(里)」の「歳暮・元日・梅」の句で、これは、「8-4から8-7」の三句続きの「梅」(初春)の句と解したい。同様に、この「活大根」は、「いけ(活け)だいこ」の「春採り大根」(初春)ということになる。

句意=「山陰(やまかげ)」の「梅」の花は、「まだ、寒さ」で、その傍らの、春採りの「「活大根(いけだいこ)」のように、間もなく来る「春の暖かさ」を待っている。


8-6 うぐゐすや梅に氷れる枝もなし

季語=「うぐゐす=鶯」(三春)と「梅」(初春)

https://fukusaisin.com/3842.html

立春の期間は2月4日頃~次の雨水に至る前日2月18日頃までを指します。

□ 初候 2月 4日頃 ~ 8日頃 … 東風解凍 … はるかぜこほりをとく

□ 次候 2月 9日頃 ~13日頃 … 黄鶯睍睆 … うぐひすなく

□ 末候 2月14日頃 ~18日頃 … 魚上氷  … うをこほりをいづる

句意(その周辺)=この「根岸の郷(里)」の「梅林」にも「鶯」が一斉に鳴いている。「東風解凍(はるかぜこほりをとく)」、そして、「黄鶯睍睆(うぐひすなく)」、さらに、「魚上氷(うをこほりをいづる)」と、見事な梅の季節となった。



8-7 梅を縫ふ糸ならなくに春の雨

季語=「梅」(初春)、そして、「春の雨(春雨))(三春)。

句意(その周辺)=「梅を縫ふ糸」とは、「第八 花(梅)ぬふ(縫う)とり(鶯)」のイメージ(雰囲気)の、その「鶯」)に解したい。そして、「糸(鶯)ならなくに春の雨」のイメージは、その「鶯」ではなく、「春の雨(春雨)」こそ、「梅を縫ふ(梅の花を開く)糸(その源)」なのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-18

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/8-18-7.html

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(右隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/8-18-7.html

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)

【 右隻の右から平坦な土坡に、春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華層などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する。続いて夏の花、牡丹、鬼百合、紫陽花、立葵、撫子、下の方には河骨、沢瀉、燕子花に、やはり白鷺が二羽向き合い、水鶏も隠れている。左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である。

モチーフはそれぞれ明確に輪郭をとり厚く平たく塗り分け、ここで完璧な型づくりが為されたといっていいだろう。光琳百回忌から一年、濃彩で豪華な大作としては絵馬や仏画などを除いて早い一例となる。淡い彩色や墨を多用してきた抱一としては大変な飛躍であり、後の作画に内外に大きな影響を及ぼしたことが想像される。

 本図は、昭和二年の抱一百年忌の展観に出品され、当時は、金融界の風雲児といわれた実業家で、浮世絵風俗画の収集でも知られる神田鐳蔵の所蔵であった。その前後、大正から昭和初めにかけて、さまざまな所蔵家のもとを変転したことが入札目録よりわかるが、それ以前の情報として、新出の田中抱二資料の嘉永元年(一八四八)の「写真」に、本図の縮図が見出されたことを報告しておく。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(松尾知子稿))
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