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第五 千づかの稲(5-40~5-45) [第五 千づかのいね]

       辛酉春興
       今や誹諧峰の如くに起り、
       麻のごとくにみだれ、
       その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年

       榎島参詣
5-41 さくら貝手ごとに拾へ島同者

       悼無同
5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず
5-43 名月や八聲の鶏の咽のうち
5-44 きくの宿碁経見て居る主かな

       会式
5-45 佛力やまだ見ぬ花のよし野紙


       辛酉春興
       今や誹諧峰の如くに起り、
       麻のごとくにみだれ、
       その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年 

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

「松永貞徳肖像」(「ウィキペディア」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsunaga_Teitoku.jpg

≪ 「松永貞徳(まつながていとく)

[生]元亀2(1571).京都
[没]承応2(1653).11.15. 京都
 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)


 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。
 季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。


 鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)
 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。
 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。
「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」)に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

(補記一)「 木下長嘯子と松永貞徳」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

(補記二)「『東風流(あずまふり)』俳諧」・「五色墨」運動(「江戸座俳諧への反駁運動)・「中興俳諧(革新運動)」

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html


    榎島参詣
5-41 さくら貝手ごとに拾へ島同者

 季語は「さくら貝(桜貝)」(三春)=「淡い紅色の可憐な貝。波打ち際に桜の花びらのように漂着する。古くから歌にも詠まれてきた。浜辺によく打ち上げられる貝で、大きさは二センチから三センチくらい。形は楕円に近い扇形で薄い扁平。光沢があり、その名のように桜色をしている。貝殻が美しいので貝殻細工に利用される。」(「きごさい歳時記」)

(例歌・例句)
吹く風に花咲く波のをるたびに桜貝寄る三島江の浦  西行『夫木和歌抄』
口あくは花の笑かはさくら貝            弘永『「毛吹草」

「島同者」=「島=榎島・江の島」、「同者・同社=連れ立って社寺を参詣・巡拝する旅人。遍路。巡礼。道衆。」(「デジタル大辞泉」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

「冨嶽三十六景 相州江の嶌」葛飾北斎筆

http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_35.htm

≪ 北斎には珍しく、誇張や演出をほどこさない自然な景観を描いている。干潮時に江の島は片瀬海岸と陸続きとなるが、ちょうど砂洲の参道が現れ始めたのか、参詣者は皆これからお参りに行くところである。土産物屋や旅籠が立ち並ぶ様子も写実的である。画面の下辺を霞で縁取ったのは、聖域を表現するための瑞雲としてであろうか。波打ち際のきらめきや波の泡の描写が秀逸である。

※江の島(神奈川県藤沢市)

 相模湾の海上にある江の島は、砂嘴(さし)で対岸の片瀬村とつながる陸繋島であり、徒歩で参詣が可能であった。図中に描かれた三重塔は、江島神社上之宮の塔であり、元禄7年(1694)に創建された。≫(「山梨県立美術館」)

(例句)

 江のしま
日を拝む蜑(あま)のふるへや初嵐   服部嵐雪(「陸奥衛」)
江の島を台にも見るや国の春      馬場存義(「古来庵句集」)
江の島や傘さしかけし夏肴       建部巣兆(「寂砂子集」)

「句意」は、「江の島」を参詣する「全ての巡礼者」よ、その一人ひとりの手に、「国の春」と「島の春」を象徴する、この「江の島」の「桜貝」を手にして欲しい。


   悼無同
5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず

 前書の「悼無同」の「無同」については不詳であるが、『屠龍之技』所収「第一 こがねのこま」に「無同剃髪しける時」との前書のある「よし野よく桜ん坊の天窓(あたま)かな」という句が収載されている。

 そして、その『屠龍之技』の句の原典となる『軽挙館句藻』の第一句集「梶の音」に「寛政三年三月我物か剃髪を祝ひて」の前書で、この句が収載れている。

 これらからすると、「無同」という俳人は、「寛政三年(一七九一)三月」に「我物」という俳号から剃髪して「無同」と改号したように思われる。

 この前年の、寛政二年(一七九〇)七月十七日に、抱一の実兄の「忠以」が急逝(三十六歳)し、抱一の甥の「忠道」が家督を継ぐことになる。この時、抱一、三十歳、そして、この実兄の急逝により、「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除」の結果、実質的に抱一は「酒井家」から放逐されて、寛政九年(一九二七)には「出家」という途を選ばざるを得なかったということになる。

 この「無同」という俳人は、おそらく、抱一の俳諧の二人の師「柳澤米翁・佐藤晩得」と関係の深い俳人で、同時に、「銀鵞」の俳号を有する亡き兄の「忠以」とも関係の深い俳人のように思われる。

   無同剃髪しける時
1-24 よし野よく桜ん坊の天窓(あたま)かな (「寛政三年(一七九一)」・抱一・三十一歳)

    悼無同
5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」・抱一・四十一歳)

 この、抱一、三十一歳時の「無同剃髪しける時」の句と、抱一・の四十一歳時の掲出の句を並列して見ると、前句の「桜ん坊」と、後句の「鼻くそ餅」の、この「談林俳諧」(宗因・西鶴流)の「古風・古調」を可とする「東風流」(春来・米翁・晩得)の、「卑俗・卑近な見立てや捩りの洒落・言語遊戯を駆使した俳諧)の趣向を凝らした用例を感知させる。

 この、凡そ追悼句に相応しくない「鼻くそ餅」は、「花供曽餅」(釈迦の入滅の日に行われる涅槃会において供物にされる鏡餅などを用いたあられ)の、「捩り」(もとの表現を変えて滑稽または寓意(ぐうい)的にしたもの)の用例である。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

「花供曽餅」(「お釈迦様の鼻くそ」)

https://www.mbs.jp/kyoto-chishin/kyotocolumn/souvenir/83464.shtml

5-42 初七日に鼻くそ餅も間にあわず

 「季語」は、「鼻くそ餅」(涅槃会に供える「花供曽」餅「仲春」)。「涅槃会(仲春)」は、「釈迦が沙羅双樹の下に入滅した日にちなむ法要。旧暦の二月十五日であるが、新暦の二月十五日あるいは三月十五日に執り行われる。各寺院では涅槃図を掲げ、釈迦の最後の説法を収めた「遺教経」を読誦する。参詣者には涅槃だんごなどがふるまわれる。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

神垣やおもひもかけず涅槃像  芭蕉「曠野」
涅槃会や皺手合する数珠の音  芭蕉「続猿蓑」

「句意」は、古き俳諧仲間の「無同」が、「涅槃会」を前にして亡くなった。その「初七日」に、「涅槃会」のお供えの「お釈迦様の鼻くそ餅(花供曽)」を供えようとしたが、間に合わなかった。


5-43 名月や八聲の鶏の咽のうち

 この句には「悼無同」の前書は掛からないであろう。季語は「名月」(仲秋)。「旧暦八月十五日の月のこと。「名月をとつてくれろと泣く子かな」と一茶の句にもあるように、手を伸ばせば届きそうな大きな月である。団子、栗、芋などを三方に盛り、薄の穂を活けてこの月を祭る。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

名月や池をめぐりて夜もすがら   芭蕉「孤松」
名月や北国日和定めなき      芭蕉「奥の細道」
命こそ芋種よ又今日の月      芭蕉「千宜理記」
たんだすめ住めば都ぞけふの月   芭蕉「続山の井」
木をきりて本口みるやけふの月   芭蕉「江戸通り町」
蒼海の浪酒臭しけふの月      芭蕉「坂東太郎」
盃にみつの名をのむこよひ哉    芭蕉「真蹟集覧」
名月の見所問ん旅寝せん      芭蕉「荊口句帳」
三井寺の門たゝかばやけふの月   芭蕉「酉の雲」
名月はふたつ過ても瀬田の月    芭蕉「酉の雲」
名月や海にむかかへば七小町    芭蕉「初蝉」
明月や座にうつくしき顔もなし   芭蕉「初蝉」
名月や兒(ちご)立ち並ぶ堂の縁  芭蕉「初蝉」 
名月に麓の霧や田のくもり     芭蕉「続猿蓑」
明月の出るや五十一ヶ条      芭蕉「庭竈集」
名月の花かと見えて棉畠      芭蕉「続猿蓑」
名月や門に指しくる潮頭      芭蕉「三日月日記」
名月の夜やおもおもと茶臼山    芭蕉「射水川」

「八聲(やごえ・やごゑ)の鶏(とり)」=「暁に何度も鳴く鶏。」
※六条修理大夫集(1123頃)「またじ今は八声の鳥もなきぬ也何おどろかすくひな成らん」
(「精選版 日本国語大辞典」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

「月下尾花図」 酒井抱一筆/江戸時代/18-19c/絹本著色/H-98.9 W-40.1 (「MIHO MUSEUM」蔵)

https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00000654.htm

≪ 旧暦8月15日は仲秋の名月。この時期、台風や霧雨で空気が湿ったり、小雨の降ったあと、移動性高気圧におおわれて晴れた夜間に冷え込みがあったりして、霧が発生しやすい。「十二カ月花鳥図」のようにとりどりの秋草や虫などの小動物も描かれていないが、たらし込みの技法で描かれたススキに、夜霧に浮かぶ名月を取り合わせ、俳諧にも親しんだ抱一らしい、しっとりとした詩情に充たされた作品である。≫(「MIHO MUSEUM」)

「句意」は、今日は「仲秋の名月」である。この見事な月も、暁に何度も鳴く「鶏」の「八聲(やごえ)」の、その「咽」(鶏聲=かくせい)の、その名調子の「うち(内)」に、退場して行く。


5-44 きくの宿碁経見て居る主かな

 季語は、「きくの宿」の「菊」(三秋)。「キク科の多年草。中国原産。奈良時代日本に渡って来た。江戸時代になって観賞用としての菊作りが盛んになる。香りよく見ても美しい。食用にもなる。秋を代表する花として四君子(梅竹蘭菊)の一つでもある。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

菊の香や奈良には古き仏達    芭蕉「杉風宛書簡」
菊の花咲くや石屋の石の間   芭蕉「翁草」
琴箱や古物店の背戸の菊    芭蕉「住吉物語」
白菊の目にたてゝ見る塵もなし 芭蕉「笈日記」
手燭して色失へる黄菊かな 蕪村「夜半叟句集」
黄菊白菊其の外の名はなくもなが 嵐雪「其袋」

「碁経(ごきょう)」=「碁経衆妙」=「『碁経衆妙』(ごきょうしゅうみょう、棋经众妙)は、1812年(文化9年)に成立した、囲碁家元・林家11世林元美編纂による、日本の最も代表的な詰碁の古典。「内容が妙に高遠ではなく、アマチュアにも容易に受け入れられて、しかもそんじょそこらの実戦に現れそうな形が少なくない」(前田陳爾)という、基本的な詰碁と手筋が集められているのが特徴である。 囲碁の四大古典(玄玄碁経、官子譜、囲碁発陽論)の一つに数えられている。四大古典の中では、玄玄碁経と共に取り組みやすいものとされている。そのため、初心者から学べる死活・手筋問題集として再三にわたって出版されてきた。」(「ウィキペディア」)

 この上五の「きくの宿」の「きく」は、季語の「菊」と、囲碁の「言うことをきく」「(相手の利かしや全局的な注文に対し、素直もしくは我慢して受けること))が掛けられている。

「句意」は、家の庭に「菊」が見事に咲いている。そこの「家の主」が囲碁教本の「碁経衆妙(ごきょうしゅうみょう)」を見ている。その「主」は、囲碁の「攻め」よりも「受け」の「相手の手筋を素直に『きく』」タイプの、温厚な風情である。

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「碁経(ごきょう)」=「碁経衆妙」=「『碁経衆妙』(ごきょうしゅうみょう、棋经众妙)

https://haocjd.rexperrlu.xyz/index.php?main_page=product_info&products_id=64804


  会式
5-45 佛力やまだ見ぬ花のよし野紙

この句の季語は、前書の「会式」が無いと「花」(晩春)であるが、この前書の「会式(えしき)=御会式=御命講(おめいこう/おめいかう)」(晩秋)で、この前書の「会式」と句中の「花」が合体して、「会式桜」(晩秋)となる。

「会式(えしき)」=「御会式(ごえいしき)」=≪〘名〙 (「お」は接頭語。「会式(えしき)」は法会の儀式の意) 日蓮宗で日蓮の忌日(一〇月一三日)に行なう法会。御命講(おめいこう)。大御影供(おみえいく)。《季・秋》 ※雑俳・柳多留‐一六三(1838‐40)「御会式の蛇籠五色の餠を呑」≫(「精選版 日本国語大辞典」)

(例句)

御命講や油のやうな酒五升        芭蕉「小文庫」
御命講や顱(あたま)のあをき新比丘尼  許六「韻塞」  

「会式桜(えしきざくら)」=≪〘名〙 (会式の頃に咲くところからいう) サクラ(コヒガンザクラか)の秋咲きの園芸品種。陰暦一〇月頃、狂い花の咲く一重桜。とくに、東京谷中の領玄寺のものが有名。※東都歳事記(1838)一〇月一三日「日蓮宗谷中領玄寺に桜ありて、十月に花咲く。この故に会式さくらといふ」≫(「精選版 日本国語大辞典」)

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「会式桜」(「日蓮宗谷中領玄寺」) (「精選版 日本国語大辞典」)

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「谷中領玄寺」(「会式桜」)

https://yaokami.jp/1135602/

「吉野紙(よしのがみ)」=≪大和(やまと)国(奈良県)の吉野地方で漉(す)かれる和紙の総称。この地方の紙漉きは、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)が村人に教えたのに始まるとの伝説があるほど古く、奈良紙の伝統が国中(くんなか)(大和平野)からしだいに山中(さんちゅう)(吉野川上流)へ移ってきたものである。室町時代に上質の雑用紙であった奈良紙は、やわら紙として名高く、また江戸時代になってからは吉野の国栖(くず)(国樔とも書く)や丹生(にう)で漉かれた同質の薄紙が、漆漉(こ)しの名で世に知られた。薄くてじょうぶなため、その名のとおり漆や油を漉すのに適し、また美しいために装飾品や菓子などの包み紙にも重宝された。同質の紙には紀伊国(和歌山県)の音無(おとなし)紙、美濃(みの)国(岐阜県)や土佐国(高知県)の典具帖(てんぐじょう)、羽前国(山形県)の麻布(あさぶ)紙などがあり、これらはごく薄手の代表的な楮紙(こうぞがみ)である。吉野郡ではこのほかに、宇陀(うだ)紙という厚手の楮紙や、三栖(みす)紙という薄紙など多くの種類の和紙が漉かれたが、これらを総称して吉野紙という。谷崎潤一郎の小説『吉野葛(くず)』に吉野紙の紙漉き村の描写があるように、現代も国の文化財保存技術者に指定された少数の漉き家に、伝統技術が受け継がれている。[町田誠之]≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

「佛力(ぶつりき)」=≪〘名〙 仏語。仏の持つ不思議な通力(つうりき)や功力(くりき)。※将門記(940頃か)「速に仏力に仰せて彼の賊難を払ひたまへ」 〔日葡辞書(1603‐04)〕≫(「精選版 日本国語大辞典」)

「句意」は、ここ「千束」の里近くの「谷中領玄寺」で、十月十三日の「御会式」の法会がある。その境内では「会式桜」が咲き、その本堂では、「吉野紙」で造られた「花万灯」が飾られるという。まだ、それらを見ていないが、これは、さぞかし、「御功力」のあることであろう。

(補記一)「御会式」の「花万灯」

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

http://www.hokkeshu.com/event/dic_o_okaishiki_zouka.html

≪ 日蓮大聖人は、弘安(こうあん)五年(一二八二)十月十三日辰(たつ)の刻(こく)(午前八時頃)、住み慣れた身延(みのぶ)の地を離れ、常陸国(ひたちのくに)(今の茨城県)へと湯治(とうじ)に向かう途中、武蔵国池上(むさしのくにいけがみ)(今の東京都大田(おおた)区池上)の檀越(だんおつ)(信者)・池上宗仲(いけがみむねなか)邸にて忍難弘通(にんなんぐずう)の生涯を終えられました。この時、大地が揺(ゆ)れ動き庭の桜が一度に時ならぬ花をつけたと伝えられます。

  このような言い伝えから、お会式法要やお逮夜(たいや)の時、白・赤・ピンクの紙で作られた桜の花を、割竹(わりだけ)などでできた長い竿に付けた造花を、本堂の内部や万灯と呼ばれる塔型や行灯(あんどん)型などの大きな明かりの上部に、四方八方に垂らし飾り付け、大聖人のご命日を偲(しの)び、報恩(ほうおん)感謝の心をこめて行うお会式(えしき)を鮮(あざ)やかに彩(いろど)っています。

  江戸時代の風俗事物について書かれた『守貞漫稿(もりさだまんこう)』には「これ(お会式)を行う者、家内の諸所に紙の造花を挟(はさ)む故に、当月(十月)上旬より、三都(江戸・京都・大阪)ともこれ(造花)を売る。長さ三尺(じやく)(約九十センチ)ばかり。江戸にてはここに藤の造り花を付けたるもあり。花は吉野紙。広がり二寸(すん)(約六センチ)ばかり。周(まわ)りの耳を淡紅にし染め、赤あるいは黄紙」と記されており、また当時の年中行事について書かれた『東都歳時記(とうとさいじき)』には、「法会(ほうえ)(お会式)の間、一宗(法華宗)の寺院は仏壇をかがや(輝)かし、造花を挿し荘厳は目を驚かしむ」とあり、法華宗寺院のお会式の壮麗な様子を伝えています。

  また、池上の大聖人ご入滅(にゅうめつ)の地には今も「お会式桜」と呼ばれる桜の樹があり、旧暦の十月(現在の十一月頃)にはきれいな花を咲かせることで知られています。一般にお会式桜と呼ばれるのは、八重桜の一種で十月桜(じゅうがつざぐら)と呼ばれる種類だそうです。花は中輪、八重咲きで淡紅色。開花期は十月頃から咲き始め、冬の間も小さい花が断続的に咲き、翌春四月上旬にもたくさんの花を咲かせるという珍しい桜です。春の花のほうが秋の花より大きいそうです。≫(「布教誌『宝塔』に連載中の「仏教質問箱」より」)


(補記二) 「吉野花会式(よしのはなえしき/よしののはなゑしき)/ 晩春」

https://kigosai.sub.jp/001/archives/9825

≪【子季語】 鬼踊

【解説】 四月十一日、十二日、奈良県吉野町金峯山寺(蔵王堂)で行われる法会。蔵王権現の神木である吉野山の桜を神前に供える儀式。竹林院から大名行列や稚児行列が練り歩く。蔵王堂前では、大護摩が焚かれ、堂内では鬼踊が行われる。吉野の春の最大行事である。

【例句】

花会式かへりは国栖に宿らんか  原石鼎「花影」≫ (「きごさい歳時記」
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第五 千づかの稲(5-34~5-39) [第五 千づかのいね]

朝妻ぶねの賛
5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆
5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)
5-36 きりはたり提燈持も虫撰み
5-37 逢ふやいかに夜のにしきの星の竹
  東陽山
5-38 紅葉見やこのころ人もふところ手
   歳暮
5-39 一文の日行千里としのくれ


   朝妻ぶねの賛
5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

 前書の「朝妻ぶね)」とは、「浅妻船・朝妻船(あさつまぶね)」の「滋賀県琵琶湖畔 朝妻(米原市朝妻筑摩)と大津と間での航行された渡船。東山道の一部」(「ウィキペディア」)のことであろう。

≪ 朝妻は『和名抄』に「安佐都末」とある。朝妻川の入江に位置する。船舶がしきりに出入りしたが、慶長(1596年 - 1615年)ころから航路の便利から米原に繁栄をうばわれ、おとろえた。寿永の乱(1180年 - 1185年)の平家の都落ちにより女房たちが浮かれ女として身をやつしたものが、朝妻にもその名残をとどめ、客をもとめて入江に船をながした。

 その情景を英一蝶(1652年 - 1715年)がえがいた絵『朝妻舟図』 が有名である。烏帽子、水干をつけた白拍子ふうの遊女が鼓を前に置き、船に乗っている絵は、五代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の妻との情事を諷したものであるという。一説に英が島流しされたのはこの作品が原因であるという。英が絵に讃した小唄は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」。「わがとこの山」は、犬上郡鳥籠山であるのを、床の山にかけたものである。長唄などもつくられた。≫(「ウィキペディア」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html


「朝妻舟図 」英一蝶/江戸時代/絹本著色/37.4cm×56.9cm/板橋区立美術館蔵

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000333/4000537/4000540.html

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2018/12/12/174708

≪「英一蝶画譜」

あさづまぶね(朝妻舟)

 柳の下に船を繋ぎ、烏帽子水干の白拍子が鼓を手にして座してゐる図で、元禄の頃英一蝶がこれを画いて忌諱に触れ罪を得て流罪になつたので有名であり、その由来は太田南畝の『一話一言』に精しい。

 「あさづまぶね 英一蝶作」

 隆達がやぶれ菅笠しめ緒のかつら長くつたはりぬ是から見れば近江のや。

「あだしあだ浪よせてはかへる浪、朝妻ぶねのあさましや、あゝ又の日はたれに契りをかはして色を色を。枕はづかし、偽がちなる我が床の山、よしそれとても世の中」。

 これ一蝶が小歌絵の上に書きて、あさづま舟とて世に賞翫す、一蝶其はじめ狩野古永真安信が門に入て画才絶倫一家をなす、ここにおいて師家に擯出せらる、剰事にあたりて江州に貶謫、多賀長湖といふ、元来好事のものなり、謫居のあひだくつれる小歌の中に、あだしあだ浪よせてはかへる浪、あさづま舟のあさましや云々、此絵白拍子やうの美女水干ゑぼうしを著てまへにつゞみあり、手に末広あり、江頭にうかべる船に乗りたり、浪の上に月あり、(此の月正筆にはなし、書たるもあり、数幅かきたるにや)。

 あさ妻舟といふは、近江にあさづまといふ所あるに付て、湖辺の舟を近江にはいにしへあそびものゝありしゆへ、遊女のあさあさしくあだなるを思ひよせて一蝶作れるにや、文意聞したるまゝなるを誰に契をかはして色を枕はづかしといふあり、色を枕はづかしとはつづかぬ語意なるをと、数年うたがへるに、後に正筆を見ればかはして色をかはして色をと打かへして書たり、しからばわが世わたりの浅ましきを嗟嘆するにて、句を切て枕恥かしといへるよく叶へり句を切て其次をいふ間だに、千々の思こもりておもしろきにや、又朝づま舟新造の詞にあらず、西行歌、題しらず

  おぼつかないぶきおろしの風さきに朝妻舟はあひやしぬらむ(山家集下)

 又地名を付て何舟といふ事、八雲御抄松浦船あり、もしほ草にいせ舟、つくし舟、なには舟、あはぢ舟、さほ舟あり、もろこし舟いふに不及。

(一話一言巻十四)

 一蝶の筆といふ朝妻船で有名なのは、松沢家伝来のもので、これには一蝶と親交のあつたといふ宗珉の干物の目貫、一乗作朝妻船の鍔一蝶作の如意、清乗作の小柄を添へ、更に一蝶の源氏若紫片袖切の幅と嵩谷の添状がある。浮世絵にもこれを画いたものがある。≫

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「朝妻舟」(鈴木春信作)

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「朝妻舟」(歌川広重作)

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「近江名所図会 朝妻舟」

https://www.instagram.com/p/Bsrrf1lnxcd/

5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆

 この句の季語は、「藤(藤なみ)」(晩春)、「藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

くたびれて宿借るころや藤の花 芭蕉「笈の小文」
水影やむささびわたる藤の棚  其角「皮籠摺」
蓑虫のさがりはじめつ藤の花  去来「北の山」
しなへよく畳へ置くや藤の花  太祇「太祇句選後篇」
月に遠くおぼゆる藤の色香かな 蕪村「連句会草稿」
藤の花雲の梯(かけはし)かかるなり 蕪村「落日庵句集」
しら藤や奈良は久しき宮造り  召波「春泥発句集」
藤の花長うして雨ふらんとす  正岡子規「子規全集」

「句意」は、この古人の旧き時代に描いた「朝妻舟」の、その「藤浪」(風に吹かれて波のように揺れ動く、藤の花)の、その「藤紫」は、少しも色褪せずに、今に、その美しさを奏でている。

(補記)

https://blog.goo.ne.jp/seisei14/e/6221b2da59c4b7f54e40659163a44dbb

英一蝶筆「朝妻舟」(板橋区立美術館蔵)

 この一蝶の「朝妻舟」の賛は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、

ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」という小唄のようである。

 一蝶は、この小唄に託して、時の将軍徳川家綱と柳沢吉保の妻との情事を諷したものとの評判となり、島流しの刑を受けたともいわれている。

 朝妻は米原の近くの琵琶湖に面した古い港で、朝妻船とは朝妻から大津までの渡し舟のこと。東山道の一部になっていた。「朝妻舟」図は、「遊女と浅妻船と柳の木の組み合わせ」の構図でさまざまな画家が画題にしている。

 「琵琶湖畔に浮かべた舟(朝妻船・浅妻船)」・「平家の都落ちにより身をやつした女房たちの舟の上の白拍子」・「白拍子が客を待っている朝妻の入り江傍らの枝垂れ柳」が、この画の主題である。

 しかし、抱一の、この句は、「枝垂れ柳」(晩春)ではなく、「藤波・藤の花房」(晩春)の句なのである。この「朝妻舟」の画題で、「枝垂れ柳」ではなく「藤波」のものもあるのかも知れない。

 それとも、この「藤なみ(波・浪)」は、その水辺の藤波のような小波を指してのものなのかも知れない。

 抱一らの江戸琳派の多くが、「藤」(藤波)を画題にしているが、「朝妻舟」を主題にしたものは、余り目にしない。

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抱一画集『鶯邨画譜』所収「藤図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html



5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)

 この句には、「朝妻ぶねの賛」の「前書」は掛からないようである。『俳文俳句集(日本名著全集第二十七巻)所収「屠龍之技」)』では、「朝妻ぶねの賛/5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆」と、それに続く「5-35 聞そめてなかぬ夜ゆかし鵑(ほととぎす)」の間には、一行が空白となっており、この句は、前句とは直接の関わりのない一句と解したい。

 この句の季語は「鵑(ほととぎす)」(三夏)で、「聞(き)そめて・鵑(ほととぎす)」(初夏)

の「初鳴きの鵑(ほととぎす)」の句ということになる。

(例句)

いつも初音ましてはつ音の時鳥   横井也有(「 蘿葉集」)
聞かぬとし有も命ぞ蜀魂      横井也有 (「蘿葉集」)
ほととぎす宿借るころの藤の花   芭蕉(「元禄十四年惣七宛書簡」)
春過てなつかぬ鳥や杜鵑      蕪村(「蕪村句集」)
我汝を待こと久し時鳥       一茶(「文化句帳」)

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「子規 /杜鵑花(ほととぎす/さつき)」葛飾北斎筆/江戸時代・19世紀/中判 錦絵(「東京国立博物館蔵」)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/482420

「句意」は、初夏を告げる「子規(ほととぎす)」の一声を聞き初めた頃、その鳴き声を聞かない夜も、これまた、その「忍び音」を耳にしないということで、これまた艶な情趣を伝えてくる。


5-36 きりはたり提燈持も虫撰み

 「きりはたり」は、「きりはたりちょう」=「機(はた)を織る音を表わす語。また、ハタオリムシなどの声を表わす。きりはたり。※光悦本謡曲・松虫(1514頃)「面白や、千種にすだく虫の音も、はた織音のきりはたりちゃう、きりはたりちゃう」(「精選版 日本国語大辞典」)

http://benijo514.blog118.fc2.com/blog-entry-14.html

≪秋の虫は和歌に詠まれ、機織り虫との古名がありました。キリギリス、あるいはスイッチョとも言われますが、その鳴き声が機織りの音に似ているからだとされています。また、秋の虫は、冬に備えて機を織り着物のほつれを綴るよう、人に注意を促すように鳴くものとして、中世では能にも謡い込まれています。

 能『錦木』(世阿弥作)より
     きりはたりちやうちやう きりはたりちやうちやう
        はたおり松虫きりぎりす つづりさせよと鳴く虫の(以下略)

 能『松虫』(作者不詳)より

     千草にすだく虫の音の機織る音は きりはたりちやう
        つづりさせちやうきりぎりす(以下略)

近代の詩人もまた「きり、はたり‥‥」と機音を歌っています。

   上田敏 創作詩『汽車に乗りて』より

       (前略)

     きり、はたり、はたり、ちやう、ちやう
     筬(をさ)の音やゝにへだゝり、(後略)


   北原白秋 歌集『桐の花』より

     きりはたり はたりちやうちやう
       血の色の 棺衣(かけぎ)織るとよ 悲しき機(はた)よ  ≫

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「能楽図絵」「松虫」/月岡耕漁筆/立命館大学

https://ja.ukiyo-e.org/image/ritsumei/arcUP0922

http://www.syuneikai.net/matsumushi.htm

≪ 松虫(まつむし)

【分類】四番目物 (雑能)
【作者】不詳
【主人公】前シテ:市人、後シテ:男の亡霊
【あらすじ】(仕舞〔クセ〕の部分は上線部、仕舞〔キリ〕の部分は下線部です。)

 摂津国(大阪府)阿部野のあたりに住み、市に出て酒を売っている男がいました。そこへ毎日のように、若い男が友達と連れ立って来て、酒宴をして帰ります。今日もその男たちがやって来たので、酒売りは、月の出るまで帰らぬように引き止めます。男たちは、酒を酌み交わし、白楽天の詩を吟じ、この市で得た友情をたたえます。その言葉の中で「松虫の音に友を偲ぶ」と言ったので、その訳を尋ねます。すると一人の男が、次のような物語りを始めます。昔、この阿倍野の原を連れ立って歩いている二人の若者がありました。その一人が、松虫の音に魅せられて、草むらの中に分け入ったまま帰って来ません。そこで、もう一人の男が探しに行くと、先ほどの男が草の上で死んでいました。死ぬ時はいっしょにと思っていた男は、泣く泣く友の死骸を土中に埋め、今もなお、松虫の音に友を偲んでいるのだと話し、自分こそその亡霊であると明かして立ち去ります。

<中入>

 酒売りは、やって来た土地の人から、二人の男の物語を聞きます。そこで、その夜、酒売りが回向をしていると、かの亡霊が現れ、回向を感謝し、友と酒宴をして楽しんだ思い出を語ります。そして、千草にすだく虫の音に興じて舞ったりしますが、暁とともに名残を惜しみつつ姿をかくします。

【詞章】(仕舞〔クセ〕の部分と仕舞〔キリ〕の部分の抜粋です。)

〔クセ〕
 一樹の蔭の宿りも.他生の緑と聞くものを。一河の流れ。汲みて知る。その心浅からめや。奥山の。深谷のしたの菊の水汲めども。汲めどもよも尽きじ。流水の杯は手まず。遮れる心なり。されば廬山のいにしえ。虎渓を去らぬ室の戸の。その戒めを破りしも。志しを浅からぬ。思の露の玉水の.渓せきを出でし道とかや。それは賢きいにしえの。世もたけ心冴えて。道ある友人のかずかず。積善の余慶家家に。あまねく広き道とかや。今は濁世の人間。ことに拙なきわれらにて。心も移ろうや。菊を湛え竹葉の。世は皆醉えりさらば.われひとり醒めもせで。万木皆もみじせり。ただ松虫のひとり音に。友を待ち詠をなして。舞い奏で遊ばん。

〔キリ〕
 面白や。千草にすだく。虫の音の。機織るおとは。きりはたりちょう。きりはたりちょう。つずり刺せちょうきりぎりすひぐらし。いろいろの色音の中に。別きて我が忍ぶ。松虫の声。りんりんりんりんとして夜の声。冥々たり。すはや難波の鐘も明方の。あさまにもなりぬべき.さらばよ友人名残の袖を。招く尾花のほのかに見えし。跡絶えて。草ぼうぼうたる朝の原の。草ぼうぼうたる朝の原。虫の音ばかりや。残るらん。虫の音ばかりや。残るらん。≫

 この句の季語は、「きりはたり=きりぎりす(初秋)/虫撰み=秋の虫(三秋)」で、「きりはたり=きりぎりす(初秋)」の一句であろう。

(例句)

むざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉「奥の細道」
白髪ぬく枕の下やきりぎりす   芭蕉「泊船集」
淋しさや釘にかけたるきりぎりす 芭蕉「草庵集」
朝な朝な手習ひすゝむきりぎりす 芭蕉「入日記」
猪の床にも入るやきりぎりす   芭蕉「蕉翁句集」
常燈や壁あたたかにきりぎりす  嵐雪「其角」
きりぎりす啼や出立の膳の下   丈草「菊の道」
きりぎりすなくや夜寒の芋俵   許六「正風彦根躰」

「句意」は、「千草にすだく。虫の音の。機織るおとは。きりはたりちょう。きりはたりちょう。」は、能「松虫」の、名調子であるが、吾輩のお供の「提燈持(もち)」も、今や、「きりぎりす」やら「鈴虫」やら、秋の千草にすだく「虫撰み」に夢中になっている。


5-37 逢ふやいかに夜のにしきの星の竹

 この句の季語は「星の竹/七夕」=「棚機、棚機つ女、七夕祭、星祭、星祝、星の手向け、星の秋、星今宵、星の歌」、「天の川、梶の葉、硯洗、庭の立琴、星合、牽牛、織女、鵲の橋、乞巧奠」(初秋)の一句である。

(例句)

七夕や秋を定むる初めの夜 芭蕉 「有磯海」
七夕のあはぬこゝろや雨中天 芭蕉 「続山の井」
高水に星も旅寝や岩の上 芭蕉 「真蹟」
七夕やまづ寄合うて踊初め 惟然 「惟然坊句集」
七夕や賀茂川わたる牛車  嵐雪 「砂つばめ」
恋さまざま願ひの糸も白きより 蕪村 「夜半叟」
七夕に願ひの一つ涼しかれ 成美 「成美家集」
七夕や灯さぬ舟の見えてゆく 臼田亜浪 「亜浪句鈔」
うれしさや七夕竹の中を行く  正岡子規 「子規句集」

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

『東都歳時記』「第四巻所収『七夕(武蔵七夕))』」(早稲田大学図書館 (Waseda University Library))

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_05102/ru04_05102_0004/ru04_05102_0004_p0003.jpg

「句意」は、今日は、七月七日の「星合」の日である。江戸の、その夕焼けの空は、その「星合の竹」で埋め尽くされている。吾が兄事する「夜半翁」(「蕪村翁」)は、「恋さまざま願ひの糸も白きより」の一句を遺しているが、それに和して、「逢ふやいかに夜のにしきの星の竹」を呈したい。


  東陽山
5-38 紅葉見やこのころ人もふところ手

 この句の前書の「東陽山」とは、下記のアドレスの、「台東区竜泉町にある正燈寺(もみぢ寺)」のようである。

https://tesshow.jp/taito/temple_ryusen_shoto.html

≪正燈寺(龍泉寺町七〇番地)

 京都妙心寺末、東陽山と號す。本尊釋迦如来。(大正十二年九月焼失)承應三年、溝口出雲守宣直禅宗に歸依し、徳大師、顯妙院二寺の古跡地の百姓持であつたのを買受けて寺地に充て松平市正正勝に諸堂宇を建立し、大圓寶鑑國師を請じて開山とした。これ當寺の濫觴で、はじめ正燈庵と號したが、元禄元年今の寺號に改めた。寛政年中諸堂大破に及び開基家竝に總檀家合議の上取崩し、假堂を設置し、文政十年合議の上諸堂宇を再建したが、かの安政二年十月二日の大地震に皆潰滅し、同六年庫裏を再建したが、これ亦大正十二年の大震火災に焼失した。災禍を蒙ること尠からずといはねばならぬ。當寺は往時紅葉の名所であつて、高雄の苗を植ゑたので「高雄の紅葉」と呼ばれ、品川海晏寺に劣らずと稱せられたことは江戸砂子、新編江戸志、江戸名所圖會、江戸名所花暦に見えて人の知る所であるが、數箇度の變災もその因を爲したのであらう、今は全くその俤もとどめなくなつてしまつた。(「下谷區史」より)≫

この「正燈寺(紅葉寺)」は、下記のアドレスの通り、当時の俳人の「加舎白雄」や「小林一茶」も、一句吟じているようである。

http://urawa0328.babymilk.jp/sitamati/syoutouji.html

≪ 正燈寺は京都の高雄からもみじを移植し、名所図会に「もみじ寺」として登場する程の景勝地であった。

 加舎白雄は正燈寺の紅葉を句に詠んでいる。

   正灯寺
門に入て紅葉かざゝぬ人ぞなき  『しら雄句集』

 文化元年(1804年)10月25日、小林一茶も正燈寺の紅葉を句に詠んでいる。

   正統寺にて
  散紅葉流ぬ水は翌のためか    『文化句帖』(文化元年10月) ≫

 この「正燈寺」は、下記のアドレスの通り、「近所の吉原遊郭に遊ぶ客」と深い関わりのあった所なのである。

https://www.weblio.jp/content/%E6%AD%A3%E7%87%88%E5%AF%BA

≪東京都台東区にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は東陽山。昔は紅葉の名所で、その見物を口実にして近所の吉原遊郭に遊ぶ客が多かった。≫

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

『 江戸名所図会(えどめいしょずえ)』所収「6-17-10 /東陽山正燈寺」

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/edo-meisyozue/17.html#group1-10

「句意」は、「紅葉」の季節と相成った。その「紅葉の名所」の、ここ、「東陽山正燈寺」付近では、「このころ人もふところ手」の、思案気な「懐手(ふところて)」の「吉原通いの男衆」を目にすることだ。


   歳暮
5-39 一文の日行千里としのくれ

 季語は「としのくれ(年の暮れ)」(仲冬・暮)。「十二月も押し詰まった年の終わりをいう。十二月の中旬頃から正月の準備を始める地方も多く、その頃から年の暮の実感が湧いてくる。現代ではクリスマスが終わったあたりからその感が強くなる。」(「きごさい歳時記)

【例句】

年暮れぬ笠きて草履はきながら  芭蕉「野ざらし紀行」
成にけりなりにけり迄年の暮   芭蕉「江戸広小路」
わすれ草菜飯に摘まん年の暮   芭蕉「江戸蛇之鮓」
めでたき人のかずにも入む老のくれ 芭蕉「栞集」
月雪とのさばりけらしとしの昏   芭蕉「続虚栗」
旧里や臍の緒に泣としの暮     芭蕉「笈の小文」
皆拝め二見の七五三(しめ)をとしの暮 芭蕉「幽蘭集」
これや世の煤にそまらぬ古合子   芭蕉「勧進牒」
古法眼出どころあはれ年の暮    芭蕉「三つのかほ」
盗人に逢うたよも有年のくれ    芭蕉「有磯海」
蛤のいける甲斐あれとしの暮    芭蕉「薦獅子集」
分別の底たゝきけり年の昏(くれ) 芭蕉「翁草」

 「歳暮」((仲冬・暮)も季語。「もともとは歳暮周りといって、お世話になった人にあいさつ回りをしたことに始まる。そのときの贈り物が、現在の歳暮につながるとされる。」(「きごさい歳時記」)

 抱一の自撰集句集『屠龍之技』は、抱一の自筆句稿(句日記)『軽挙館句藻』に基づいており、その句稿(句集)の各句集名は「居住地」に由来があり、その各句集の句の配列は、四季別(新年・春・夏・秋・冬・歳暮)の順序になっている。

 それらかすると、この句の前書の「歳暮」は「年の暮れ」の意で、季語としての「歳暮」(お歳暮/歳暮祝ひ/歳暮の礼/歳暮返し)の意の用例ではないように思われる。

 と同時に、この句は、この前年の、次の「歳暮」(年の暮れ)の句に対応しているように思われる。

5-20 百両と書(かひ)たり年の関手がた(寛政十年戌午「歳暮」)

 さらに、この句は、次の前書のある句とも対応しているように思われる。

   老驥伏櫪/志在千里
烈士暮年/壯心不已(止)
5-26 唾壺も四ツ迄たゝく水鶏かな(寛政十一年己未「夏」)

 この句の前書は、≪「老驥伏櫪/志在千里/烈士暮年/壯心不已(止)」の、「老驥伏櫪/志在千里」は、「老驥(ろうき)櫪(れき)に伏(ふ)すとも志(こころざし)千里(せんり)に在(あ)り」で、「(「曹操‐碣石篇」の「老驥伏櫪、志在千里、烈士暮年、壮心未已」による語) 駿馬は老いて厩(うまや)につながれても、なお千里を走ることを思うこと。英雄、俊傑の老いてもなお志を高くもって英気の衰えないさまのたとえ。老驥千里を思う。※仮名草子・可笑記(1642)四「実に老驥櫪に伏して心ざし千里といへり、いはんやわかきこの身をや」」(「精選版 日本国語大辞典」)≫の意と解した。

「句意」は、吉原に近い千束の里に引っ越した一昨年の「歳暮」の句は、「百両」が欲しいと、「百両と書(かひ)たり年の関手がた」の句だった。そして、不惑の年を前にした昨年には、「老驥(ろうき)櫪(れき)に伏(ふ)すとも志(こころざし)千里(せんり)に在(あ)り」との心意気で、「唾壺も四ツ迄たゝく水鶏かな」との、老馬なれど「志は千里を往かん」との一句だった。そして、不惑の年の、今年の最後の、この「歳暮」にあたっては、「どうにもこうにも、一日一文(現価の十二・三円の無一文に近い)の貧窮の日々の連続で、されど、『志は千里を往かん』と老馬に鞭を打ちつつも、その心意気が一日一日と萎えていくような『年の暮れ』であることよ。」

(蛇足)

 「老驥伏櫪/志在千里」を「関羽千里行」(『三国志演義』)に置き換えての、「この歳末に、この不惑の年の一年を振り返ってみると、一日一文(無一文に近い)の貧窮の日々の連続で、一日一日が、まるで、『関羽千里行』のような、苦難の一年であったことを実感する。」というような解もあろう。
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第五 千づかの稲(5-29~5-33) [第五 千づかのいね]

    庚申春興
5-29 汐澹桶は沖のかすみや汲に行
     読抱朴子
5-30 首延て霞を呑か嶺のつる
5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月
5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子
5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

庚申春興
5-29 汐澹桶(たご)は沖のかすみや汲に行

 前書の「庚申春興」は、「康申=寛政十二年(一八〇〇)、春興=新年句会」で、抱一、四十歳時の、新年句会での一句ということになる。

 この句の「季語」は、「霞」(三春)=「春の山野に立ち込める水蒸気。万物の姿がほのぼのと薄れてのどかな春の景色となる。同じ現象を夜は「朧」とよぶ。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

春なれや名もなき山の薄霞   芭蕉「野ざらし紀行」
大比叡やしの字を引て一霞   芭蕉「江戸広小路」
はなを出て松へしみこむ霞かな 嵐雪「玄峰集」
橋桁や日はさしながら夕霞   北枝「卯辰集」
狂ひても霞をいでぬ野駒かな  沾徳「合歓の花道」
高麗船のよらで過行霞かな   蕪村「蕪村句集」
草霞み水に声なき日ぐれ哉   蕪村「蕪村句集」
山寺や撞そこなひの鐘霞む   蕪村「題苑集」
指南車を胡地に引去ル霞哉   蕪村「蕪村句集」

「汐澹桶(たご)」=「汐汲桶」=「『田子桶』とも言います。昔塩を作るために海水を汲んだ桶のことで、小道具としては直径22~23センチ、高さ24センチほど、外側は銀箔でまかれ群青で浪の模様を描き、内側は水の入っているように群青色で塗ってあります。

能の松風ではこれを車に乗せ曳いてきます。踊りでは割竹に紅白の布を巻いた棒の両端に、60センチほどの紐4本で桶を下げて、これを肩に担いで使う事が多いです。」(「玉井流日本舞踊教室」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

月岡耕漁「能楽図絵」より「松風」(「ウィキペディア」)

≪『松風』(まつかぜ)は能楽作品の一つである。成立は室町時代。観阿弥のオリジナルを世阿弥が改修したと考えられる。須磨に流された貴公子と海人との深交を記した『撰集抄』・『源氏物語』の説話、及び『古今和歌集』の在原行平の歌を元にした秋の曲である。
 シテ:海人松風の霊、
ツレ:海人村雨(松風の妹)の霊、
ワキ:旅の僧、
アイ:里の男。正面先に松の作り物。

ワキとアイの応対により、海辺の松は松風、村雨姉妹の旧跡であると説明される。作り物の潮汲み車が置かれ、一声があり、松風と村雨の姉妹が登場する。村雨は水桶を持つ。姉妹は在原行平との恋の日々を舞い、謡い、松風は大鼓前で床几に腰掛け、村雨はその後ろに座る。

 ワキ僧はこの二人に対し、海人の家を一夜の宿とさせてくれぬかと乞う。三人の会話の内に、須磨に流された貴公子在原行平と海人の姉妹が恋を結んだ次第が語られる。美しい姉妹の容貌も恋情も身分違いの前には如何ともし難く、結局一途な恋は実ることがなかった。ここで姉妹は実は自分達がその昔の姉妹の霊であると打ち明け、平座する。

 後ジテは行平形見の烏帽子と狩衣をまとい、ツレと共に叶わなかった恋と行平を偲び舞う。やがて、「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる 待つとし聞かば いま帰り来ん」(在原行平)の歌に始まる中ノ舞から心が激して破ノ舞となり、夜明けと共に霊は去って行く。

 『帰る波の音の、須磨の浦かけて、吹くやうしろの山颪、関路の鳥も声声に、夢も後なく夜も明けて、村雨と聞きしもけさ見れば、松風ばかりや残るらん、松風ばかりや残るらん』(ワキのトメ拍子)。熊野と共に賞賛された能であり、熊野の春、松風の秋、熊野の花、松風の月と好対照をなしている。≫

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

酒井抱一「松風村雨図」(細見美術館蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-20

≪「松風村雨図」は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予測させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)≫

 この抱一の「松風村雨図」では、後ろの立ち姿の女性(村雨?)が「汐汲桶(しおくみおけ)」(「汐澹桶(たご)」・「田子桶」)を肩にしている(その前の「烏帽子」を手に立膝の女性の着物の柄には「千鳥」と「松」が描かれており「松風」のように思われる。(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

「句意」は、この新年の「康申春興」に際して、正に「論語」の「四十而不惑」(「四十にして惑わず」)を実感する。思い起こせば、早世した、実兄の姫路藩酒井家二代当主・酒井忠以(茶号=宗雅、俳号=銀鵝)の庇護のもとに、吾が画人としてのスタートの「松風村雨図」を描いたのは、天明五年(一七八五)、二十五歳のことであった。あの「松村村雨図」は、「能・松風」の主役の「松風」に、「姉(兄)」の茶人「宗雅(忠以)」(立膝の「女性」)と「妹(弟)」俳人「朴綾・朴龍(抱一)」(立姿の「汐汲桶」を担ぐ女性)の、その「在りし日々」の姿なのである。その「在りしの日々」の、その「二人の面影」は、「汐澹桶(たご)は沖のかすみや汲(くみ)に行(ゆく)」の如くに、つくづくと、「松風ばかりや残るらん、松風ばかりや残るらん』(ワキのトメ拍子)の一節が耳底にこだましてくるのである。

    読抱朴子
5-30 首延て霞を呑か嶺のつる
5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月
5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子
5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

 この「前書」の「抱朴子」は、孔子・孟子の「孔孟思想」(「儒家思想」)に続く、「老荘思想」(「諸子百家」の「道家思想」)に深い関係のある「神仙思想」を著わした「抱朴子」(晋の葛洪の著書。内篇20篇、外篇50篇が伝わる)の、その「道家思想」のバイブルのようなものなのであろう。

 ここでは、その「抱朴子」に深く立ち入らず、前句の「論語」の「四十而不惑」(「四十にして惑わず」)に続く、その一つの「抱朴子を読む」ということで、その鑑賞を深めていきたい。

    読抱朴子
5-30 首延て霞を呑か嶺のつる

 季語は「霞」(三春)=「春の山野に立ち込める水蒸気。万物の姿がほのぼのと薄れてのどかな春の景色となる。同じ現象を夜は「朧」とよぶ。」(「きごさい歳時記」)

 「つる(鶴)」も季語(三春)だが、ここは、『抱朴子』の、次の一節を踏まえての「千歳の鶴」の用例で、季語としての「鶴」(三冬)の用例ではない。

http://www2.otani.ac.jp/~gikan/4_1situ2_4.html

「千歳之鶴、随時而鳴、能登於木。其未千載者、終不集於樹上也。」(『抱朴子』内篇 對俗巻第三)
(千歳の鶴、時に随いて鳴き、能く木に登る。其の未だ千載ならざる者は、終いに樹上に集わず。)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

「州浜に松、鶴亀図」(酒井抱一筆/三幅/個人蔵

≪抱一は、寛政九年(一七九七)末、浅草寺北の千束村に転居し役七年住んだ。新出の本図中幅には「千束陰居士庭柏子」と款しており、この間の作である。「冥々居」と「抱一」円印を両方捺すが、抱一の号を用いるのもこの転居の頃からである。吉祥性の高い蓬莱の定まった図様の中にも、松籟など着実に琳派風を習得してきたのを見ることができる。≫

(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「38 作品解説」の「図版解説」(松尾和子稿))」)

「句意」は、「抱朴子」を拾い読みしていると、「仙人学んで至るべし」などの「仙人」や、「長寿」の象徴である「松・鶴・亀」などに関しての記述が見られる。この「嶺の鶴」は、その「抱朴子」のいう「千歳の鶴」で、おそらく、その長い首を伸ばして、「不老不死の仙人」が食べている、この霊気新たなる「霞」を食べて長寿を保っているのであろう。 

5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月

 この句にも、前書の「読抱朴子」が掛かるのかも知れないが、この句は「狂言」の「仁王」に由来があるように思われる。

 季語は「おぼろ月」(三春)=「春の夜の朧な月をいう。澄んだ秋の月に対し、春の月は水蒸気のベールがかかったように見える。暈のかかることもある。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

藥盜む女やは有(あり)おぼろ月  蕪村「蕪村句集」

≪「薬盗む女」=嫦娥=不死の薬を盗んで飲み、月(月宮殿)に逃げ蟾蜍(ヒキガエル)になった仙女=『嫦娥奔月』(じょうがほんげつ)の「本説(伝説)取り」の句とされている。≫(『蕪村全集一・講談社』所収「858頭注」など)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

「能楽図絵」「狂言 仁王」(「立命館大学」蔵)

https://ukiyo-e.org/image/ritsumei/arcUP0992

≪「仁王」=狂言の曲名。雑狂言。賭(か)け事に負け無一文になった博打(ばくち)打ち(シテ)が、国元を出奔する前に知り合いのところに寄ると、事情を聞いた知人は、博打打ちを仁王に仕立て参詣(さんけい)人から供え物をとる知恵を授ける。そして仁王の扮装(ふんそう)をさせ上野に立たせると、知人は大ぜいの参詣人を連れてき、まず「さくら」になって刀を供えて願い事をする。それにつられた参詣人たちは着物や金銭などを次々に供え、願をかけて帰っていく。上々の首尾に調子にのった博打打ちが、もうひと稼ぎと待ち受けているところに、足の悪い男が登場して、仁王の御利益(ごりやく)にすがって治そうと、仁王の身体をなで回すうち、仁王が動くので偽者と気づき、追い込む。博打打ちが目をむき口をかっと開いた「仁王立ち」の姿や、参詣人たちの当意即妙の願い事などが理屈抜きに楽しい作品。[油谷光雄]≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

「句意」は、「嫦娥奔月」(じょうがほんげつ)の、「暈(かさ)=光の輪=光背」のかかった「朧(おぼろ)月」が中天に輝いている。そこには、「抱朴子」の「仙人」ならず、「仙女・嫦娥」(『淮南子(えなんじ/わいなんし)』)が隠れ住んでいるという。その「暈(かさ)=光の輪=光背」を背負った「狂言」の「仁王」(「博打打ちが、供物詐欺を企んで「仁王」に化ける)の、その『阿吽(あうん)の仁王」の、『吽(有無の「無」)の仁王』 ではなく、『阿(有無の「有」の仁王))の仁王』の、その「筆(遣い)」(図柄=口をかっと開いた「仁王立ち」の姿)であることよ。


5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子

 前書の「「読抱朴子」の一群の作品として、この「抱朴子」の「長寿の松」、それらが、宋の時代の「歳寒三友(さいかんのさんゆう)」の「松竹梅」(「清廉潔白・節操」の象徴)となり、その系譜から日本では「松竹梅」(「目出度い・吉祥もの」の象徴)として、慶事には必須のものとなってくる。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

「松竹梅図屏風」立林何帠(げい)筆/江戸時代・18世紀/紙本金地着色/133.9×149.1/2曲1隻/東京国立博物館蔵

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/558890

≪マッシュルームのような形の松葉の表現が特徴的です。梅と松が重なるように描くのは、おそらく意図的にそうしたと思われ、なんらかの手本によっているのでしょう。何帠は、尾形乾山(おがたけんざん)の江戸における弟子で、光琳の画風を継承した画家です。≫(「文化遺産オンライン」)

 この句の季語は「梅」(初春)=「梅は早春の寒気の残る中、百花にさきがけて白色五弁の花を開く。「花の兄」「春告草」とも呼ばれ、その気品ある清楚な姿は、古くから桜とともに日本人に愛され、多くの詩歌に詠まれてきた。香気では桜に勝る。」(「きごさい歳時記」)

「松」=「色変へ(え)ぬ松」(晩秋)、「松飾る」(暮/仲冬)、「松の内」(新年)、「初松風」(新年)などで、この句の「松」は、「梅」の咲く頃の、初春の「松」だが、「抱朴子」の「松」と解すると、仙人の住む「蓬莱山・蓬莱」(新年)の「松」のイメージである。

「金砂子」=「金箔(きんぱく)を細かい粉にしたもの。蒔絵(まきえ)、襖(ふすま)、絵画などにおしたり、散らして用いる。金粉。」(「精選版 日本国語大辞典」)

(例句)

年立(としたつ)や日の出を前の舟の松      (年立・新年) 一茶(「文化句帳」)
松竹(まつたけ)の行合(ゆきあい)の間より初日哉 (初日・新年) 一茶(「寛政句帖」)
蓬莱(ほうらい)や只三文の御代の松       (蓬莱・新年) 一茶(「七番日記」)
犬の子やかくれんぼする門(の)松        (門松・新年) 一茶(「七番日記」)
正月やよ所(そ)に咲ても梅の花         (正月・新年) 一茶(「文化句帖」)
長閑しや梅はなく(と)もお正月         (正月・新年) 一茶(「文化句帖」)
正月や村の小すみの梅の花           (正月・新年) 一茶(「文化句帖」)

「句意」は、慶事の日の床の間に「蓬莱山の長寿の松」の絵図が掛けられている。庭には、慶事の日に相応しい、新春の「梅の花」が、「昏れ行く、金砂子を散らしたような夕映え」の中に咲いている。

(蛇足)

 一茶の例句のように、正月に咲く「早咲きの梅の花」として、この「昏行く梅や」を捉えることも、さらに、抱一と同時代の、同じ「光琳・乾山」の流れの「琳派」の画人・「立林何帠」の「松竹梅図屏風」に似せての、「松梅図」の一句としての「句意」もあろう。その「句意」は、正月の「蓬莱の松」に、「金砂子」を撒き散らして、光琳の描く「早咲きの紅白の梅の花」を、豪奢に仕立てたいと念じている。

5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

「竹返し」(「デジタル大辞泉」)

≪ 伝承的な子供の遊びの一。長さ15センチ、幅2センチほどの竹べら数本を上に投げて手の甲で受け、そのまま滑り落として全部を表か裏かにそろえることを競う。竹なんご、六歌仙などともいう。≫(「デジタル大辞泉」)

5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子
 「松竹梅」の、「松と梅」の句である。
5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし

 前句(5-32)の「松と梅」の句に続きの、「松竹梅」の「竹」だけの一句である。この句の「下五」の「竹かへし」は、「竹片を用いる日本の子供の遊戯」の「竹返し」の一句のようである。

http://ohanashi-donguri.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-a954.html

≪ 「竹かえしのうた」

1)ひと投げ ふた投げ みー投げ よ投げ   →「投げ」
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ

2)ひと立で ふた立で みー立で よ立で   →「立で」
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ

3)ひとねじ ふたねじ みーねじ よねじ   →「捩じ」
  いつやの むーすこさん 
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ

4)ひとわけ ふたわけ みーわけ よわけ   →「分け」
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ

5)ひときり ふたきり みーきり よきり   →「切り」
  いつやの むーすこさん
  なーんで やっこらせ ここのー とんで
  大阪見物 みーつがよ                ≫

 この句の季語は、「はるさめ(春雨)」(三春)=「春に降る雨の中でも、こまやかに降りつづく雨をいう。一雨ごとに木の芽、花の芽がふくらみ生き物達が活発に動き出す。「三冊子」では旧暦の正月から二月の初めに降るのを春の雨。それ以降は春雨と区別している。」(「ぎごさい歳時記」)

(例句)

春雨や小磯の小貝ぬるゝほど 蕪村 「蕪村句集」
物種の袋ぬらしつ春のあめ 蕪村 「蕪村句集」
春雨の中を流るゝ大河かな 蕪村 「蕪村遺稿」
春雨や人住ミて煙壁を洩る 蕪村 「蕪村句集」
春雨や身にふる頭巾着たりけり 蕪村 「蕪村句集」
春雨や小磯の小貝ぬるゝほど 蕪村 「蕪村句集」
滝口に燈を呼ぶ聲や春の雨 蕪村 「蕪村句集」
春雨やもの書ぬ身のあハれなる 蕪村 「蕪村句集」
はるさめや暮なんとしてけふも有 蕪村 「蕪村句集」
春雨やものがたりゆく簑と傘 蕪村 「蕪村句集」
柴漬の沈みもやらで春の雨 蕪村 「蕪村句集」
春雨やいさよふ月の海半(なかば)蕪村 「蕪村句集」
はるさめや綱が袂に小ぢようちん 蕪村 「蕪村句集」
春雨の中におぼろの清水哉 蕪村 「蕪村句集」

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-295-33.html

「竹返し殿(おしのび殿さんぽ)」(「福島県立博物館」)

https://twitter.com/fukushimamuseum/status/1258917098350313472

春雨や身にふる頭巾着たりけり 蕪村 「蕪村句集」

≪春雨が艶の情趣を醸し出している。ふと気がつけば、老いたわが身は冬の古頭巾をかぶって、まだ外界と不調和の冬の姿の身のままであることよ。 ≫(『蕪村全集一・講談社』所収「432頭注」など)

「句意」は、「春雨」が艶な情趣を醸し出している。ここ千束の近くの吉原の茶屋で、子供の遊びの「竹返し」を、その「竹返しの童唄」を唱じながら、ひと時を童心に帰っている。今や、その「竹返し」の、「投げ」の、数枚の「筏」のような「竹べら」を、手の甲の乗せて、それを上に投げ、手で掴むという場面である。何とも、出家後の「京都移住」を放棄して、「関西蜚遯人」と自嘲しつつ、今や、「抱朴子」の「仙人」の境地とは雲泥の、「千束の隠士・抱一堂屠龍」の、何とも、形容し難い姿であることよ。

(蛇足)

 「抱一」の号の初見は、寛政十年(一七九八)、『軽挙館句藻』所収「千づかの稲」の内表紙(序章扉)に、「抱一堂稿」と記し、同年の秋に書かれた『哲阿弥句藻』の「跋」の署名に「千束の隠士 抱一堂屠龍」と記したことに由っており、その記載から、当初のそれは「堂号・庵号」だったことが分かる。

 そして、その出典は、「営魄(えいはく)に載(の)りて一(いつ)を抱(いだ)き、能(よ)く離るること無からんか」(『老子』十章)、「是(これ)を以て聖人は、一(いち)を抱(だ)いて天下の式(しき)と為(な)る」(同二十二章)、老子の言としてみえる「衛生(えいせい)の経(けい)は、能(よ)く一(いち)を抱(いだ)かんか」(『荘子』「康桑楚篇」)のいずれかであると、『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』では記述している(同書p93)。

 それらに、『屠龍之技』所収「第五 千づかいね」の「読抱朴子」の前書を有する「5-30 首延て霞を呑か嶺のつる/5-31 ありと云ふ二王の筆やおぼろ月/5-32 松を畫に昏行く梅や金砂子/5-33 はるさめや筏になりぬ竹かへし」の四句なども、その号の由来と何らかの関わりがあるように思われる。
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第五 千づかの稲(5-25~5-28) [第五 千づかのいね]

    三月尽
5-25 ゆく春を小塩(おしお)の曲(ふし)せや一奏(かなで)
    老驥伏櫪/志在千里
     烈士暮年/壯心不已(止)
5-26 唾壺も四ツ迄たゝく水鶏かな

5-27 妹許(いもがり)の桜煙草や十三夜

5-28 鵰(くまたか)の枝踏むおとや冬木だち


  三月尽
5-25 ゆく春を小塩(おしお)の曲(ふし)せや一奏(かなで)

「前書」の「三月尽」も季語(晩春)である。

https://kigosai.sub.jp/001/archives/15314

 「三月尽」(晩春)=陰暦三月(弥生)が尽きること。陰暦では一月から三月が春であるため、三月は春の最後の月。春が終わるという感慨や、行く春を惜しむ気持ちが込められる。陽暦では三月は春の終わりではないので、惜春の思いはない。

(例句)

弥生尽ものうしなへるこころかな 嘯山「葎亭句集」

 季語は、「ゆく春(行く春)」(晩春)」=「まさに過ぎ去ろうとする春をいう。ことに春は厳しい寒さの中で待ち望んだ季節だけに送るのは惜しい。「春惜しむ」というと、さらに愛惜の念が強くなる。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

行はるや鳥啼うをの目は泪   芭蕉「奥の細道」
行春を近江の人とをしみける  芭蕉「猿蓑」
行春にわかの浦にて追付きたり 芭蕉「笈の小文」

「小塩(おしお)」=「能の曲目。四番目物。五流現行曲。金春禅竹(こんぱるぜんちく)作。小塩山のある洛西(らくせい)の大原野(おおはらの)に桜狩にきた都人(ワキ)の前に、花を肩にした老人(前シテ)が現れ、二条の后(きさき)と在原業平(ありわらのなりひら)の故事を物語る。後段は業平の霊(後シテ)が在りし日の優姿で花見車に乗って登場し、月と花の美しさをたたえ、優雅な舞を舞う。『雲林院(うんりんいん)』と似た主題だが、花にあこがれるはなやかさがこの曲に濃い。女性をシテとする三番目物の幽玄能に準じて扱われる。[増田正造]」(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-255-28.html

「能:小塩(おしお)」=「花見車」の在原業平

https://www.nohbutai.com/contents/05/01a/5osio.htm

「句意」は、まさに「弥生尽」、芭蕉翁は、「行春を近江の人とをしみける」の名吟を遺している。されば、「能:小塩(おしお)」の曲(ふし)にて、「月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして」(「伊勢物語第四段」「古今集一五・七四七」)の一声を奏でることにする。


     老驥伏櫪/志在千里
    烈士暮年/壯心不已(止)
5-26 唾壺も四ツ迄たゝく水鶏かな

 この前書の「老驥伏櫪/志在千里/烈士暮年/壯心不已(止)」の、「老驥伏櫪/志在千里」は、「ろうき【老驥】=櫪(れき)に伏(ふ)すとも志(こころざし)千里(せんり)に在(あ)り」で、「(「曹操‐碣石篇」の「老驥伏レ櫪、志在二千里一、烈士暮年、壮心未レ已」による語) 駿馬は老いて厩(うまや)につながれても、なお千里を走ることを思うこと。英雄、俊傑の老いてもなお志を高くもって英気の衰えないさまのたとえ。老驥千里を思う。※仮名草子・可笑記(1642)四「実に老驥櫪に伏して心ざし千里といへり、いはんやわかきこの身をや」」(「精選版 日本国語大辞典」)

https://kanshi.roudokus.com/hosyutsukamonkou.html

歩出夏門行(ほしゅつかもんこう) 曹操(そうそう)
神龜雖壽  神龜(じんき)は寿(いのちなが)しといえども
猶有竟時  猶(なお)竟(おわ)る時あり
騰蛇乘霧  騰蛇(とうだ)は霧(きり)に乗(じょう)ずるも
終爲土灰 終(つい)には土灰(どかい)となる
老驥伏櫪  老驥(ろうき)は櫪(れき)に伏すも
志在千里  志(こころざし)は 千里にあり
烈士暮年  烈士暮年(れっしぼねん)
壯心不已  壮心(そうしん)やまず
盈縮之期  盈縮(えいしゅく)の期(き)は
不但在天  但(ただ)に 天のみに在(あ)らず
養怡之福  養怡(ようい)の福(ふく)は
可得永年  永年(えいねん)を得(う)べし
幸甚至哉  幸(こう)甚(はなは)だ至(いた)れる哉(かな)
歌以詠志  歌いて以(もっ)て志(ここざし)を詠(えい)ず


5-26 唾壺(たんつぼ)も四ツ迄たゝく水鶏かな

 季語は「水鶏」(三夏)=「夏、水辺の蘆の茂みや水田などに隠れて、キョッキョッキョキョと高音で鳴く鳥。古来、歌に多く詠まれてきたのは緋水鶏で、その鳴声が、戸を叩くようだとして「水鶏叩く」といわれる。」(「きごさい歳時記」)

「唾壺」(たんつぼ・だこ)=「① 唾(つば)をはき入れる壺。たんつぼ。※延喜式(927)六「斎王定畢所レ請雑物。膳器、銀飯鋺一合、〈略〉銀唾壺一口。② タバコ盆の灰吹き。吐月峰(とげっぽう)。※東京新繁昌記(1874‐76)〈服部誠一〉三「其の説く所、唾壺大虵(〈注〉ハイフキからだいじゃ)の説に異ならずと雖も、説法家の拙法の企て及ぶ所に非ず」(「精選版 日本国語大辞典」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-255-28.html

※延喜式(927)六「斎王定畢所レ請雑物。膳器、銀飯鋺一合、〈略〉銀唾壺一口。

「四つ」=「④ 中古から近世における時刻の呼び方。現在の午前一〇時または午後一〇時にあたる。※蜻蛉(974頃)中「初夜おこなふとて〈略〉念数するほどに、時は山寺、わざの貝、よつふくほどになりけり」(「精選版 日本国語大辞典」)

「句意」は、吾も「老驥(ろうき)」と、いささか「老い」たが、されど、「志(こころざし)在千里(千里に在り)」で、「緋水鶏」が、「四つ」ならず、「四六時中」、「銀の唾壺(だこ)」を「叩く」ょうに、一心不乱に句作に興じている。


5-27 妹許(いもがり)の桜煙草や十三夜

 季語は「十三夜(後の月)」(晩秋)=「旧暦九月十三夜の月。八月十五夜は望月を愛でるが、秋もいよいよ深まったこの夜は、満月の二夜前の欠けた月を愛でる。この秋最後の月であることから名残の月、また豆や栗を供物とすることから豆名月、栗名月ともいう。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

木曾の痩せもまだなほらぬに後の月 芭蕉 「笈日記」
三井寺に緞子の夜着や後の月    蕪村 「夜半叟句集」

「妹許(いもがり・いもらがり)」=「(「がり」は接尾語) 妻、恋人の住んでいる所(へ)。妹(いも)のもと(へ)。いもらがり。※万葉(8C後)九・一七五八「筑波嶺の裾廻(すそみ)の田井に秋田刈る妹許(いもがり)遣(や)らむ黄葉(もみぢ)手折らな」」(「精選版 日本国語大辞典」)

(例句)

顔見世や夜著をはなるゝ妹が許  蕪村「蕪村自筆句帳・蕪村句集」
雪解や妹が炬燵に足袋片シ    蕪村「蕪村遺稿集」

「桜煙草」=「桜皮細工の煙草盆」=「火入れ・灰吹きなどの喫煙具をのせる盆や小さな箱」(「デジタル大辞泉」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-255-28.html

「煙草盆」(茶道の道具)

http://verdure.tyanoyu.net/tabakobon.html

≪煙草盆(たばこぼん)は、火入(ひいれ)、灰吹(はいふき)、煙草入(たばこいれ)、煙管(きせる)、香箸(こうばし)など、喫煙具一式を納めておく道具です。煙草盆は、「莨盆」とも書き、煙草盆、火入、灰吹、煙草入、煙管一対を、煙草盆一式あるいは煙草盆一揃などといいます。≫

(例句)

たばこ盆足で尋る夜寒哉     一茶 「文化十四年丁丑(五十五歳)」
今春が来たよふす也たばこ盆   一茶 「文政二年己卯(五十七歳)」

「句意」は、今日は「後の月」の「十三夜」、親しい女性の茶室で、愛用の「桜皮細工の煙草盆」を愛でながら、薄茶を飲みつつ栗名月を愉しんでいる。


5-28 鵰(くまたか)の枝踏むおとや冬木だち

 季語は「冬木立」(三冬)=「冬の樹木「冬木」が群立しているさまをいう。落葉樹も常緑樹も冬木ではあるが、葉を落とした冬枯れの裸木の木立は、鬱蒼と茂る夏木立と対照的にものさびしいものである。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

斧入れて香におどろくや冬木立  蕪村「秋しぐれ」
郊外に酒屋の蔵や冬木だち    召波「春泥発句集」
冬木だち月骨髄に入る夜かな   几董「井華集」

「鵰(くまたか)」=「クマタカ(角鷹、熊鷹、鵰、Nisaetus nipalensis)は、鳥綱タカ目タカ科クマタカ属に分類される鳥。日本に分布するタカ科の構成種では大型であることが和名の由来(熊=大きく強い)。胸部から腹部にかけての羽毛は白く咽頭部から胸部にかけて縦縞や斑点、腹部には横斑がある。尾羽は長く幅があり、黒い横縞が入る。翼は幅広く、日本に生息するタカ科の大型種に比べると相対的に短い。これは障害物の多い森林内での飛翔に適している。翼の上部は灰褐色で、下部は白く黒い横縞が目立つ。」(「ウィキペディア」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-255-28.html

「クマタカ(角鷹、熊鷹、鵰)」(「ウィキペディア」)

「鷹(熊鷹)」も「三冬」の「季語」だが、この句の主たる季語は「冬木だち」で、「鵰(くまたか)」は、それに彩りを添える従たる季語ということになる。

「句意」は、「冬木だち、鵰(くまたか)の枝踏む音や、骨髄に凍み渡る。」
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第五 千づかの稲(5-19~5-24) [第五 千づかのいね]

    一年好景須君記
5-19 口切りや南天あかしうめ白し
5-20 百両と書(かひ)たり年の関手がた
5-21 胡麻節を軒端の梅のつぼみ哉
5-22 はるさめやかるたの鬼も網が手に
5-23 から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進
5-24 人影や月になりゆく夕桜

 この六句の前書にある「一年好景須君記」は、「贈劉景文(劉景文に贈る):蘇軾」の「一年好景君須記=一年の好景(こうけい)/君須(すべから)く/記(しる)すべし」の一節に因っている。

https://kanshi.roudokus.com/ryuukeibun.html

   贈劉景文 蘇軾=劉景文に贈る 蘇軾

 荷尽已無擎雨蓋=荷(はす)尽き/已(すで)に雨擎(ささ)ぐ/蓋(かさ)無し
 菊残猶有傲霜枝=菊残(おとろ)え/猶(なお)霜驕(おご)る/枝(えだ)有り
 一年好景君須記=一年の好景(こうけい)/君須(すべから)く/記(しる)すべし
 正是橙黄橘緑時=正に是れ/橙(とう)は黄に/橘(きつ)は緑なる/時(とき)

(現代語訳)

 蓮の葉は枯れてしまい、雨を受けていた傘も、今は無い。
 菊の花は凋み、何本かの枝が霜に耐えて伸びている。
 一年のうちのよい眺めを、ぜひ記憶に留めてほしい。
 特に今、ユズは黄色く色づきミカンはまだ緑色の季節を。

(「句意」周辺)

5-19 口切りや南天あかしうめ白し

 季語は「口切り」(初冬)。「南天(南天の実)」(三冬)も「梅擬(白梅擬)」(晩秋)も季語だが、ここは、「口切りの茶事(炉開き)」(陰暦十月最初の亥の日の炉開き)の「茶花」の「南天の実の赤」と「白梅擬の白」との「取り合わせ」の句。

「口切(くちきり)/初冬」=その年の新茶を葉のまま陶器の壺に入れ、口を封じて保存する。冬にその封を切り、茶臼でひいて茶をたてる。口切の茶事として客を招いてふるまう。もっとも晴れがましい茶会として、しつらいや装いに気を配る。

「南天の実(なんてんのみ)/三冬」=初夏の頃白い小花を穂状につけるが、これが小粒の球形の実になる。枝先に群がった実は晩秋から初冬に真っ赤に色づく。「難を転ずる」に通じることから、鬼門や水周りに植えたり、縁起物として正月飾や祝い事に用いられる。

「梅擬(うめもどき)・白梅擬/」晩秋」=モチノキ科の落葉低木で、北海道を除く日本各地の山地に自生する。とくに、谷筋や湿地に多い。庭木としても鑑賞し、初夏に薄紫の小さな花が咲く。実ははじめ青いが晩秋には深紅となる。

「句意」は、今日の陰暦十月最初の亥の日の「口切りの茶事」で、その「茶花」は、赤い「南天の実」と白い「白梅擬」の取り合せである。その「白梅擬」が、初春を告げる「茶花」の「白梅」の如き風情を醸し出している。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

「白梅擬」

https://hanazukusi.exblog.jp/17196719/

(補記)

 この句の趣向は、「口切りや南天あかしうめ白し」の、「口切り」(初冬)、「南天の実」(三冬)、そして、「うめ白し」の、この「うめ」が「白梅」(初春)でなく、「白梅擬」(晩秋)と洒落風のレトリック(修辞上の技巧)を利かせているところにある。

 これが、「白梅」(初春)と詠ませると、「口切り(茶事)」の句ではなく、「初釜」の句となり、上五の「口切りや」と齟齬をきたすことになる。

口切りや南天の実の赤き頃 (夏目漱石・明治二十八年)
 吾妹子(わぎもこ)を客に口切る夕哉 (同上)
 炉開きに道也の釜を贈りけり (同上)
 炉開きや仏間に隣る四畳半 (同上)
 梅の花千家の会に参りたり (夏目漱石・明治三十二年)
 粗略ならぬ服紗さばきや梅の主 (同上)

 『漱石俳句を愉しむ(半藤一利著・PHP新書)』で、漱石の愛弟子の一人の寺田寅彦の『漱石俳句研究(岩波書店)』を紹介しながら、「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである」

「扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」などの「漱石の俳句観」を指摘して、「漱石はアイデアとレトリックといった芸のかぎりを駆使して、奔放に無頼に句で遊んだのである」と喝破している。

 この「漱石の俳句観」は、そっくり、其角の「洒落風俳諧」にどっぷりと浸かっている「抱一の俳句観(俳諧観)」と同一線上にある。というよりも、夏目漱石の俳句の世界は、抱一の俳句の世界の二番煎じという感じで無くもない。

 抱一は発句を読んで梅の花 (夏目漱石・明治三十二年)

5-20 百両と書(かひ)たり年の関手がた 

 季語は「百両」(「万両・千両・十両」=ヤブコウジ科、「百両」=カラタチバナ、「一両」=アリドオシの「実万両」の三冬の季語。

https://kigosai.sub.jp/001/archives/3276

「万両(まんりょう、まんりやう)/実万両=三冬」=ヤブコウジ科の常緑低木で、葉の下に直径六ミリ位の実をつける。まれに黄色や白い実をつける品種があり、黄実万両、白実万両と呼ばれる。千両と共に正月の縁起物として飾られる。万両(マンリョウ)は、ヤブコウジ科ヤブコウジ属の常緑小低木で、関東以西から沖縄までの常緑樹林内に自生している。センリョウ同様に、縁起物とされ、鉢植え栽培や庭に植栽されている。縁起植物としては、万両(マンリョウ)や千両(センリョウ)の他に、百両としてカラタチバナが、十両としてヤブコウジが、一両としてアリドオシがあてられている。

「関手がた」=「関手形」=「関所通(とおり・とほり)手形」=江戸時代、関所を通過する際に所持し提示した身元証明書。武士はその領主から、町人・百姓は名主・五人組・町年寄などの連名で手形発行権をもつ者に願い出て、下付をうけた。関所では手形の印と判鑑とを引き合わせて、相違ないことを確かめた上で通過させた。関所切手。関手形。関所札。関札。関所手形。手形。(「精選版 日本国語大辞典」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

「【万両・千両・百両・十両・一両】全て実在する植物!それぞれの違いは?」

https://www.kankitsukeip.com/entry/2020/11/11/193503

◎名前の由来(万両):千両よりも実が赤く大きいため。また千両より多くの実を付けるため。
◎名前の由来(千両):百両より多くの実を付けるため。また万両より実が少ないため。
◎名前の由来(百両):江戸時代に流行した園芸品種が百両単位の値段で取引されていたため。
◎名前の由来(十両):百両より実が少ないため。また実の美しさが金十両に値するとされていたため。
◎名前の由来(一両):万両や千両とともに「千両万両有り通し」として植えられ、縁起物として扱われたため。

「句意」は、この絵図は、「万両・千両・百両・十両・一両」の、「百両」を描いたものとして、その落款に、その年の「関手がた」(「関所通(とおり・とほり)手形」)と同じく、「身元証明書」のように、「百両」という賛を施した。

(補記)

 『酒井抱一(井田太郎著・岩波新書)』によると、この句は、寛政十年(一七九七)の末で「歳末」と題しての、次の三句のうちの一句ということになる(「軽挙館句藻」)。

 韓神(からかみ)の拍子はいかに節季候(せつきぞろ)
 よし原に師走女はなかりけり
 百両と書ひたり年の関手形

 そして、上記の二句目の「師走女」=「化粧っけのない女性」で、この三句目の句は、「年越しの物要り」を詠んだものとして、これらの句は「吉原近くの歳末の光景」であるとしている。

 この一句目の季語は「節季候」、二句目の季語は「師走女」、三句目のそれは「百両」で、この「百両」は、お金の「百両」と兼ねての用例である。この三句目の「関手形」も、例えば、「吉原」の妓楼とかと何らかの関係のある用例なのかも知れない。

 ここでは、この「関手形」を、この前年の、寛政九年(一七九六)の、「出家答礼の上洛」と関係するものとして捉えると、次のような句意となってくる。

 (句意)

 寛政十年(一七九七)の「歳暮」の「吉原」で、その年越しに「百両」は欲しいと、そんな思いをめぐらしながら、この庭先の「実万両・実千両」とも「実百両」とも思えるものを見ていると、昨年の、寛政九年(一七九六)の師走にかけての、真冬の「出家答礼の上洛」路での、さまざまなことが思いおこされてくる。 あの時も、その出発時に「百両」は欲しいと、その上洛時の「関手がた」(控)などを見ながら、そんなことを思いつつ、「万両・千両・百両・十両・一両」と、この「実万両・実百両」を見ている。

5-21 胡麻節を軒端の梅のつぼみ哉

 季語は「梅のつぼみ」=「梅蕾(ばいらい・梅蕾(つぼ・ふふ)む)」=「冬萌」(晩冬)

(例句)

https://fudemaka57.exblog.jp/29220330/

 おさがりの雫莟むや梅若し    酒井抱一
 十団子に気のつく梅の莟かな   建部巣兆
 もどかしき梅二三日の莟かな   加藤曉台

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

「今はまだ、目覚めの前・・・ 花の季節(2月)になると、あたりの山々全体が、梅の花で薄化粧した様に、ほんのり白く染まります。」

https://minabe.net/barcharu/hana01.html

「胡麻節(ごまぶし)」=「胡麻点」=謡物の文句の傍につけた、曲節を明らかにするための点。ふしはかせ。墨譜(ぼくふ)。(「精選版 日本国語大辞典」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

「墨譜の例」(「折線・曲線」は旋律の動き、「墨点」が「胡麻点」)

http://masa-yamr.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/47-e0e5.html

 「句意」は、屋根の下の「軒端」に、枝を張っている「軒端の梅」も、まだ、蕾のままで、それは、まさに、「謡物」の「墨譜」の「胡麻節」のようで、まもなく、「百花の魁(さきがけ)」の、梅の開花を奏でることでしょう。

5-22 はるさめやかるたの鬼も網が手に

 季語は「はるさめ(春雨)」(三春)。「春に降る雨の中でも、こまやかに降りつづく雨をいう。一雨ごとに木の芽、花の芽がふくらみ生き物達が活発に動き出す。「三冊子」では旧暦の正月から二月の初めに降るのを春の雨。それ以降は春雨と区別している。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

春雨や小磯の小貝ぬるゝほど 蕪村 「蕪村句集」
物種の袋ぬらしつ春のあめ 蕪村 「蕪村句集」
春雨の中を流るゝ大河かな 蕪村 「蕪村遺稿」
春雨や人住ミて煙壁を洩る 蕪村 「蕪村句集」
春雨や身にふる頭巾着たりけり 蕪村 「蕪村句集」
春雨や小磯の小貝ぬるゝほど 蕪村 「蕪村句集」
滝口に燈を呼ぶ聲や春の雨 蕪村 「蕪村句集」
春雨やもの書ぬ身のあハれなる 蕪村 「蕪村句集」
はるさめや暮なんとしてけふも有 蕪村 「蕪村句集」
春雨やものがたりゆく簑と傘 蕪村 「蕪村句集」
柴漬の沈みもやらで春の雨 蕪村 「蕪村句集」
春雨やいさよふ月の海半(なかば)蕪村 「蕪村句集」
はるさめや綱が袂に小ぢようちん 蕪村 「蕪村句集」
春雨の中におぼろの清水哉 蕪村 「蕪村句集」

 「かるた(歌留多)」も「新年」の季語だが、ここは「かるたの鬼」(「歌留多」に精魂を傾けている人)」の意で、下五の「綱の手に」と結びついて、能・謡曲「羅生門」に由来のある一句ということになる。

 この上五の「はるさめや」の「はるさめ」もまた、「羅生門」の詞章の一節である。

http://idolapedia.sakura.ne.jp/cgi-bin/song.cgi?mode=text&title=%97%85%90%B6%96%E5

《頼光詞「いかに面々。さしたる興も候はねども。この春雨の昨日今日。晴間も見えぬつれつれに。今日も暮れぬと告げ取る。声も寂しき入相の鐘。

上歌地「つくつくと。春の長雨の寂しきは。春の長雨の寂しきは。しのぶにつたふ。軒の玉水音すごく。独ながむる夕まぐれ。ともなひ語らふ諸人に。御酒をすゝめて盃を。とりとりなれや梓弓。やたけ心の一つなる。つはものゝ交はり頼みある中の酒宴かな。》

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

『能楽絵図』「羅生門」/絵師:月岡耕漁 判型:大判錦絵/出版:明治34年(1901)/所蔵:立命館ARC/所蔵番号:arcUP1001.

https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/jl2016/2016/11/post-66.html

(解説)
 ≪ 耕漁の『能楽図絵』の内の一枚。渡辺綱(ワキ)が鬼神(シテ)に斬りかかろうとする場面を描く。
能『羅生門』は観世小次郎の作。大江山で酒呑童子を退治した後、源頼光と藤原保昌が頼光四天王を集めて酒宴を開く。渡辺綱はその席で保昌から羅生門に鬼が出るという噂を聞くが信じず、その真相を確かめるために羅生門へ向かう。羅生門に到着した綱が証拠の金札を置いて帰ろうとした時、背後から鬼神に襲われる。応戦した綱は鬼の腕を斬りおとす。鬼は「時を待ってまた取ろう」と言い残して空へ消える。
大江山伝説と綱の鬼退治伝説に時系列の繋がりをつけたのはこの能『羅生門』が最初である。それにより名前こそついていないものの後世の伝説に登場する茨木童子に相当する鬼が誕生したのもこの謡曲『羅生門』である。この説は時代が下るにつれて広く人口に膾炙し、江戸時代天和元年頃成立した『前太平記』にも記述が見られる。(菅)≫

 「句意」は、春雨のしとしとと降り続く日の「新春」の集い、常連の「俳鬼・画鬼・酒鬼・債鬼・餓鬼・等々」の面々が、「歌留多」遊びを興じている。その勝負は、「鬼女」の異名を持つ「歌留多の鬼」が、「姓は渡辺・名は綱」を自称する「花札の鬼」に惨敗したようである。

5-23 から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進

 季語は「蝶」(三春)。しかし、この句の主題は、上五の「から貓(猫)や」の「唐猫」にある。そして、「猫の恋」は「初春」の季語となる。

 その「猫の恋」は、「恋に憂き身をやつす猫のこと。春の夜となく昼となく、ときには毛を逆立て、ときには奇声を発して、恋の狂態を演じる。雄猫は雌を求めて、二月ごろからそわそわし始め、雌をめぐってときに雄同士が喧嘩したりする。」(「きごさい歳時記」)

(例句)

猫の恋やむとき閨の朧月  芭蕉 「をのが光」
麦めしにやつるゝ恋か猫の妻 芭蕉 「猿蓑」
猫の妻竃の崩れより通ひけり 芭蕉 「江戸広小路」
まとふどな犬ふみつけて猫の恋 芭蕉 「茶のさうし」
羽二重の膝に飽きてや猫の恋 支考 「東華集」
おそろしや石垣崩す猫の恋 正岡子規 「子規句集」
恋猫の眼ばかりに痩せにけり 夏目漱石 「漱石全集」

 掲出の抱一の「から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進」は、上記の「例句」の「まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉)」の、その本句取りのような一句である。

 まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉「茶のさうし」)

http://www.basho.jp/senjin/s1704-1/index.html

≪ 句意は「恋に狂った猫が、ぼおっと横になっている犬を踏みつけて、やみくもに走って行ったよ」
 私がこの句を知ったのは朝日新聞の天声人語(2017.2.22朝刊)に「猫の恋」の話の中で、「情熱的な躍動を詠んだ名句の一つ」として載っていたからである。「またうどな」と新聞では表記されていた上五の意味がわからないことで興味をもった。
 「またうど」は「全人」でもとは正直、真面目、実直などの意であるが、愚直なことや馬鹿者の異称として用いられたこともあるという(『江戸時代語辞典』)。
 そこで私は上記のように解釈したのだが、確かに恋に夢中になった猫が普段怖がっている犬を踏みつけて走っていく状況は面白い。猫の気合とのんびりした犬の対比の面白さとして取り上げた評釈もあるが、私は猫の夢中さを描いた句ととりたい。
  この句の成立時期ははっきりしていないものの、芭蕉にしては即物的な珍しい句という感じがする。(文) 安居正浩≫(「芭蕉会議」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』(ColBase)/(https://colbase.nich.go.jp/

https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/193858/

 「句意」は、この珍しい舶来の「唐猫」が、「蝶」を捕って、それを「噛(かじ)っている」、その「獅子奮進」(獅子が荒れ狂ったように、すばらしい勢いで奮闘する様子の)の姿は、これぞ、まさしく、「万国共通」の、歌麿の描く「通ひけり恋路の猫又」の世界のものであろう。

(補記)

 この句もまた、抱一好みの「浄瑠璃」の「大経師昔暦(1715)」上「から猫が牡猫(おねこ)よぶとてうすげしゃうするはしをらしや」とを背景にしている一句なのかも知れない。


5-24 人影や月になりゆく夕桜

 季語は「桜・夕桜」(晩春)。「月」(三秋)も季語だが、ここは、「夕桜」から「夜桜」への時分の推移をあらわしている用例であろう。

「朝桜」=朝露を帯びて咲いている清らかな桜。⇔夜桜。《季・春》※俳諧・いつを昔(1690)十題百句「朝桜よし野深しや夕ざくら〈去来〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

「夜桜」=① 夜の桜の花。また、夜に桜の花を見物すること。⇔朝桜。《季・春》※謡曲・西行桜(1430頃)「よそはまだ小倉の、山陰に残る夜桜の、花の枕の夢は覚めにけり」② 特に、江戸新吉原、仲の町の通りに植えられた桜。雪洞(ぼんぼり)をともして、夜遊びの客をさそった。→(メモ・「吉原の夜桜」=「夜桜」の派生季語) ※雑俳・柳多留‐七(1772)「夜さくらは年寄の見る物でなし」(「精選版 日本国語大辞典」)

「夕桜」=夕方にながめる桜。夕闇の中に咲いている桜。《季・春》※俳諧・いつを昔(1690)十題百句「朝桜よし野深しや夕ざくら〈去来〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

(例句)

 護国寺にあそぶ時、
 馬にてむかへられて
白雲や花に成りゆく顔は嵯峨(其角「五元集」)

http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

≪「花に成りゆく顔は嵯峨」と読むが、前書によれば、馬を回してもらって其角が護国寺へ行く途中の吟という事になる。遠くから白雲のように見えていたものが、次第に花の山になり、自分の顔も嵯峨の景の前にいるような「嵯峨顔」になって来たの意であろう。ここで嵯峨と言ったのは、護国寺の景を京の嵯峨に見立てて言っているのだが、元禄13年の夏、京都嵯峨清涼寺の釈迦如来像の出開帳が江戸の護国寺で行われて大変評判になったので、江戸市中の人は嵯峨で分かるわけだ。
 『そこの花』(元禄十四年刊)には「嵯峨の釈迦武江に下り給ひける時」と前書し掲句が載っている。この前書だと、馬上の主体は釈迦如来像という事になる。即ち、はじめ白雲のように見えていたのが、花の山のさまになり、さらに近づくにつれて京の嵯峨と見まごう面影の護国寺の森が見えて来たとの、釈迦如来像からの眼になる仕掛けの句である。
 この「白雲や」のような句をつくる(作れる)俳人は、少ないだろう。明治以降主流になった写生句を超えているし、何よりも前書によって句の意味が変わってしまう等という「連句的手法」は、俳諧を自在にしたプロの俳諧師の仕事という事になろうか。≫(「詩あきんど」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

初代歌川広重「東都名所 吉原仲之町夜桜」 シカゴ美術館

https://intojapanwaraku.com/culture/194738/

≪吉原遊郭の桜は、寛保元(1741)年春、茶屋の軒下に鉢植の桜を飾ったのが評判になり、翌年からは桜の木を植え、花の時期が過ぎると抜き去るのが恒例になりました。延享2(1745)年には、桜の木の下に山吹を植えて周りを青竹の垣根で囲い、夜は雪洞(ぼんぼり)に灯をともして夜桜も楽しめるようになりました。電気がなく、油も貴重だった時代、アミューズメントパーク・吉原遊郭の夜桜の花見は、江戸の人々にとっては、とても幻想的なものであったと思われます。この期間は、普段は吉原遊郭に立ち入ることができない一般の女性にも開放されていたのだとか。江戸の人々だけではなく、地方からの観光客や参勤交代で江戸に来た武士など大勢の人々が、評判の桜を一目見ようと、吉原遊郭を訪れたのです!≫(「和楽」)

「句意」は、「吉原の夜桜」見学の「人影」が押し寄せ、月が上るにつれて、「夕桜」から「夜桜」へと、その幻想的な夜の世界をパノラマ化して行く。
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第五 千づかの稲(5-16~5-18) [第五 千づかのいね]

    存義先師七七回忌
5-16  ふることを鳴(なき)て千鳥の磯めぐり
5-17 雪おれの雀ありけり園の竹
5-18  ゆきの夜や雪車に引(ひか)せん三布団

 寛政二年(一七九二、抱一、三十歳)の「軽挙館句藻」の「梶の音」に、「筥崎舟守」(抱一)の号で、「予(抱一)、もとは有無庵(存義=「有有庵」は誤記)の門に遊び、今は紫隠(春来)の古きをしとふ」との「序」が記されている。

 天明二年(一七八二、抱一、二十二歳)に、その先師・馬場存義は亡くなるが、この当時は、「江戸座俳諧」の中枢(其角座→存義側)の「業俳」の頂点を位置していた「存義」門の一員であったということなのであろう。

 存義が亡くなって、抱一の俳諧の師は、抱一よりも三十七歳年長の「米翁」、そして、三十歳年長の「晩得」の二人が、両親、そして、兄(忠以=俳号・銀鵞)を亡くしている抱一の、公私ともに後見人のような存在で、その二人の「江戸座俳諧」(其角・沾徳座→浅草側)の座の中で、抱一の俳諧の世界は飛翔していくことになる。

 そして、この「米翁・晩得」は、「存義」よりも「存義」の師でもある「前田春来(紫隠)」の『東風流(あずまふり)』俳諧の世界のもので、それは、「西土の蕉門」(上方の蕉門、殊に、各務支考の「美濃派蕉門」(田舎蕉門)」を排斥して、「其(其角)・嵐(嵐雪)の根本の向上躰(精髄の発展形)」(「江戸蕉門=都市派蕉門=江戸座」俳諧)を強調するものであった。

 と同時に、その「春来(二世青蛾)・米仲・存義」らの『東風流(あずまふり)』俳諧は、当時、勃興しつつあった「五色墨」運動(「江戸座俳諧への反駁運動)に一石を投ずるものでもでもあった。

 この「五色墨」運動は、享保十六年(一七三一)の俳諧撰集『五色墨』(宗瑞=白兎園=風葉=中川氏=杉風門、蓮之=珪林=松木氏=杉風門、咫尺(しせき)=大場氏=嵐雪門、素丸=馬光=其日庵二世=葛飾風=長谷川氏=素堂門、長水=麦阿=柳居=佐久間氏=沾徳門・伊勢麦林(乙由)門)の「四吟歌仙(四人)+判者(一人)」の「四吟歌仙五巻」を興行したことを、そのスタートとして勃発した俳諧革新運動である。

 この五人の他に、「稲津祇宗」(石霜庵,敬雨,有無庵)も、その巻末に「敬雨」の号で参画し、この祇空は、蕪村の師の「早野巴人」(竹雨,宋阿,郢月泉)と親しい関係にある。そして、この巴人もまた、祇空と共に、俗化する当時の俳壇にあって、「師の句法に泥むべからず」との高邁な精神を植えつける俳人の一人であった。

 そして、これらが、後に、「芭蕉回帰・芭蕉復興」の「中興俳諧(革新運動)」(京都の「蕪村・太祇・召波・几董・嘯山」・「尾張の暁台」・「江戸(雪中庵三世)蓼太」・「加賀の麦水」・同じく「加賀出身・京都の二条家から俳諧中興花の本宗匠を許された「闌更」(闌更門に次代の「 梅室・蒼虬」等を輩出している)として結実し、それが、その日本俳壇の主流と化して行くこととなる。

 ここで、「五色墨」俳諧と親しい関係にある「夜半亭宋阿(早野巴人)」一門(宋阿・蕪村・雁宕・大済)と「五色墨」俳諧に距離を置いている「東風流」一門(春来・存義)とが巻いた六吟歌仙が、『東風流』(春来編)に収められていて、その六吟歌仙の一端を紹介して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-10

(歌仙)思ふこと(底本『東風流』:宝暦元年以前の作と推定)

思ふことありや月見る細工人          宋阿(早野巴人)
 声は満(みち)たり一寸の虫         春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て  大済(中村大済)
 朝日夕日に森の八棟(やつむね)       蕪村(与謝蕪村)
居眠(いねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん 雁宕(砂岡雁宕)
 出るかと待(まて)ば今米を炊(たく)    存義(馬場存義)

 (以下略)

 存義は、元禄十六年(一七〇三)の生まれ、蕪村は享保元年(一七一六)の生まれで、存義は、蕪村よりも十三歳年長である。しかし、この二人は、其角そして巴人に連なる俳人で、謂わば、存義は、蕪村の師の巴人の関係からすると、蕪村の兄弟子ということになろう。そして、寛保二年(一七四二)、巴人が没した時、二十七歳であった蕪村は、結城の砂岡雁宕のもとに身を寄せるが、その前後には、上記のとおり、江戸座の宗匠の一人となっている存義と歌仙(連句)を巻く間柄であったのである。

(画像)  → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html


「古人肖像・馬場存義」( | 山梨県歴史文学館- 山口素堂とともに -))

https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/ctgylist/?ctgy=2&scid=we_blg_pc_lastctgy_more

(「句意」周辺)

    存義先師七七回忌

5-16  ふることを鳴(なき)て千鳥の磯めぐり
5-17 雪おれの雀ありけり園の竹
5-18  ゆきの夜や雪車に引(ひか)せん三布団

 寛政四年(一七九二)に「米翁・晩得」師が亡くなって七回忌、そして、「存義」先師が亡くなって、七十七回忌とやら、この寛政十年(一七八八)には、念願の、「晩得」師追善の『哲阿弥句藻』を、「晩得」師の息「素兄」、そして、その生前に「序」を寄せられていた「月成(俳号)」(本名・平沢常富、戯作者名・朋誠堂喜三二、狂歌名・手柄岡持)と共同して版行することが出来た。

 それらのことを偲びつつ、ここに、「存義先師七七回忌」追善句を呈することとする。


5-16  ふることを鳴(なき)て千鳥の磯めぐり

(「句意)」

 季語は「千鳥」(三冬)、「淡海の海/夕波千鳥/汝が鳴けば/こころもしのに/いにしへ思ほゆ」(柿本人麻呂・『万葉集』巻三―二六六)、その名歌のとおり、「存義先師七七回忌」にあたり、「先師の『春来・米仲・存義』そして師の『米翁・晩得』両翁を偲びつつ、在りし日のことを、『千鳥の磯めぐり』のように回想しています。」

5-17 雪おれの雀ありけり園の竹

(「句意)」

 季語は「雪おれ」(晩冬)、「雪折れも聞こえてくらき夜なるかな(蕪村「題苑集」)、「雪の重みに耐えかねて折れてしまった園の群れ竹に、雀が群がっています。」(思えば、「存義・米翁・晩得」亡き後の、その雀子らは、その師風を偲んでいます。)

5-18  ゆきの夜や雪車に引(ひか)せん三布団

(「句意)」

季語は「雪車(そり)」 (晩冬)、「ぬつくりと雪舟(そり)に乗りたる憎さかな(荷兮『曠野』)」の「駕籠橇(かごそり)」の句と解したい。

(画像)  → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

滑り板の上に、畳表で囲った駕籠を付けた橇。(「精選版 日本国語大辞典」)

「三(ツ)布団」=三枚重ねの敷布団。江戸時代、最高位の遊女の用いたもの。江戸吉原では客が贈るものとされた。(「デジタル大辞泉」)

「句意」は、「雪(ゆき)の夜の、吉原に行(ゆき)は、「駕籠雪車(そり)」に「三(ツ)布団」を載せて、吉原一の花魁と、その「三(ツ)布団」との豪奢な一夜を過ごしたい。」

(画像)  → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

「夜具舗初(しきぞめ)之図」(『吉原青楼年中行事. 上,下之巻 / 十返舎一九 著 ; 喜多川歌麿 画』) (「早稲田大学図書館」蔵)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001_p0010.jpg



(再掲) 「4—36 のり初(そむ)る五ツ布団やたから船」周辺

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

「夜具舗初(しきぞめ)之図」周辺(参考)

https://love-style-jp.com/yoshiwara/yujo-seikatu.html

≪ 布団は当時、高価なものでした。上級遊女が寝具として使っていたのは、敷布団を3枚重ねる「三つ布団(みつぶとん)」でした。また、下級遊女は「二つ布団(ふたつぶとん)」でした。一般市民は敷布団が一枚だけの「一つ布団(ひとつぶとん)」でした。(中略)

 三つ布団が贈られると、まず布団が妓楼の店先に飾られました。これは「積み夜具(つみやぐ)」と呼ばれました。そしてその後、縁起の良い吉日を選んで遊女の部屋に運び込まれました。初めて三つ布団を敷くことを「敷き初め(しきぞめ)」と呼びました。≫

(追記)

馬場存義(ばば-ぞんぎ) 1703-1782 江戸時代中期の俳人。

元禄(げんろく)16年3月15日生まれ。2代前田青峨にまなぶ。享保(きょうほう)19年俳諧(はいかい)宗匠となり,存義側をひきいて江戸座の代表的点者として活躍した。与謝蕪村(よさ-ぶそん)とも交友があった。天明2年10月30日死去。80歳。江戸出身。別号に泰里(たいり),李井庵,有無庵,古来庵。編著に「遠つくば」「古来庵句集」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

前田青峨・春来(まえだ-せいが・しゅんらい)  1698-1759 江戸時代中期の俳人。

元禄(げんろく)11年生まれ。江戸の人。鴛田(おしだ)青峨の門人で2代青峨をつぐ。宝暦6年江戸俳諧(はいかい)の伝統の誇示と古風の復活をはかって「東風流(あずまぶり)」を編集,刊行した。宝暦9年4月16日死去。62歳。別号に春来,紫子庵。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

岡田米仲( おかだ-べいちゅう)  1707-1766 江戸時代中期の俳人。

宝永4年10月5日生まれ。前田青峨(せいが)の門弟。知己の俳人の自筆句に画像をかきいれた「たつのうら」や,江戸座俳人についてかいた「靱(うつぼ)随筆」を刊行した。明和3年6月15日死去。60歳。江戸出身。別号に青瓐,牝冲巣,月村所,権道,八楽庵。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

早野巴人(はやの-はじん)   1676-1742 江戸時代中期の俳人。

延宝4年生まれ。榎本其角(えのもと-きかく),服部嵐雪(らんせつ)にまなぶ。江戸日本橋にすみ夜半亭と称した。門人に与謝蕪村(よさ-ぶそん)ら。寛保(かんぽう)2年6月6日死去。67歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。名は忠義。通称は甚助。別号に宋阿,郢月泉(えいげつせん)など。編著に「一夜松」「桃桜」。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

与謝蕪村(よさ-ぶそん) 1716-1784* 江戸時代中期の俳人,画家。

享保(きょうほう)元年生まれ。20歳ごろ江戸にでて早野巴人(はじん)(夜半亭宋阿)に俳諧をまなぶ。師の死後は関東,奥州を遊歴し,宝暦元年京都にうつる。写実性,浪漫性,叙情性にとむ俳風で中興期俳壇の中心的存在となる。晩年は蕉風(しょうふう)復興を提唱。画家としては文人画を大成,代表作に池大雅との合作「十便十宜図」がある。天明3年12月25日死去。68歳。摂津東成郡(大阪府)出身。本姓は谷口。俳号は別に夜半亭,紫狐庵など。著作に俳体詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」,句日記「新花摘(しんはなつみ)」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

砂岡雁宕(いさおか-がんとう)  ?-1773 江戸時代中期の俳人。

内田沾山(せんざん)にまなぶ。のち早野巴人(はじん)の高弟となり,同門の与謝蕪村(よさ-ぶそん)と親交をむすんだ。江戸俳壇で活躍し,「蓼(たで)すり古義」「俳諧(はいかい)一字般若(はんにゃ)」をあらわして大島蓼太(りょうた)と論争した。安永2年7月30日死去。下総(しもうさ)結城(ゆうき)(茨城県)出身。通称は四良左衛門。別号に茅風庵(ちふうあん),伐木斎。姓は伊佐岡ともかく。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

中村大済(なかむら-たいさい) ?~?

 「中村風篁」の「分家筋」の人で、「砂岡雁宕」の妹を妻としいる(「筑西市HP」)。中「村風篁」=「?-1779 江戸時代中期の商人。代々常陸(ひたち)(茨城県)下館(しもだて)藩の城下で町年寄や本陣をつとめる商家に生まれる。醤油を醸造し江戸に販売店をもった。早野巴人の門人で俳句をよくし,与謝蕪村(よさ-ぶそん)としたしんだ。安永8年死去。名は左教,秋茂。俳号は風篁。」(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-10

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。

 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。

 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。

 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。

「月泉(げっせん)阿誰(あすい)ははじめ夜半亭の門人なりしが、宋阿いまそかりける時、阿誰・大済(たいさい)ふたりは余が社中たるべきことの約せしより、机下に遊ぶこと年あり、もとより、夜半亭とあが水魚のまじはりあつきがゆえなり。」(阿誰追善集『その人』の存義の「序文」、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信編)』よりの抜粋)

 上記は、夜半亭一世・早野巴人の遺句集『夜半亭保発句帖』を編んだ「阿誰・大済・雁宕」の、その編者の一人、阿誰・追善集『その人』に寄せた、当時の江戸座俳諧の代表的な宗匠・馬場存義その人の「序」文なのである。


(歌仙)柳ちり(底本『反古ぶすま』・寛延三年以前の作と推定)

 神無月はじめの頃ほひ、下野の国に執行して、
  遊行柳とかいへる古木の陰(陰 )に
 目前の景色を申出はべる
柳ちり清水かれ石ところどころ          蕪村
 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月         李井(存義)
茶坊主を貰ふて帰る追出シに           百万(旨原)

(以下 略)


(歌仙 思ふこと(底本『東風流』・宝暦元年以前の作と推定)

思ふことありや月見る細工人          宋阿(早野巴人)
 声は満(みち)たり一寸の虫         春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て  大済(中村大済)
 朝日夕日に森の八棟(やつむね)       蕪村(与謝蕪村)
居眠(いねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん 雁宕(砂岡雁宕)
 出るかと待(まて)ば今米を炊(たく)    存義(馬場存義)

 (以下略)

 存義は、元禄十六年(一七〇三)の生まれ、蕪村は享保元年(一七一六)の生まれで、存義は、蕪村よりも十三歳年長である。しかし、この二人は、其角そして巴人に連なる俳人で、謂わば、存義は、蕪村の師の巴人の関係からすると、蕪村の兄弟子ということになろう。

    存義先師七七回忌
5-16  ふることを鳴(なき)て千鳥の磯めぐり
5-17 雪おれの雀ありけり園の竹
5-18  ゆきの夜や雪車に引(ひか)せん三布団

 寛政二年(一七九二、抱一、三十歳)の「軽挙館句藻」の「梶の音」に、「筥崎舟守」(抱一)の号で、「予(抱一)、もとは有無庵(存義=「有有庵」は誤記)の門に遊び、今は紫隠(春来)の古きをしとふ」との「序」が記されている。

 天明二年(一七八二、抱一、二十二歳)に、その先師・馬場存義は亡くなるが、この当時は、「江戸座俳諧」の中枢(其角座→存義側)の「業俳」の頂点を位置していた「存義」門の一員であったということなのであろう。

 存義が亡くなって、抱一の俳諧の師は、抱一よりも三十七歳年長の「米翁」、そして、三十歳年長の「晩得」の二人が、両親、そして、兄(忠以=俳号・銀鵞)を亡くしている抱一の、公私ともに後見人のような存在で、その二人の「江戸座俳諧」(其角・沾徳座→浅草側)の座の中で、抱一の俳諧の世界は飛翔していくことになる。

 そして、この「米翁・晩得」は、「存義」よりも「存義」の師でもある「前田春来(紫隠)」の『東風流(あずまふり)』俳諧の世界のもので、それは、「西土の蕉門」(上方の蕉門、殊に、各務支考の「美濃派蕉門」(田舎蕉門)」を排斥して、「其(其角)・嵐(嵐雪)の根本の向上躰(精髄の発展形)」(「江戸蕉門=都市派蕉門=江戸座」俳諧)を強調するものであった。

 と同時に、その「春来(二世青蛾)・米仲・存義」らの『東風流(あずまふり)』俳諧は、当時、勃興しつつあった「五色墨」運動(「江戸座俳諧への反駁運動)に一石を投ずるものでもでもあった。

 この「五色墨」運動は、享保十六年(一七三一)の俳諧撰集『五色墨』(宗瑞=白兎園=風葉=中川氏=杉風門、蓮之=珪林=松木氏=杉風門、咫尺(しせき)=大場氏=嵐雪門、素丸=馬光=其日庵二世=葛飾風=長谷川氏=素堂門、長水=麦阿=柳居=佐久間氏=沾徳門・伊勢麦林(乙由)門)の「四吟歌仙(四人)+判者(一人)」の「四吟歌仙五巻」を興行したことを、そのスタートとして勃発した俳諧革新運動である。

 この五人の他に、「稲津祇宗」(石霜庵,敬雨,有無庵)も、その巻末に「敬雨」の号で参画し、この祇空は、蕪村の師の「早野巴人」(竹雨,宋阿,郢月泉)と親しい関係にある。そして、この巴人もまた、祇空と共に、俗化する当時の俳壇にあって、「師の句法に泥むべからず」との高邁な精神を植えつける俳人の一人であった。

 そして、これらが、後に、「芭蕉回帰・芭蕉復興」の「中興俳諧(革新運動)」(京都の「蕪村・太祇・召波・几董・嘯山」・「尾張の暁台」・「江戸(雪中庵三世)蓼太」・「加賀の麦水」・同じく「加賀出身・京都の二条家から俳諧中興花の本宗匠を許された「闌更」(闌更門に次代の「 梅室・蒼虬」等を輩出している)として結実し、それが、その日本俳壇の主流と化して行くこととなる。

 ここで、「五色墨」俳諧と親しい関係にある「夜半亭宋阿(早野巴人)」一門(宋阿・蕪村・雁宕・大済)と「五色墨」俳諧に距離を置いている「東風流」一門(春来・存義)とが巻いた六吟歌仙が、『東風流』(春来編)に収められていて、その六吟歌仙の一端を紹介して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-10

(歌仙)思ふこと(底本『東風流』:宝暦元年以前の作と推定)

思ふことありや月見る細工人          宋阿(早野巴人)
 声は満(みち)たり一寸の虫         春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て  大済(中村大済)
 朝日夕日に森の八棟(やつむね)       蕪村(与謝蕪村)
居眠(いねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん 雁宕(砂岡雁宕)
 出るかと待(まて)ば今米を炊(たく)    存義(馬場存義)

 (以下略)

 存義は、元禄十六年(一七〇三)の生まれ、蕪村は享保元年(一七一六)の生まれで、存義は、蕪村よりも十三歳年長である。しかし、この二人は、其角そして巴人に連なる俳人で、謂わば、存義は、蕪村の師の巴人の関係からすると、蕪村の兄弟子ということになろう。そして、寛保二年(一七四二)、巴人が没した時、二十七歳であった蕪村は、結城の砂岡雁宕のもとに身を寄せるが、その前後には、上記のとおり、江戸座の宗匠の一人となっている存義と歌仙(連句)を巻く間柄であったのである。

(画像)  → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

「古人肖像・馬場存義」( | 山梨県歴史文学館- 山口素堂とともに -))

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(「句意」周辺)

    存義先師七七回忌
5-16  ふることを鳴(なき)て千鳥の磯めぐり
5-17 雪おれの雀ありけり園の竹
5-18  ゆきの夜や雪車に引(ひか)せん三布団

 寛政四年(一七九二)に「米翁・晩得」師が亡くなって七回忌、そして、「存義」先師が亡くなって、七十七回忌とやら、この寛政十年(一七八八)には、念願の、「晩得」師追善の『哲阿弥句藻』を、「晩得」師の息「素兄」、そして、その生前に「序」を寄せられていた「月成(俳号)」(本名・平沢常富、戯作者名・朋誠堂喜三二、狂歌名・手柄岡持)と共同して版行することが出来た。

 それらのことを偲びつつ、ここに、「存義先師七七回忌」追善句を呈することとする。


5-16  ふることを鳴(なき)て千鳥の磯めぐり

(「句意)」

 季語は「千鳥」(三冬)、「淡海の海/夕波千鳥/汝が鳴けば/こころもしのに/いにしへ思ほゆ」(柿本人麻呂・『万葉集』巻三―二六六)、その名歌のとおり、「存義先師七七回忌」にあたり、「先師の『春来・米仲・存義』そして師の『米翁・晩得』両翁を偲びつつ、在りし日のことを、『千鳥の磯めぐり』のように回想しています。」

5-17 雪おれの雀ありけり園の竹

(「句意)」

 季語は「雪おれ」(晩冬)、「雪折れも聞こえてくらき夜なるかな(蕪村「題苑集」)、「雪の重みに耐えかねて折れてしまった園の群れ竹に、雀が群がっています。」(思えば、「存義・米翁・晩得」亡き後の、その雀子らは、その師風を偲んでいます。)

5-18  ゆきの夜や雪車に引(ひか)せん三布団

(「句意)」

季語は「雪車(そり)」 (晩冬)、「ぬつくりと雪舟(そり)に乗りたる憎さかな(荷兮『曠野』)」の「駕籠橇(かごそり)」の句と解したい。

(画像)  → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

滑り板の上に、畳表で囲った駕籠を付けた橇。(「精選版 日本国語大辞典」)

「三(ツ)布団」=三枚重ねの敷布団。江戸時代、最高位の遊女の用いたもの。江戸吉原では客が贈るものとされた。(「デジタル大辞泉」)

「句意」は、「雪(ゆき)の夜の、吉原に行(ゆき)は、「駕籠雪車(そり)」に「三(ツ)布団」を載せて、吉原一の花魁と、その「三(ツ)布団」との豪奢な一夜を過ごしたい。」

(画像)  → https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

「夜具舗初(しきぞめ)之図」(『吉原青楼年中行事. 上,下之巻 / 十返舎一九 著 ; 喜多川歌麿 画』) (「早稲田大学図書館」蔵)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001_p0010.jpg



(再掲) 「4—36 のり初(そむ)る五ツ布団やたから船」周辺

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

「夜具舗初(しきぞめ)之図」周辺(参考)

https://love-style-jp.com/yoshiwara/yujo-seikatu.html

≪ 布団は当時、高価なものでした。上級遊女が寝具として使っていたのは、敷布団を3枚重ねる「三つ布団(みつぶとん)」でした。また、下級遊女は「二つ布団(ふたつぶとん)」でした。一般市民は敷布団が一枚だけの「一つ布団(ひとつぶとん)」でした。(中略)

 三つ布団が贈られると、まず布団が妓楼の店先に飾られました。これは「積み夜具(つみやぐ)」と呼ばれました。そしてその後、縁起の良い吉日を選んで遊女の部屋に運び込まれました。初めて三つ布団を敷くことを「敷き初め(しきぞめ)」と呼びました。≫

(追記)

馬場存義(ばば-ぞんぎ) 1703-1782 江戸時代中期の俳人。

元禄(げんろく)16年3月15日生まれ。2代前田青峨にまなぶ。享保(きょうほう)19年俳諧(はいかい)宗匠となり,存義側をひきいて江戸座の代表的点者として活躍した。与謝蕪村(よさ-ぶそん)とも交友があった。天明2年10月30日死去。80歳。江戸出身。別号に泰里(たいり),李井庵,有無庵,古来庵。編著に「遠つくば」「古来庵句集」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

前田青峨・春来(まえだ-せいが・しゅんらい)  1698-1759 江戸時代中期の俳人。

元禄(げんろく)11年生まれ。江戸の人。鴛田(おしだ)青峨の門人で2代青峨をつぐ。宝暦6年江戸俳諧(はいかい)の伝統の誇示と古風の復活をはかって「東風流(あずまぶり)」を編集,刊行した。宝暦9年4月16日死去。62歳。別号に春来,紫子庵。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

岡田米仲( おかだ-べいちゅう)  1707-1766 江戸時代中期の俳人。

宝永4年10月5日生まれ。前田青峨(せいが)の門弟。知己の俳人の自筆句に画像をかきいれた「たつのうら」や,江戸座俳人についてかいた「靱(うつぼ)随筆」を刊行した。明和3年6月15日死去。60歳。江戸出身。別号に青瓐,牝冲巣,月村所,権道,八楽庵。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

早野巴人(はやの-はじん)   1676-1742 江戸時代中期の俳人。

延宝4年生まれ。榎本其角(えのもと-きかく),服部嵐雪(らんせつ)にまなぶ。江戸日本橋にすみ夜半亭と称した。門人に与謝蕪村(よさ-ぶそん)ら。寛保(かんぽう)2年6月6日死去。67歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。名は忠義。通称は甚助。別号に宋阿,郢月泉(えいげつせん)など。編著に「一夜松」「桃桜」。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

与謝蕪村(よさ-ぶそん) 1716-1784* 江戸時代中期の俳人,画家。

享保(きょうほう)元年生まれ。20歳ごろ江戸にでて早野巴人(はじん)(夜半亭宋阿)に俳諧をまなぶ。師の死後は関東,奥州を遊歴し,宝暦元年京都にうつる。写実性,浪漫性,叙情性にとむ俳風で中興期俳壇の中心的存在となる。晩年は蕉風(しょうふう)復興を提唱。画家としては文人画を大成,代表作に池大雅との合作「十便十宜図」がある。天明3年12月25日死去。68歳。摂津東成郡(大阪府)出身。本姓は谷口。俳号は別に夜半亭,紫狐庵など。著作に俳体詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」,句日記「新花摘(しんはなつみ)」など。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

砂岡雁宕(いさおか-がんとう)  ?-1773 江戸時代中期の俳人。

内田沾山(せんざん)にまなぶ。のち早野巴人(はじん)の高弟となり,同門の与謝蕪村(よさ-ぶそん)と親交をむすんだ。江戸俳壇で活躍し,「蓼(たで)すり古義」「俳諧(はいかい)一字般若(はんにゃ)」をあらわして大島蓼太(りょうた)と論争した。安永2年7月30日死去。下総(しもうさ)結城(ゆうき)(茨城県)出身。通称は四良左衛門。別号に茅風庵(ちふうあん),伐木斎。姓は伊佐岡ともかく。(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

中村大済(なかむら-たいさい) ?~?

 「中村風篁」の「分家筋」の人で、「砂岡雁宕」の妹を妻としいる(「筑西市HP」)。中「村風篁」=「?-1779 江戸時代中期の商人。代々常陸(ひたち)(茨城県)下館(しもだて)藩の城下で町年寄や本陣をつとめる商家に生まれる。醤油を醸造し江戸に販売店をもった。早野巴人の門人で俳句をよくし,与謝蕪村(よさ-ぶそん)としたしんだ。安永8年死去。名は左教,秋茂。俳号は風篁。」(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-10

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。

 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。

 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。

 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。

「月泉(げっせん)阿誰(あすい)ははじめ夜半亭の門人なりしが、宋阿いまそかりける時、阿誰・大済(たいさい)ふたりは余が社中たるべきことの約せしより、机下に遊ぶこと年あり、もとより、夜半亭とあが水魚のまじはりあつきがゆえなり。」(阿誰追善集『その人』の存義の「序文」、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信編)』よりの抜粋)

 上記は、夜半亭一世・早野巴人の遺句集『夜半亭保発句帖』を編んだ「阿誰・大済・雁宕」の、その編者の一人、阿誰・追善集『その人』に寄せた、当時の江戸座俳諧の代表的な宗匠・馬場存義その人の「序」文なのである。


(歌仙)柳ちり(底本『反古ぶすま』・寛延三年以前の作と推定)

 神無月はじめの頃ほひ、下野の国に執行して、
  遊行柳とかいへる古木の陰(陰 )に
目前の景色を申出はべる
柳ちり清水かれ石ところどころ          蕪村
 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月         李井(存義)
茶坊主を貰ふて帰る追出シに           百万(旨原)

(以下 略)


(歌仙 思ふこと(底本『東風流』・宝暦元年以前の作と推定)

思ふことありや月見る細工人          宋阿(早野巴人)
 声は満(みち)たり一寸の虫         春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て  大済(中村大済)
 朝日夕日に森の八棟(やつむね)       蕪村(与謝蕪村)
居眠(いねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん 雁宕(砂岡雁宕)
 出るかと待(まて)ば今米を炊(たく)    存義(馬場存義)

 (以下略)

 存義は、元禄十六年(一七〇三)の生まれ、蕪村は享保元年(一七一六)の生まれで、存義は、蕪村よりも十三歳年長である。しかし、この二人は、其角そして巴人に連なる俳人で、謂わば、存義は、蕪村の師の巴人の関係からすると、蕪村の兄弟子ということになろう。
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