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「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-63~4-66」 [第四 椎の木かげ]

4-63 (洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-634-66.html


「花洛名勝図会東山之部. 巻1-4 / 木村明啓 編 ; 松川安信,四方義休,楳川重寛 図画」所収「巻一・縄手通/大和橋」→「大和大路三条と四条との間にあり。是、白河の流、賀茂川に入る所なり。大和大路にかくるを以て大和橋といふ。石を以て造る橋なり」→ A図

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i13/i13_00528/index.html


(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-634-66.html


「都名所之内/四条橋より縄手通大和橋を望 (都名所之内)」(長谷川貞信初代画/綿屋喜兵衛版/中判横絵 紙面17・4×23・5センチ位) → B図

https://dl.ndl.go.jp/pid/1304796/1/1

(句意周辺「参考句」)

布団着て寝たる姿や東山   (嵐雪『枕屏風』)

(『俳家奇人談(竹内玄玄一)』の中で「譬喩(ひゆ)の句難し。この什温厚和平、じつに平安の景なるかな」との評がある嵐雪の代表句)

嵐雪にふとん着せたり雪の宿  (蕪村『蕪村句稿』) 天明二年(一七八二) 六十七歳
嵐雪にふとん着せたり夜半の雪 (蕪村『夜半叟句集』) 同上 

 東山の梺に住どころ卜したる一音法師に申遣ス
嵐雪とふとん引合ふ詫寝哉   (蕪村『蕪村句集』) 安永四年(一七七五) 六十歳

(句意周辺)

 この句の前に、「十一月十八日京着、木屋町にて」の前書がある。新暦では一月の、真冬の、まさに、「布団着て寝て見る山や東山」の光景であろう。「木屋町」は「高瀬川沿いの二条・五条間の地域」で、料理屋や旅籠、酒屋などが軒を連ねている(A図・B図)。イメージとしては、抱一一行は、「縄手通/大和橋」(B図)の旅籠で草鞋を脱いで、丁度、「四条橋より縄手通大和橋を望む」(A図)の、雪の東山を見ているような光景としてとらえたい。

(句意)

 嵐雪師匠の「布団着て寝たる姿や東山」を、蕪村先達の「嵐雪とふとん引合ふ詫寝哉」のような吾ら一行は、まさに、「嵐と雪」の後のような寒さの中で、「布団着て寝て見る山や東山」と、これに付け加える感慨の言葉はありません。



4-64 (洛・清水寺) 春待や柳も瀧も御手の糸

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松村呉春筆「三十六歌仙」下絵図巻子(部分抜粋図)/ 天明7年(1787)呉春35歳の作品/紙本彩色/松村景文先生家蔵

https://yushukoharu.com/1597/

北村季吟「地主からは木の間の花の都かな」

服部嵐雪「蒲団着て寝たる姿や東山」

(メモ)「清水寺」は俗称で、正しくは「音羽山北観音寺」。蕪村の後継者の一人で、蕪村没後、応挙門の一人として「円山四条派」の画人として名をとどめている呉春作。下絵図であるが、賛書きの二句は、「季吟と嵐雪」の句。季吟の句は、「清水寺唯一の句碑」で、この「地主」とは、本堂の北側の「地主神社」(縁結びの神社)で、そこに、「一本の木に八重一重の花が咲く珍しい桜」があり、その傍らに、この季吟の句碑があるという(『新撰/俳枕5/近畿Ⅱ』)。

(「季語」周辺)

花の都(はなのみやこ)/ 晩春

https://kigosai.sub.jp/001/archives/16574#:~:text=%E8%8A%B1%E3%81%AE%E9%83%BD%EF%BC%88%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%82%84%E3%81%93%EF%BC%89%20%E6%99%A9%E6%98%A5%20%E2%80%93%20%E5%AD%A3%E8%AA%9E%E3%81%A8%E6%AD%B3%E6%99%82%E8%A8%98

【子季語】花洛
【解説】都の栄華繁栄を褒め称える言葉で、都の華美なるをいう。東京はもちろんのこと、京都や奈良にもそうした風情がある。
【例句】
地主からは木の間の花の都かな 季吟「花千句」
傘さして駕舁く花の都かな   蓼太「発句類聚」


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歌川広重 京都名所之内 清水 横大判錦絵 天保5年(1834)頃 山口県立萩美術館・浦上記念館

https://www.hum.pref.yamaguchi.lg.jp/collection/2017/04/

≪「京都名所之内」は四季折々の京都名所の風景を描いた10枚揃いのシリーズです。このシリーズは『都名所図会(みやこめいしょずえ)』(版本、安永9年刊)や『都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)』(版本、寛政11年刊)をもとに描かれていることが指摘されており、この作品も『都林泉名勝図会』のなかに類似する挿絵が見出せます。 見ごろを迎えた桜に囲まれる音羽山清水寺と、料亭からそれを眺める客たちの様子が対角線をなすようにして描かれています。≫

句意(その周辺)

 この句の「滝」は「音羽の滝」として、「清水寺」の名所の一つとなっている。この「柳」は、その寺伝の、「行叡は延鎮に『我、観音の威神力を念じ、千手真言を唱えながら汝を長く待っていた。ここは観音の霊場であり、またこの柳は七仏出世の昔より繁茂する楊柳である。汝、この木で千手観音を刻み、堂舎を建立せよ。汝にこの庵を与え、我これより東国を済度せん』」(下記アドレス)と紹介されている「柳」(楊柳)を指しているのであろう。

https://blog.goshuin.net/1825_01_133/

句意

 「清水寺に参りて」(前書)、その「春を待っ」ている「音羽の滝」、そして、その寺の沿革に記されている「柳(楊柳))」等々、これらはすべて、「音羽山北観音寺」の、その「観世音菩薩」の「御手の糸(しるし)」なのだということを実感した。



4-65 (洛・戸奈瀬) 山の名はあらしに六の花見哉


(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-634-66.html

歌川広重/「六十余州名勝図会」/「嵐山 渡月橋」

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/Hiroshige-60yosyu/02.html

≪『 六十余州名所図会 』は、浮世絵師 一立齋廣重( 歌川広重 一世)(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日))が日本全国の名所を描いた浮世絵木版画の連作です。/1853年(嘉永6年)から1856年(安政3年)にかけての広重晩年の作で、五畿七道の68か国及び江戸からそれぞれ1枚ずつの名所絵69作に、目録1枚を加えた全70枚からなります。/目録には「大日本六十余州名勝図会」と記されています。/ここでの原画は国立国会図書館によります。≫

句意(その周辺)

鵜飼舟下す戸無瀬の水馴(みなれ)棹さしも程なく明るよは哉(藤原良経「秋篠月清集」)
となせ河玉ちる瀬々の月をみて心ぞ秋にうつりはてぬる(藤原定家「続千載集」)
あらし山花よりおくに月は入りて戸無瀬の水に春のみのこれり(橘千蔭「うけらが花」)
築山の戸奈瀬にをつる柳哉 (抱一「屠龍之技・第一こがねのこま」)

 戸奈瀬の雪を
山の名はあらしに六の花見哉(抱一「屠龍之技・第四椎の木かげ」)

 「藤原(九条)良経」は、抱一の出家に際し、その猶子となった「九条家二代当主」、そして、「藤原定家」は、その「藤原(九条)良経」に仕えた「九条家・家司」で、「藤原俊成」の「御子左家」を不動にした「日本の代表的な歌道の宗匠」の一人である(「ウィキペディア)。

 続く、「橘(加藤)千蔭」は、抱一の「酒井家」と深いかかわりのある「国学者・歌人・書家」で、抱一は、千蔭が亡くなった文化五年(一八〇八)に、次の前書を付して追悼句(五句)を、その「屠龍之技・第七かみきぬた」に遺している。

 橘千蔭身まかりける。断琴の友なりければ
から錦やまとにも見ぬ鳥の跡
吾畫(かけ)る菊に讃なしかた月見
山茶花や根岸尋(たづね)る革文筥(ふばこ)
しぐるゝ鷲の羽影や冬の海
きぬぎぬのふくら雀や袖頭巾

 この「花洛の細道」のハイライトの一句ということになる。「花洛」(「花の都」=晩春の「季語」)に対応しての、「六(むつ)の花」(「雪」の異名=晩冬の「季語」)の句ということになる。

句意

 待望久しい「山の名」も「あらし」の「嵐山」を訪れ、その「大堰川(大井川)・渡月橋・戸奈瀬の滝」は、今や「六つの花」(雪)に覆われ、これぞ、「花洛(花の都)」の「華見(「六つの花」見)」かと、その風情を満喫している。

(参考)  橘千蔭(たちばなのちかげ)/享保二十~文化五(1735-1808)/号:芳宜園(はぎぞの)・朮園(うけらぞの)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tikage.html

江戸八丁堀の生まれ。父は幕府与力にして歌人であった加藤枝直。橘は本姓。俗称常太郎・要人(かなめ)、のち又左衛門。少年期より賀茂真淵に入門し国学を学ぶ。父の後を継いで江戸町奉行の与力となり、三十歳にして吟味役を勤める。天明八年(1788)五十四歳で致仕し、以後は学芸に専念した。寛政十二年(1800)、『万葉集略解』を十年がかりで完成。書簡で本居宣長に疑問点を問い質し、その意見を多く取り入れた、万葉全首の注釈書である。文化九年(1812)に全巻刊行が成った同書は万葉入門書として広く読まれ、万葉享受史・研究史上に重きをなす(例えば良寛は同書によって万葉集に親しんだらしい)。

歌人としては真淵門のいわゆる「江戸派」に属し、流麗な古今調を基盤としつつ、万葉風の大らかさを尊び、かつ新古今風の洗練・優婉も志向する歌風である。同派では村田春海と並び称され、多くの門弟を抱えた。享和二年(1802)、自撰家集『うけらが花』を刊行。橘八衢(やちまた)の名で狂歌も作る。書家としても一家をなしたが、特に仮名書にすぐれ、手本帖などを数多く出版した。絵も能くし、浮世絵師東洲斎写楽の正体を千蔭とする説もある程である。文化五年九月二日、死去。七十四歳。墓は東京都墨田区両国の回向院にある。



4-66 (洛・朱雀野) 島原のさらばさらばや霜の声

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-634-66.html

『歌川広重・京都名所之内』嶋原出口之柳 = 天保五年・1834年頃 =(国立国会図書館所蔵)

https://www.benricho.org/Unchiku/Ukiyoe_NIshikie/kyotomeisyonouchi.html#group1-7


(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-634-66.html


http://sakuwa.com/si20ima.html

「さらば垣」=京都、島原遊郭の総門の前にある垣。遊女が客を送って来て別れをいう所なのでいう。※俳諧・七柏集(1781)芙蓉園興行「朝朝のともすれば憂さらば垣〈蓼太〉 袖擕錦衾香〈芙蓉〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

「さらば」=別れの挨拶(あいさつ)に用いる語。さようなら。(「精選版 日本国語大辞典」)

「さらばさらば」=中世後期では「さらばさらば」と重ねた言い方が多く見え、さらに近世中期には「さらばの鳥」のような名詞的用法が生じ、打ち解けた間柄で用いる町人言葉「おさらば」もあらわれた。近世後期になると「さようならば」から生じた「さようなら」が一般化したが、近代以降は文語的な表現として「さらば」が用いられている。(「精選版 日本国語大辞典」)

「霜の声」=霜のおりた時のしんしんとした感じ。冬の季語。 田舎之句合「金蔵(かねぐら)のおのれとうなる也霜の声」(其角) 《広辞苑・第六版》/あるはずもない音、声が聞こえたように思えることがあります。 霜は空気中の水蒸気が凍りつき、細かな氷の粒となったもの。 氷点下まで冷やされた水蒸気が地表や地表に近い草の葉に触れて結晶化した 氷が霜の正体です。

http://koyomi8.com/doc/mlko/201212090.html

「粟食の焦て匂ふや霜の声〈晉子〉 是嘘妄也。〈略〉其短尺を何かたよりか得て、附会して伝書の証に、偽言ものにして正しからぬ事なり」〔南史‐何遠伝〕→「虚妄」=「事実でないこと。うそ。いつわり。きょぼう。」(「精選版 日本国語大辞典」)

「芭蕉の霜の句」

葛の葉のおもてなりけり今朝の霜  芭蕉「雑談集」
ありがたやいたゞいて踏はしの霜  芭蕉「芭蕉句選」
霜枯に咲くは辛気の花野哉     芭蕉「続山の井」
霜を着て風を敷寝の捨子哉     芭蕉「六百番俳諧発句合」
霜をふんでちんば引まで送りけり  芭蕉「茶のさうし」
火を焚て今宵は屋根の霜消さん   芭蕉「はせを翁略伝」
薬呑むさらでも霜の枕かな     芭蕉「如行集」
さればこそあれたきまゝの霜の宿  芭蕉「笈日記」
かりて寝む案山子の袖や夜半の霜  芭蕉「其木がらし」
夜すがらや竹こほらするけさのしも 芭蕉「真蹟画賛」

句意(その周辺)

 旧暦の「(十一月十八日京着、木屋町にて) 布団着て寝て見る山や東山」から、「(十二月二日都を立て吾妻におもむく、鈴鹿の山中) 晴た雪又ふる鷲羽風かな」と、この句は、抱一一行の「京都滞在」の最後の日の一句で、十一月末日から十二月初日の頃の句ということになろう。

句意

 この「洛の旅路(花洛の細道)」の目的地・「京の都」の最終日、「島原」の「さらば垣」に「さらば」(「おさらば」)する時がきた。その「大門・見返り柳・さらば垣」を振り返り見ると、しんしんと霜の降りたような「霜の声」が聴こえてくる。

蛇足

 この下五の「霜の声」に何かしら仕掛けがほどこされている雰囲気である。この後に、「(佐谷<屋>川)水鳥は流るゝ春や橋の霜」と「(三保の松原・明神)いつ迄も夢は覚めるな霜の舟」とが続く。この仕掛けを詠み解くのには、上記の「芭蕉の霜の句」(殊に、芭蕉の愛弟子・杜国の流刑後の隠棲地を訪れた「さればこそあれたきまゝの霜の宿」)と「其角の霜の句」の「金蔵(かねぐら)のおのれとうなる也霜の声」(「田舎之句合」)などが参考になるのかも知れない。


(抱一の「花洛の細道(その六)」周辺)

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな

「≪「軽挙館句藻」

 霜月四日、其爪・古檪・紫霓・雁々・晩器などうち連て花洛の旅におもむく ≫」

(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

(箱根・湯本) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

(箱根・関所) 冬枯や朴の広葉を関手形

(薩埵峠・由比宿) 夜山越す駕(かごかき)の勢(せ)や月と不二

(薩埵峠・興津宿) 降霰(ふるあられ)玉まく葛(クズ)の枯葉かな

(宇津ノ谷峠)    あとからも旅僧は来(きた)り十団子

(汐見坂)      あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

「≪「軽挙館句藻」

(三河国八橋)        紫のゆかりもにくし蕪大根

(尾州千代倉:翁の笈を見て)  此軒を鳥も教へつ霜の原

(石山寺・幻住庵:其爪の剃頭) 椎の霜個ゝの庵主の三代目  ≫ 」

  十一月十八日京着、木屋町にて

(洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

(洛・清水寺) 春待や柳も瀧も御手の糸

(洛・戸奈瀬) 山の名はあらしに六の花見哉

(洛・朱雀野) 島原のさらばさらばや霜の声

「≪「軽挙館句藻」

  十二月二日都を立て吾妻におもむく

(鈴鹿の山中) 晴た雪又ふる鷲羽風かな

(池鯉鮒の宿) 鳴雁ももらさし宿の大根汁   ≫ 」

(佐谷川)   水鳥は流るゝ春や橋の霜 

(江尻)    置炬燵浪の関もり寝て語れ

(三保の松原・明神) いつ迄も夢は覚めるな霜の舟

  十二月十四日江都にかへりて

(江戸)    鯛の名もとし白河の旅寝哉

(同)     ゆくとしを鶴の歩みや佐谷廻り

(メモ) 京都滞在は、「十一月十八日京着(木屋町にて)」から「十二月二日都を立て吾妻におもむく」まで、僅かに十二日前後の滞在で、その間に、「西本願寺への得度答礼の挨拶」(「痔疾」を理由に抱一・本人は赴かず=『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、その他「猶子となった九条家」やら「京都所司代などの関係者」などの挨拶、そして、何よりも、「京都御住居被成候」の、その京都移住などをご破算にすることなどについて、「等覚院殿御一代記」には、次のように記されている。

一 同年十二月御不快ニ付江戸表エ御下向被成/御門跡エ御願ニテ/十二月三日京地御発駕/十七日御帰府/築地安楽寺エ御住居 (『相見香雨全集一』所収「抱一上人年譜稿」)
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「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-61~4-62」 [第四 椎の木かげ]

4-61 あとからも旅僧は来(きた)り十団子

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

歌川広重 行書版『東海道五十三次之内 岡部 宇津の山之図』(「ウィキペディア」)

≪するがなる/うつのやまべの/うつゝにも/夢にも人に/あはぬなりけり──『伊勢物語』九段「東下り」)

(歌意= 駿河国にある宇津の山あたりに来てみると、その「うつ」という名のように、「うつつ〈現実〉」でも夢の中でも貴女に逢わないことだなあ。(それは貴女が私のことを思って下さらないからなのでしょう。)  ≫

季語=「あとからも旅僧は来(きた)り十団子」、これは、「うつの谷峠」の前書を加味しても、季語なしの「雑」の句ということになる。しかし、前句の「降霰玉まく葛の枯葉かな」や、この「霜月・師走の洛の旅路」からすると、「冬」の句として、例えば、下記のアドレスで紹介されている、「十団子も小粒になりぬ秋の風/許六(『韻塞』」)に唱和しての、「十団子と秋の風」から「十団子と冬の風(木枯らし)」への「変転」しての一句として鑑賞することも、この句の狙いなのかも知れない。

http://www.basho.jp/senjin/s1506-1/index.html

十団子も小粒になりぬ秋の風  許六(『韻塞』)

≪「宇津の山を過」と前書きがある。

句意は「宇津谷峠の名物の十団子も小粒になったなあ。秋の風が一層しみじみと感じられることだ」

 季節の移ろいゆく淋しさを小さくなった十団子で表現している。十団子は駿河の国(静岡県)宇津谷峠の名物の団子で、十個ずつが紐や竹串に通されている。魔除けに使われるものは、元々かなり小さい。

 作者の森川許六は彦根藩の武士で芭蕉晩年の弟子。この句は許六が芭蕉に初めて会った時持参した句のうちの一句である。芭蕉はこれを見て「就中うつの山の句、大きニ出来たり(俳諧問答)」「此句しほり有(去来抄)」などと絶賛したという。ほめ上手の芭蕉のことであるから見込みありそうな人物を前に、多少大げさにほめた可能性も考えられる。俳諧について一家言あり、武芸や絵画など幅広い才能を持つ許六ではあるが、正直言って句についてはそんなにいいものがないように私は思う。ただ「十団子」の句は情感が素直に伝わってきて好きな句だ。芭蕉にも教えたという絵では、滋賀県彦根市の「龍潭寺」に許六作と伝えられる襖絵が残るがこれは一見の価値がある。(文)安居正浩 ≫

句意(その周辺)=蕉門随一の「画・俳二道」を究めた、近江国彦根藩士「森川許六」に、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と、この「宇津谷峠の魔除けの名物の十団子」の句が喧伝されているが、「秋の風」ならず、「冬の風(木枯らし)」の中で、その蕉門の「洛の細道」を辿る、一介の「旅僧・等覚院文詮暉真」が、「小さくなって、鬼退治させられた、その化身の魔除けの『宇津谷峠の名物の十団子』を、退治するように、たいらげています。」

(蛇足)= 抱一は、後年、「宇津の山図』(「勢物語東下り」)関連の作例を、下記のアドレスのものなど多く遺している。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

酒井抱一筆『宇津の山図』/絹本著色/軸装・1幅/110.0 cm × 41.0 cm/19世紀(江戸時代後期)作の大和絵/山種美術館蔵

≪『伊勢物語』第9段「東下り」で、東国(鄙)へ向かう主人公(※在原業平と目される人物)の一行が駿河国に差し掛かり、蔦の細道を通って宇津山の峠を越えようとしていたところ、平安京へ向かう旧知の修行者にばったり出逢い、主人公が京に残してきた恋しい女への和歌を託す場面(山中で主人公が歌を詠んでいる場面)を描いている。抱一ら琳派の作品には『伊勢物語』を題材としたものが多い。≫(「ウィキペディア」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

左上(今回の其一筆「東下り図(双幅)」) 右上(前回の抱一筆「不二山図(三幅対)」と

『光琳百図』所収「東下り」) 左下(前回の抱一の「伊勢物語東下り・牡丹菊図(三幅対)」)

右下(前回の抱一の「宇津山図・桜町中納言・東下り(三幅対)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-06

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-01

 この歌枕の「宇津山」でも、九条良経の、次の一首がある。(「ウィキペディア」)

「うつの山/うつつかなしき/道絶えて/夢に都の/人は忘れず ──九条良経自撰の私家集『秋篠月清集』(元久元年〈1204年〉、鎌倉時代初期に成立)」

これは、「水無瀬恋十五首歌合 ―羇中の恋―」での、「後鳥羽院(左)と九条良経(右)」との「歌合」が、その初出のようである。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utaawase/minase15_7.html

三十三番
   左 勝           親定(後鳥羽院)
君ももしながめやすらん旅衣朝たつ月をそらにまがへて
【通釈】あなたももしや(旅先で)眺めているだろうか。旅衣を着て出発する朝、有明の月が、空の色にまぎれるほどうっすらと現れているのを…。
【本歌】源氏物語「花宴」
世に知らぬ心地こそすれ有明の月のゆくへを空にまがへて

   右            左大臣(九条良経)
うつの山うつつかなしき道たえて夢に都の人はわすれず
【通釈】宇津の山を越える峠道――道は細くなり、やがて繁みのうちに途絶えてしまう。現実はそのように悲しく、都で待つ人との間は断絶してしまっているけれども、夢ではあの人を忘れずに見るのだ。
【本歌】「伊勢物語」第九段
駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

 九条良経(九条家二代当主)は、抱一にとって、その出家に際して「九条家の猶子」となって、西本願寺の「得度」を得ている以上、今回の「出家答礼の上洛」は、当然に、「九条家」への答礼も含まれていることであろう。

 そして、この「九条良経」を前書にしての一句(4-51 月の鹿ともしの弓や遁(れ)来て)については、下記のアドレスで紹介した。そこで、抱一が、良経の歌と、芭蕉との句に準拠しているような、次の「例歌・例句」を紹介した。そこに、「うつ(宇津・鬱・鬱っ)」の項を追加して置きたい。

https://yahantei.blogspot.com/

「鹿」

たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(良経「新古444」)
ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」

「月」

ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ(良経「新古422」)
武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」

「たへぬ」

のちも憂ししのぶにたへぬ身とならばそのけぶりをも雲にかすめよ(良経「秋篠月清集」)
俤や姨ひとりなく月の友        芭蕉「更科紀行」

「うつ(宇津・鬱・鬱っ)」

駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり(良経「秋篠月清集」)
憂き人の旅にも習へ木曽の蝿  芭蕉「韻塞」
旅人の心にも似よ椎の花    芭蕉「続猿蓑(許六が木曽路に赴く時)」
十團子も小つぶになりぬ秋の風 許六「続猿蓑」
大名の寐間にもねたる夜寒哉  許六「続猿蓑」


4-62 あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

季語=「あとになる潮のおとや松のかぜ」(「屠龍之技」の句形)では、「雑」の句。「あとになる潮のおとや松寒し」(「軽挙館句藻」の句形)では、「寒し」(三冬)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2753

【子季語】寒さ、寒気、寒威、寒冷、寒九

【解説】体感で寒く感じること、と同時に感覚的に寒く感じることもいう。心理的に身がすくむような場合にも用いる。

【例句】

ごを焼て手拭あぶる寒さ哉   芭蕉「笈日記」
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき 芭蕉「真蹟自画賛」
袖の色よごれて寒しこいねずみ 芭蕉「蕉翁句集」
人々をしぐれよ宿は寒くとも  芭蕉「蕉翁全伝」
塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店   芭蕉「薦獅子集」

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編]/ 早稲田大学図書館 (Waseda University Library)/巻之3(p63/84)/「遠湖・堀江村・舘山寺」(A図)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0205/bunko30_e0205_0003/bunko30_e0205_0003_p0063.jpg

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

東海道名所図会/巻之3(p63/84)/部分拡大図/「観音堂・大穴・舘山寺山寺・のぞき松」

(B図)

https://superchurchill.ie-yasu.com/kanzanji/meishozue.html

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

「のぞき松」(C図)/ (B図)の右端(部分拡大図)

≪その「のぞき松」ですが、なんともふしぎな描かれ方をされています。下の湖面にむかって枝が下がっていて、水に浸かっている感じ? 巨松が折れたのか、こういう生え方の松なのかは分かりません。この枝の間から向こうの風景が覗けたのでしょうか。どちらにせよ、現在ではその跡すら残っていませんが、『東海道 名所図会』から40年後(天保5年・1834)に書かれた『遠淡海地志』には「覗の松は海へ這ふこと十余丈、下枝水中にては兎も波を走ること■るありさま、四季折々の風景、こゝに止まりぬ」と書かれています。≫


(参考)「東海道名所図会」(「ウィキペディア」)

 『東海道名所図会』(とうかいどうめいしょずえ)は江戸時代後期に刊行された名所図会。寛政9年(1797年)に6巻6冊が刊行された。

 京都三条大橋から江戸日本橋までの東海道沿いの名所旧跡や宿場の様子、特産物などに加えて歴史や伝説などを描いたもので、一部には東海道を離れて三河国の鳳来寺や遠江国の秋葉権現社なども含まれる。

 著者は秋里籬島。序文は中山愛親が書き[3]、円山応挙、土佐光貞、竹原春泉斎、北尾政美、栗杖亭鬼卵など約30人の絵師が200点を越える挿絵を担当。1910年(明治43年)には吉川弘文館から復刻されている。

句意(その周辺)=この句には、「汐見の観世音に参り」との前書がある。「東海道五十三次」の「白須賀宿」の「汐見坂図」(歌川広重画)」などの、その近郊の、『東海道名所図会』では、「遠州にて風景第一の勝地なり」と記されている「舘山寺(かんざんじ)」(A図)付近などでの一句であろう。その「観世音」というのは、上記の「観音堂」(B図)に祀られて「観世音」と思われるが、その「観世音」のことではなく、「松のかぜ」(「屠龍之技」)、そして、「松寒し」(「軽挙館句藻)と、これは、どうやら、『遠淡海地志』のは「覗の松は海へ這ふこと十余丈」の「のぞき松」(C図)の一句のようである。

句意(「屠龍之技」の句形)=汐見坂・舘山寺の「のぞきの松」は、「海へ這ふこと十余丈」(『遠淡海地志』)と、まことに、奇抜・奇形な松の雄姿で、その松風の音と後から追いかけるような潮の音とが、絶妙な調べを奏でている。

句意(「軽挙館句藻」の句形)=汐見坂・舘山寺の「のぞきの松」は、まことに、海を覗き見するような、奇抜・奇形な松の雄姿で、そこに、寒々とした松風の音と、それを追いかけるような潮の音とが、一層、寂寥感を感じさせる。

蛇足=この上五の「あとになる」というのが、前句の「あとからも」と並列させると、何かしら仕掛けがあるような雰囲気である。そして、この二句からは、「出家して、いよいよ、東国から西国への一歩」という感慨と、これまでの「江戸の生活と別離することに、後ろ髪が引かれる」ような、抱一の「寂寥感」のような感慨とが伝わってくる。

(宇津ノ谷峠)    あとからも旅僧は来(きた)り十団子
(汐見坂)      あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)


(抱一の「花洛の細道(その五)」周辺)

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」
(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな
(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音
(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 
(箱根・湯本) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢
(箱根・関所) 冬枯や朴の広葉を関手形
(薩埵峠・由比宿) 夜山越す駕(かごかき)の勢(せ)や月と不二
(薩埵峠・興津宿) 降霰(ふるあられ)玉まく葛(クズ)の枯葉かな
(宇津ノ谷峠)    あとからも旅僧は来(きた)り十団子
(汐見坂)      あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)

「≪「軽挙館句藻」
(三河国八橋)        紫のゆかりもにくし蕪大根
(尾州千代倉:翁の笈を見て)  此軒を鳥も教へつ霜の原
(石山寺・幻住庵:其爪の剃髪) 椎の霜個ゝの庵主の三代目  ≫

(洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山

「屠龍之技」では、「(汐見坂)あとになる潮のおとや松のかぜ(松寒し)」の後、「軽挙館句藻」には記述されている、「(三河国八橋)・(尾州千代倉)・(石山寺)」の句などは飛ばして、最終地点・京都の「(洛・木屋町) 布団着て寝て見る山や東山」となっている。

 しかし、この句の前の、「(石山寺・幻住庵:其爪の剃髪) 椎の霜個ゝの庵主の三代目」の句は、今回の、この「花洛(鹹く)の細道」では、欠かせない一句であろう。  

 この句には、「みなみな翁の旧跡おたづぬるに、キ爪が幻住庵の清水にかしら剃(そり)こぼちけるをうらやみて」(『軽挙館句藻』所収「椎の木蔭」)との前書がある(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)。

 「幻住庵」とは、元禄三年(一六九〇)に、芭蕉が一時閑居した旧跡で、ここで、抱一の同行者の一人の「キ爪・其爪(きづめ・きそう)」が剃髪して、「三代目庵主」(初代=芭蕉?、二代=曲水?)と成ったという、抱一の句なのであるが、『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』では、「後醍醐天皇(抱一)の忠臣・万里小路藤房(其爪)」と見立てているほどの、この「花洛(鹹く)の細道」の「抱一側近」ということになろう。

 ということは、抱一が、この「花洛(鹹く)の細道」の京都で、「西本願寺」の「等覚院文詮暉真」の出家生活に入るなら、「キ爪・其爪(きづめ・きそう)」は、芭蕉が四か月滞在したといわれている「幻住庵」の「三代目庵主」になって、「等覚院文詮暉真」(抱一)をサポートしたいということが、この句の背景にあるのかも知れない。

 ここで、この「花洛(鹹く)の細道」の同行している「俳諧連衆(仲間)」の、「其爪(きづめ・きそう)・雁々(がんがん・がんどう)・晩器(ばんき)・古檪(これき)・紫霓(しげい)」については、大雑把には、次の「(参考一) 『江戸続八百韻(百韻八巻)』と『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆」ということになろう。そして、それらは、「柳澤米翁と酒井抱一」(参考二)との「俳諧連衆(仲間)」ということになろう。

(参考一)『江戸続八百韻(百韻八巻)』(「墨陽庭柏子・屠龍・抱一」序、「跋」=柳澤米翁の息子=保光=月邨所)並びに『あめひと日(歌仙五巻)』(「晋子堂大虎」編)の連衆

※大虎(千秋館)=寛政十一年に還暦・狂言作者・初代並木五瓶の後援者。『江戸続八百韻(百韻八巻)』の連衆。『あめひと日(歌仙五巻)』(「晋子堂大虎」編)の編者。

※素兄(清談林)=佐藤晩得(秋田藩江戸留守居役)の息子。『江戸続八百韻(百韻八巻)』と『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆。

※雁々(繍虎堂)=酒井家の家臣荒木某。『江戸続八百韻(百韻八巻)』と『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆。

※其爪(きづめ・きそう)=江戸時代の俗曲の一種河東節の名門三世十寸見(ますみ)蘭州と同11年1月12日(1828年2月26日))は、2代目蘭洲の門弟の2代目山彦蘭爾が後に2代目蘭州の養子となり、1792年に3代目襲名。後に俳諧で千束其爪を名乗る。寛政4年(1792)の『月花帖』(柳澤米翁の俳号「月村」を佐藤晩得に渡号記念集)には、蘭尓(2代目山彦蘭爾?)の号で入集している。『あめひと日(歌仙五巻)』の連衆。

(参考二) 「柳沢米翁」と「酒井抱一」周辺

「柳沢信鴻」(柳沢米翁」)(「ウィキペディア」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E4%BF%A1%E9%B4%BB

「酒井抱一」(「ウィキペディア」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E6%8A%B1%E4%B8%80

「米翁と抱一」

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「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-58~4-60」 [第四 椎の木かげ]

4-58 冬枯や朴の広葉を関手形

季語=「冬枯れ」=冬枯(ふゆがれ)/三冬 

https://kigosai.sub.jp/?s=%E5%86%AC%E6%9E%AF&x=0&y=0

【子季語】枯る/冬枯道
【解説】冬の草木が枯れ果てた荒涼とした景を言う。草や樹、一木一草の枯れのこともいうが、野山一面枯れ色となった景のことでもある。
【例句】
冬枯や平等院の庭の面     鬼貫「大悟物狂」
冬枯の木の間のぞかん売屋敷  去来「いつを昔」
冬枯や雀のあるく樋の中    太祇「太祇句選」

(参考)「関所通手形(せきしょとおりてがた)」=江戸時代、関所を通過する際に所持し提示した身元証明書。武士はその領主から、町人・百姓は名主・五人組・町年寄などの連名で手形発行権をもつ者に願い出て、下付をうけた。関所では手形の印と判鑑とを引き合わせて、相違ないことを確かめた上で通過させた。関所切手。関手形。関所札。関札。関所手形。手形。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-584-60.html

(「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=この句には、「御関所」との前書が付してある。この「御関所」は、江戸防衛の関門として重視された、東海道の小田原と三島両宿間の箱根峠におかれた「箱根関所」ということになる。この抱一らの「花洛の細道」(「洛・西本願寺」への「得度(出家)答礼」の旅)」の「通行手形」(「往来手形」)は、姫路藩酒井家(十五万国)第三代藩主(抱一の甥)下の、それ相応の重役が作成したものということになろう。

 句意は、「『箱根の山は、天下の嶮(けん)/函谷關(かんこくかん)もものならずの『箱根御関所』の検問を受けている。その検問の際の『通行手形』は、その関所の庭を舞う『冬枯れの朴(ホウ)の広葉』が示して呉れたようで、何のお咎めもなく、フリーパスで通関しましよ」。


4-59 夜山越す駕の勢や月と不二

季語=月(三秋)=冬の月(「前句」の「冬枯」を受けての「冬の月」)/三冬

https://kigosai.sub.jp/?s=%E5%86%AC%E3%81%AE%E6%9C%88&x=0&y=0

【子季語】月冴ゆ、月氷る
【解説】四季を通しての月ではあるが、冬の月といえば寒さによる心理的な要因もあってか荒涼とした寂寥感が伴う。雲が吹き払らわれた空のすさまじいまでの月の光には誰しもが心をゆすられる思いがあろう。
【例句】
静かなるかしの木はらや冬の月  蕪村「蕪村句集」
比木戸や鎖のさゝれて冬の月   其角「五元集」
背高き法師にあひぬ冬の月    梅室「梅室家集」

(参考)「薩埵峠にて」(前書)の「薩埵峠(さったとうげ)」=、静岡県静岡市清水区にある峠である。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置する。(中略) 「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/ 真白にぞ /富士の高嶺に/ 雪は降りける -山部赤人(巻3-318)」は、その「ゆ」は現代語の「から」に相当する助詞だが、「田子の浦を過ぎた」と解釈することも可能で、東海道五十三次の蒲原、由比、興津の辺りで富士山を見る高台、薩埵峠辺りと訳す事ができ、ここで詠まれたのではないかとも言われる。この「薩埵峠にて」(前書)の「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/ 真白にぞ/富士の高嶺に/雪は降りけるー山部赤人(巻三・三一八)」が、この句の「月と不二(富士)」というのが、抱一の「仕掛け」なのかも知れない。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-584-60.html

歌川広重「東海道五十三次・由井」(「ウィキペディア」)

句意(その周辺)=この句の詠みは、「夜山(よやま) 越(こ)す/駕(かご)の勢(イキオイ)や/月と不二」(『相見香雨集一』所収)「抱一上人年譜考」)の、中七が「字余り」に詠むのかも知れない。

↓ 

  薩埵峠に日暮て

 夜山越す駕の勢ひや月と不二

 この「中七」の「駕(かご)の勢(イキオ)ひや」の、「字余り」の詠みは、「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/真白にぞ /富士高嶺に/雪は降りける (山部赤人)」、そして、「新古今和歌集(巻六・冬・六七五)」と「百人一首(四)」の、「田子の浦に/うち出(い)でてみれば/白妙(しろたえ)の/ 富士の高嶺(たかね)に/雪は降りつつ(山部赤人)」(「藤原定家」撰)の、冒頭の『字余り』の「田子の浦ゆ」・「田子の浦に」に因っている雰囲気なのである。 

 そして、その下五の「月と不二」とは、「万葉集」の、この「反歌」の「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/真白にぞ/富士の高嶺に/雪は降りける―山部赤人(巻三・三一八)」の、その「長歌」の、次の、「月と不二(布士・不尽・富士)」と解すべきなのであろう。

https://tanka-textbook.com/tagonourayu/

「天地(あめつち)の/分(わか)れし時ゆ
神(かむ)さびて/高く貴(とうと)き 
駿河(するが)なる/布士(ふじ)の高嶺(たかね)を
天(あま)の原/振(ふ)り放(さ)け見れば
渡る日の/影(かげ)も隠(かく)らひ 
照る月の/光も見えず 
白雲(しらくも)も/い行きはばかり 
時じくそ/雪は降りける 
語り継(つ)ぎ/言ひ継ぎ行かむ/不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は」「万葉集(巻三・三一七)」

 ここで、これらの「万葉集(巻三・三一八)」そして「新古今和歌集(巻六・冬・六七五)」と「百人一首(四)」との由来などを踏まえつつ、この抱一の句を、次のように詠みたい。

 「夜山越(こ)す・駕(かごかき)の勢(せ)や/月と不二」

 この句の句意は、「東海道五十三次の『由比宿と興津宿』とを結ぶ、難所中の難所の、『薩埵峠』を、月下の『夜』の『山越え』となった。『駕籠舁(かき)』の威勢のよい掛け声が山中にこだまして、万葉の歌人・山部赤人が詠んだ、『長歌』の『月下の雪富士』や、『反歌』の『田子の浦の雪富士』などが、髣髴として蘇ってくる。」


4-60 降霰玉まく葛の枯葉かな

季語=霰(あられ)/三冬

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2777

【子季語】初霰、夕霰、玉霰、雪あられ、氷あられ、急霰 
【解説】雪の結晶に雲の水滴が付着してできるもの。白く小粒の玉となって降ってくる。気温の冷え込む朝夕に多く見られる。地を跳ね、軒をうち、さっと降り、直にやむ。さっぱりと、いさぎよい。雪霰と氷霰があるが、いずれも粒々は、丸く美しい。「玉霰」などと、めでられる由縁である。
【例句】
石山の石にたばしるあられ哉  芭蕉「麻生」
いざ子どもはしりありかむ玉霰  芭蕉「智周発句集」
あられせば網代の氷魚を煮て出さん 芭蕉「花摘」

(参考)

葛の葉のおもてなりけり今朝の霜  芭蕉「雑談集」

http://www.basho.jp/senjin/s0611-1/index.html

≪秋風になびいて、白い葉裏を見せて揺れていた葛の葉であるが、今朝は冬の訪れを告げる初霜に白く染まって表を見せているよ、という意。従来「今朝の霜」にはほとんど注釈がないが、「今朝の秋」に倣った初冬を示す語感を見届け、冬の到来をきりりと告げる句と解したい。その意味では全く叙景の句とする許六の見解に賛同し、句意に芭蕉と嵐雪の不仲をほのめかす野坡の見解に与しない(『許野消息』)。秋の七草のひとつである葛の葉が白い葉裏を見せることは『万葉集』の昔から歌に詠まれる古い歴史を持ち、やがて「秋風の吹きうらかへす葛の葉のうらみてもなおうらめしきかな」(平貞文・古今・恋五)のように、「裏」「心(うら)」「恨み」の枕詞として用いられた。それは中世末から近世にかけて人気をとった浄瑠璃『しのだづま』によって徹底された。すなわち、信太の森(大阪府和泉市)に住む白狐が安倍保名との間にできた子と別れる際に、泣くなく詠んだと伝える「恋しくば尋ねきてみよいづみなるしのだの森のうらみ葛の葉」という子別れ伝説である。だが、こうした伝承から解放されて、実景に基づく句である点にこそ芭蕉の新しさがあるようだ。ちなみに、「葛の花」の美しさを発見するのは近世俳諧で、言語遊戲に終始する伝統和歌で、その花が詠まれることはなかった。≫

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-584-60.html

「信太妻(しのだづま)/葛の葉子別れの段」(葛の葉神社蔵)

http://www.eonet.ne.jp/~hanaizm/kuzunohamonogatari.html

≪葛の葉物語(くずのはものがたり)

「葛の葉物語」は、「信太妻」ともよばれ、文学・歌舞伎・浄瑠璃・文楽・説教節・瞽女唄(ごぜうた)など、あらゆる文学・芸能ジャンルでとりあげられてきました。江戸時代、竹田出雲による「芦屋道満大内鑑」(あしやどうまんおおうちかがみ)は歌舞伎で大ヒットし、特に「葛の葉子別れの段」は有名で、今日まで多くの人々に愛好されてきました。物語は、平安時代の天文博士安倍晴明の出生と活躍がえがかれています。信太の森で生まれ、信太の森が育てた作品です。≫

句意(その周辺)=この句にも、「薩埵峠にて」(前書)が掛かる。すなわち、前句の「夜山越す駕の勢や月と不二」に続いての、「薩埵峠」の、その「夜山越え」の二句目の句ということになる。そして、前句の「月と不二」が、「田子の浦ゆ/うち出でてみれば/真白にぞ/富士の高嶺に/雪は降りける―山部赤人(万葉集・巻三・三一八)」を「本歌取り」の句と解すると、こちらの「霰と葛の枯葉」は、浄瑠璃「信太妻(しのだづま)/葛の葉子別れの段」で知られている、「秋風の/吹きうらかへす/葛の葉の/うらみてもなお/うらめしきかな」(平貞文・古今和歌集・巻十五・八二三)を踏まえての一句と解したい。すなわち、抱一の、この「薩埵峠」の、表面の「字面」だけでは、何の変哲もないような叙景句が、この「葛の葉子別れの歌」を介在させると、抱一の、この「出家答礼」の「花洛の細道(旅路)」は、当時の、抱一の内面を浮き彫りにするような、「鹹(から)くの細道(旅路)」の一端を吐露しているようにも解せられる。

句意は、「この『薩埵峠』の夜越えは、霰の夜と化し、その『霰の夜の峠路に玉舞う・葛の枯れ葉』は、あたかも、浄瑠璃『信太妻(しのだづま)』の『うらみてもなほ/うらめしきかな』と、この『夜越え路』での、『吾の分身』のように舞っている。」


(抱一の「花洛の細道(その四)」周辺)

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな
(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音
(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 
(箱根・湯本) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢
(箱根・関所) 冬枯や朴の広葉を関手形
(薩埵峠・由比宿) 夜山越す駕(かごかき)の勢(せ)や月と不二
(薩埵峠・興津宿) 降霰(ふるあられ)玉まく葛(クズ)の枯葉かな

「御一代記』(「等覚院御一代記」)には、抱一の、出家後に関しての、次のような記述がある。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)

一 同月十七日(寛政九年十月十八日の「得度式」の前日)御得度被為済/京都御住居被成候ニ付/御合力・千石/五十人扶持・御蔵前ニテ/被進候事ニ被仰出

(文意=抱一の出家後は、酒井家より、「千石・五十人扶持=付人(つきびと)三人の合計扶持)で、抱一の俸禄は「知行地」でなく「蔵米で一千石」待遇となる。その前段の「京都御住居被成候ニ付」は、出家後は、京都の西本願寺の末寺に住する」ということであろう。)

 この「付人(つきびと)」三人に関して、「御一代記」に、次のとおり記述されている。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)

 此君大手にいませし頃は左右に伺候する諸士もあまたありしか御隠栖の後は僅に三人のみ召仕われける    

 (中略)

同月十九日等覚院様ニテ左の如く被仰付

御家老相勤候被仰付拾六人扶持被下置  福岡新三郎 (給人格)

御用人相勤候被仰付拾五人扶持被下置  村井又助 (御中小姓)

拾五人扶持被下置           鈴木春卓 (御伽席)

かくの如く夫々被仰付京都御住居なれば御合力も姫路より京都回りにて右三人の御宛行も御合力の内より給はる事なりされは三人の面々御家の御分限に除れて他の御家来の如くなりし其内にも鈴木春卓は御貯ひの事に預りて医師にては御用弁もあしければ還俗被仰付名も藤兵衛と改しなり後々は新三郎も死亡し又助も退散して藤兵衛のみ昵近申せし也

(文意・注=「此君大手にいませし」(抱一が「酒井家」の上屋敷に居た頃)、「給人」(給人を名乗る格式の藩士は一般に「上の下」とされる家柄の者)、「中小姓」(小姓組と徒士(かち)衆の中間の身分の者、近侍役)、「御伽席」(特殊な経験、知識の所有者などで、主人の側近役)、この「鈴木春卓(藤兵衛)」は、「医師にては御用弁あ(り)し」(「医事」の知識・経験を有している意か?)、そして、この「鈴木家」が、「(鈴木春卓)→鈴木蠣潭(1782-1817)→鈴木其一(1795-1858)」と、画人「酒井抱一」をサポートすることになる。)

(参考)

鈴木蠣潭(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

1782-1817 江戸時代後期の武士,画家。
天明2年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩士。藩主酒井忠以(ただざね)の弟酒井抱一(ほういつ)の付き人となる。抱一に画をまなび,人物草花を得意とした。文化14年6月25日死去。36歳。名は規民。通称は藤兵衛,藤之進。

http://blog.livedoor.jp/sesson_freak/archives/52003031.html

鈴木蠣潭は、抱一の最初の弟子。文化三年に抱一が蠣潭の元服の祝いを、文化六年より中小姓として抱一に仕えたという。それは、抱一の付き人を務めていた播磨姫路藩士養父春卓の跡目を継ぎというからには、幼少のころから抱一のそばで画才を見出され期待をされてのことと思われる。

 名は規民、通称は藤兵衛、藤之進、酒井家の家臣の著わした随筆の「等覚院殿御一代」に「藤之進若年より御側に在て画をよくす画名を蠣潭と云ふ」とあり、家中においても名が通るほどの腕前だったことがわかる。

 蠣潭は抱一の画業を補助していたが、文化十四年七月に二十六歳で狂犬病にて急死したため、急遽同門の其一が蠣潭の姉・りよと結婚し鈴木家に入ることとなる。りよは子持ちで其一より少なくとも五歳以上年が上であるといい、いかに蠣潭の死が大きいことであったかが想像される。


鈴木其一(1796―1858)(日本大百科全書(ニッポニカ))

 江戸後期の画家。名は元長、字(あざな)は子淵(しえん)。噌々(かいかい)、菁々(せいせい)、庭柏子(ていはくし)、祝琳斎(しゅくりんさい)などを号す。近江(おうみ)(滋賀県)出身の染屋の子として江戸に生まれる。幼少のころから酒井抱一(ほういつ)の内弟子として仕え、のち同門の鈴木蠣潭(れいたん)が没するとその跡目を継いで鈴木姓を名のる。画業は抱一に師事し、初め師風を忠実に習ってしばしばその代作を勤めたとされる。1828年(文政11)に抱一が没したのちは、しだいに師風を離れ、画面から叙情的な要素を払拭(ふっしょく)して大胆かつ斬新(ざんしん)な装飾画風に傾斜。花鳥画をもっとも得意とするが、対象の形態を明晰(めいせき)に追究する独特な造形感覚をもって琳(りん)派の流れに特異な存在を示す。代表作に「夏秋渓流図屏風(びょうぶ)」(東京、根津美術館)、「薄椿(すすきつばき)図屏風」(ワシントン、フリアー美術館)などがある。[村重 寧]
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「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」」)4-56~4-57」 [第四 椎の木かげ]

4-56 三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

季語=鴫 =鴫(しぎ)/三秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2562

【子季語】田鴫、青鴫、磯鴫

【解説】日本に渡ってくる鴫は非常に多い。大体、七月から十二月にかけて渡ってくる。なかには越冬するものもある。主に田地、沼地の泥湿地に多く、体上面は茶色と黒の交錯、体下面は白い。鳴きながら直線状に飛ぶ。

【例句】

刈りあとや早稲かたかたの鴫の声 芭蕉「笈日記」
泥亀の鴫に這ひよる夕かな   其角「五元集」
よる浪や立つとしもなき鴫一つ 太祗「太祗句選後篇」
鴫遠く鍬すすぐ水のうねりかな 蕪村「新五子稿」
鴫突きのしや面になぐる嵐かな 一茶「七番日記」

(参考)

「大淀三千風(おおよど・みちかぜ)」=没年:宝永4.1.8(1707.2.10) 生年:寛永6(1639)
江戸前期の俳人。伊勢国(三重県)射和の商家の生まれで本姓は三井氏, 大淀氏を称す。行脚俳人として著名であり,行脚の行程は松尾芭蕉も遠くおよばない。30歳を過ぎてから俳人として立ち,松島見物に出掛けてそのまま仙台に住みつき,15年ほどをここで過ごし多くの門人を育てた。
芭蕉の『おくのほそ道』に登場する画工加右衛門もそのひとりである。天和3(1683)年に仙台の住居を捨てて行脚生活に入り,以後7年間にわたり諸国を巡ったが,その足跡は四国,九州にもおよんでいる。
この間多くの句文を書き残したが,癖のある独特の書体と,衒学的な臭味の強い,特殊な漢語を多用した難解な表現にその特徴がある。これらの文章を簡略にして集大成したものが『日本行脚文集』である。その後西行の遺跡を慕って大磯に鴫立庵を結び,西行の顕彰に努めた。<参考文献>岡本勝『大淀三千風研究』(田中善信) (「朝日日本歴史人物事典」)

 この「衒学的な臭味の強い,特殊な漢語を多用した難解な表現にその特徴がある」は、「三千風は特定の師につかなかったが、『所専、俳諧は狂言なり、寓言也。実書不用にして、戯が中の虚也』」(『日本行脚文集』)という言葉から、談林派の俳人と見なされる」(「ウィキペディア」)とが連動している。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-564-57.html


『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道九 五十三次 大磯 鴫立沢 西行庵」

歌川広重 - ボストン美術館蔵 (「ウィキペディア」)

≪鴫立庵(しぎたつあん)は神奈川県大磯町にある俳諧道場。京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。名称は西行の歌「こころなき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮」(『新古今和歌集』)による。≫(「ウィキペディア」)


句意(その周辺)=抱一の『洛の細道』がスタートする。「(序句) 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」「(旅立) 草の戸や小田の氷のわるゝ音」に続く、三句目の句である。

抱一の『花洛の細道』」その二

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」
(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな
(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音
(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

句意は、芭蕉翁と同時代の、鴫立庵第一世庵主・大淀三千風の、その「鴫立庵」に立ち寄った。「いさや霞諸國一衣(いちゑ)の賣僧坊(まいすぼん)」(『日本行脚文集』)と、「売僧坊」(堕落坊主)と名乗って、全国を「俳諧行脚」した「大淀三千風」大先達は、その名の「三千風」の名に相応しく、この「大磯・鴫立沢」の「鴫」に、ぞっこん惚れ込んで、ここに居着いてしまったわい。


(抱一の「花洛の細道(その一・二)」周辺)

 抱一の「出家」関連については、「ウィキペディア」は、下記のとおり記述されている。

≪ 寛政2年(1790年)に兄が亡くなり、寛政9年(1797年)10月18日、37歳で西本願寺の法主文如に随って出家し、法名「等覚院文詮暉真」の名と、大名の子息としての格式に応じ権大僧都の僧位を賜る。抱一が出家したか理由は不明だが、同年西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる。また、兄が死に、更に甥の忠道が弟の忠実を養子に迎えるといった家中の世代交代が進み、抱一の居場所が狭くなった事や、寛政の改革で狂歌や浮世絵は大打撃を受けて、抱一も転向を余儀なくされたのも理由と考えられる。ただ、僧になったことで武家としての身分から完全に解放され、市中に暮らす隠士として好きな芸術や文芸に専念できるようになった。出家の翌年、『老子』巻十または巻二十二、特に巻二十二の「是を以て聖人、一を抱えて天下の式と為る」の一節から取った「抱一」の号を、以後終生名乗ることになる。≫(「ウィキペディア」)

 ここで紹介されている「西本願寺門跡へ礼を言うため上洛した際、俳諧仲間を引き連れた上に本来の目的であった門跡には会わずに帰ったことから、抱一の自発的な発心ではなかったと考えられる」の、この「抱一の『洛の細道』」の、抱一の随行者(「俳諧仲間)」)は、

「其爪(きづめ・きそう?)・雁々(がんがん・がんどう?)・晩器(ばんき)・古檪(これき)・紫霓(しげい)」の五人である(『酒井抱一:井田太郎著・岩波新書』)。

そして、この「其爪(きそう・きづめ?)」は、「河東節の名門『三世・十寸見(ますみ)蘭州』」その人で、後に、俳諧で「千束其爪」を名乗った人物と思われる。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AF%B8%E8%A6%8B%E8%98%AD%E6%B4%B2

 続く、「雁々(がんがん・がんどう?)」は、『江戸続八百韻(屠竜(抱一) 編〕』の連衆の一人の「雁々(繍虎堂)=酒井家の家臣荒木某」(『酒井抱一:井田太郎著・岩波新書』)、その人であろう(なお、「雁々(がんどう?)」の詠みは、若き日の「蕪村」を支援した「結城」の俳人「砂岡雁宕(がんとう)」の「雁宕(がんとう)」に因る。)

 それに続く「晩器(ばんき)」については、「享和から文化の頃にかけて、喜多川歌麿風の美人画や読本の挿絵などを描いている浮世絵師・恋川春政(晩器・花月斎・春政と号す)」、その人のように思われる。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%94%BF

 それらに続く、「古檪(これき)・紫霓(しげい)」については不明であるが、とにもかくにも、この抱一の「出家」に関連して、抱一の、無二の「知己・同音・同胞」であったのであろう。



4-57 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

季語=火鉢=火鉢(ひばち)/三冬

https://kigosai.sub.jp/001/archives/4531

【子季語】瀬戸火鉢、鉄火鉢、箱火鉢、長火鉢

【解説】暖房器具のひとつ。その中に炭を熾し、手足を焙って暖をとる。木製、金属製、陶製などがある。部屋全体や全身を温めることはむずかしいが、五徳を立てて鉄瓶などをかけたり、燗をつけたりと暮らしになじみ深いものだった。今では他の暖房器具にとってかわられ、ほとんど見かけなくなったが、真っ赤に熾った炭火の色は懐かしい。

【例句】

舟君の泣くかほみゆる火鉢かな  蓼太「蓼太句集三編」
うき時は灰かきちらす火鉢かな  青蘿「青蘿発句集」
ぼんのくぼ夕日にむけて火鉢かな 一茶「享和句帖」
明ほのゝ番所にさむき火鉢かな  露川「小弓俳諧集」
独居やしがみ火鉢も夜半の伽   秋色女「いつを昔」
客去つて撫る火鉢やひとり言   嘯山「葎亭句集」

句意(その周辺)=この句の前に、「箱根湯泉本福住九蔵がもとにとまりて」との前書がある。この前書の「福住九蔵」は、「初代歌川広重(寛政九年(一七九七) - 安政五年(一八五八))」と親交があった、「十代目福住九蔵(正兄)(文政七年(一八二四) - 明治二十五年(一八九二年))」でなく、「九代目福住九蔵」と思われる。福住家は代々箱根湯本で旅館業(現在の「「萬翠樓福住」)を営み、また湯本村の名主も務める名家であった。創業は、寛永二年(一六二五)、当時の「箱根かごかき唄」に、「晩の泊まりは箱根か三島ただし湯本の福住か」とうたわれるほど、「箱根七湯」の中でも、よく知られた旅館であったのであろう。

 その面影は、下記の「七湯方角略図」(初代歌川広重画)の中央に「湯本・福住」、そして、右下の「福住九蔵板」(「十代福住九蔵」板)で、十分に察せられるであろう。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-564-57.html


「七湯方角略図(ななゆほうがくりゃくず)/版画 / 江戸 / 神奈川県/初代歌川広重/安政時代初期/1855-1857/紙,木版多色刷/1枚/箱根町立郷土資料館/浮世絵

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/399681

≪(解説)画面中央に湯本温泉を配し、箱根の山々や箱根七湯などが記された、いわば箱根の案内図です。「福住九蔵板」とあるように、湯本温泉の福住旅館が版元となり、初代広重に制作を依頼したもので、自らの旅館を宣伝する目的から、同温泉の中心に「福住」と記されています。同旅館の当主福住九蔵(後の正兄)は、二宮尊徳の高弟としても知られ、国学や和歌にも通じた人物で、箱根に滞在した広重とも親交がありました。≫(「文化遺産オンライン」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-564-57.html


「七湯方角略図」(部分拡大図)
 句意は、「『箱根かごかき唄』」に、『晩の泊まりは箱根か三島ただし湯本の福住か』とうたわれている、『箱根七湯』の中でも知られている『福住』で、『先ず、旅のつかれを癒し」ている。この『福住』では、『外湯』でなく『内湯』で、まさに、『冬の出湯の湧く火鉢(温泉)』を存分に味わっている。』


(抱一の「花洛の細道(その三)」周辺)

 「軽挙館句藻」に、「霜月四日/其爪(きそう?)・古檪(これき)・紫霓(しげい)・雁々(がんどう?)・晩器(ばんき)/などうち連て花洛の旅におもむく」(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)と記されている。

 この「軽挙館句藻」の記述からすると、「此度入道したがために一応は本山へも御挨拶しておく位の程度で、実は俳友どもを打つれて観光旅行に出かけてたに過ぎないであろう」(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)という記述もまた、うなづけるが、やはり、この「花洛の細道」の冒頭の「前書」と「序句」は重い。

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」
(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな
(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音
(大磯)  三千風に見付けられけり澤の鴫(しぎ) 

(箱根湯本・福住) 先(まづ)むすべ冬の出湯泉(いでゆ)のわく火鉢

 この、(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」と、「(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」とは、「軽挙館句藻」では、次のように記述されている((『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」))。

≪ 世の中をうしといひてもいつこにか/身をはかくさん山なしの花 人麿

 遁入る山ありて実の天窓かな

とかいて、二三枚後に更に改めて

 寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃おとし

 遯るべき山ありの実の天窓かな

 いとふとて・ひとなとがめそ/うつせみの/世にいとわれし・この身なりせば

とある。≫

 ここに記述されている、「世の中をうしといひてもいつこにか/身をはかくさん山なしの花 人麿」の一首は、下記アドレスの『源氏物語(第四十七帖 総角)』注釈263)で、本歌取りの一首で記述されている『古今六帖六』(『古今六帖4268』)のもので、抱一は「人麿」と記述しているが、「人麿」作であるかどうかは定かではない。

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined47.2.html

 ここで、この「軽挙館句藻」で、人麿作としている、この一首と、「屠龍之技」(「第四 椎の木かげ」)で、「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」という前書がある「4-51 月の鹿ともしの弓や遁(れ)来て」の、その前書の「良経公」とは、「九条良経(藤原良経)」は、「『新古今和歌集』の撰修に関係してその仮名序を書いた」、「九条家二代当主。後京極殿と号した。通称は後京極摂政(ごきょうごく せっしょう)、中御門摂政」その人である。

 そして、抱一は、その出家に際して、「西本願寺」と密接な関係にある「九条家」の「猶子」となって、その上で、「西本願寺門主・文如」に「得度」して貰うという、一連の、「出家」に際しての儀式を踏まえているのである。

 このことは、抱一にとって、「西本願寺」と「摂関家・九条家」と関係というのは、その生涯に亘って重いものがあり、その「出家」に関連しての「答礼」を兼ねての、「洛への旅道」(「花洛の細道」)が、「実は俳友どもを打つれて観光旅行に出かけてたに過ぎないであろう」という指摘は、必ずしも、その十全を語っているとは思われない。

 それ以上に、抱一にとって、この「摂関家・九条家」、殊に、「九条良経(藤原良経)」への思い入れというのは、やはり、これまた、重いものがあったような思いを深くする。

   世の中をうしといひてもいつこにか/身をはかくさん山なしの花 人麿(?)

(初案)     遁入る山ありて実の天窓かな

(「屠龍之技」) 遯るべき山ありの実の天窓かな(「椎の木かげ」54)

のちも憂ししのぶにたへぬ身とならば/そのけぶりをも雲にかすめよ(良経「月清集」)

(「屠龍之技」) 月の鹿ともしの弓や遁(れ)来て(「椎の木かげ」51) 
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「第四 椎の木かげ(「花洛の細道」)4-54~4-55」 [第四 椎の木かげ]

4-54 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな 

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-22

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-544-55.html

抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

4-54 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな 

季語=「ありの実」=「有りの実」=「梨」の子季語(三秋)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2580

「梨」(三秋)
【子季語】梨子、長十郎、二十世紀、洋梨、有りの実、梨売、梨園
【解説】秋の代表的な果物の一つ。赤梨の長十郎、青梨の二十世紀など品種も多い。水分に富み甘みが強く、食味がさっぱりとしている。

(参考)【有りの実】=「梨 (なし) 」が「無 (な) し」と音が通じるところから、「梨の実」の忌み詞。《季 秋》(「デジタル大辞泉 」)

「山梨」(晩秋)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/11681

【子季語】棠梨/小梨/犬梨
【解説】山梨はバラ科ナシ属の落葉高木。果樹として栽培されている梨は、この山梨を品種改良したもの。四月から五月にかけて白い花を咲かせ、秋に直径 七センチほどの実をつける。果肉は固く、生食には適さない。

(参考) 「頭・天窓(読み)あたま」=③ 頭部に付随している状態の髪。頭髪。また、髪の結いぶり。※浮世草子・好色一代女(1686)四「下を覗(のぞけ)ば天窓(アタマ)剃下たる奴(やっこ)が」(「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=この句の前に、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」との前書きがある。「寛政九年丁巳(一七九七)」、抱一、三十七歳の時で、『酒井抱一(井田太郎著・岩波新書)』所収の「酒井抱一略年譜」には、次のとおり記述されている。

≪ 秋、『天の川』に入集・挿絵提供(溟々居屠龍、庭柏子)、九月、酒井忠実、酒井忠道の養子となる。十月、築地本願寺に出家、西本願寺門主文如から偏諱を受け、等覚院文詮暉真と名乗る。十~十二月、上洛、年末、千束村に転居。≫

句意(その周辺)=この句は、抱一の趣向に趣向を凝らした「聞句」(謎句・からくり句・仕掛け句)の一句である。

「聞句(ききく)」(謎句・からくり句・仕掛け句)=謎のような句で、意味が容易に解けない俳句。句の言いまわしの技巧や切れるところによって解釈の変わるような俳句をいう。聞発句(ききほっく)。※俳諧・去来抄(1702‐04)同門評「むかし、聞句といふ物あり。それは句の切様、或はてにはのあやを以て聞ゆる句也」(「精選版 日本国語大辞典」)

遯(のが)るべき山(寺)
        山ありの実の
        山なし(梨)の実(身)の
                 頭(あたま)
                 天窓(あたま)かな

 『去来抄(同門評)』の「聞句」の「切様、てにはのあや」の大雑把な「字面上の分解」をすると、上記のようになるが、ここに、前書の、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃(すり)こぼちて」とを加味すると、句意らしきものが浮かびあがってくる。

句意=寛政九年(一七九七)、十月十八日夜、西本願寺(京都市下京区)門主「文如上人」を戒師として、江戸の築地本願寺(中央区日築地)で、抱一は、酒井家の身分を捨て「出家」した。その「得度式」(仏門に入り僧侶になるための儀式=「髪」を落とし、「衣・袈裟」を受け取り、戒法を受ける)関連しての一句である。句意は、私には、『遯(のが)るべき(身を託す)山(西本願寺)』がありますが、その『得度式』で、剃髪していただき、『山ありの実(頭にあった髪)』は、『山なしの実(剃られて髪なし頭)』となり、その『山なしの実(剃られて髪なし頭)』は、よく見ると、『頭(あたま)に、黒の点のような髪根が疎らに残っている天窓(あたま)』になっているのが、『可笑しい』ような、『物悲しい』ような、どうにも、今までに味わったことがないような思いが混み上がってきます。

この句については、嘗て、下記のアドレスで、以下のように紹介した。

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-22

(再掲)

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-544-55.html

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0017_m.html

 この寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳時の「年譜」には、次のとおり記載されている。

【 九月九日、出家にあたり幕府に「病身に付」願い出。十月十六日、姫路藩より、千石五十人扶持を給することに決定する。抱一の付き人は、鈴木春草(藤兵衛)、福岡新三郎、村井又助。(御一代)

十月十八日、出家。西本願寺十六世文如上人の江戸下向に会して弟子となり、築地本願寺にて剃髪得度。法名「等覚院文詮暉真」。九条家の猶子となり準連枝、権大僧都に遇せられる。(御一代)酒井雅樂頭家の家臣から西本願寺築地別院に届けられる。(本願寺文書・関東下向記録類)

十一月三日より十二月十四日まで、挨拶のため上洛。< 抱一最後の上方行き >(御一代) 十一月十七日京都へ到着。俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴した。(句藻)

十二月三日、「不快に付」門跡に願い出て、京都を発つ。この間一度も西本願寺に参殿することはなかった。(御一代)

十二月十七日、江戸へ戻る。築地安楽寺に住むことになっていたか。(御一代・句藻)

年末、番場を退き払い、千束に転居。(句藻) 】

 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな 

 この句は、抱一の出家の時の句ということになる。抱一の俳諧日誌『軽挙観句藻』には、この時の抱一の和歌も記載されている。

 いとふとてひとなとがめそ
     うつせみの世にいとわれし
            この身なりせば

 この「いとふ」は「厭ふ」で、「世を厭ふ」の「出家する」の意であろう。「ひとなとがめそ」は、「人な咎めそ」で、「な…そ」は「してくれるな」の意で、「私のことを咎めないで欲しい」という意になろう。「うつせみの世」は、「空蝉の世(儚い世)と現世(浮き世)」とを掛けての用例であろう。次の「いとわれし」は、ここでは、「出家する」という意よりも、「厭われる・敬遠される」の意が前面に出て来よう。

 この全体の歌意は、「出家することを、どうか、あれこれと咎めだてしないで欲しい。思えば、この夢幻のような現世(前半生)では、いろいろと、敬遠されることが多かったことよ」というようなことであろう。

 この出家の際の歌意をもってすれば、前書きのある、次の抱一の出家の際の句の意は明瞭となって来る。 

   遯るべき山ありの実の天窓哉

 この句の表(オモテ)の意は、「出家する僧門の天窓(てんそう・てんまど)には、その僧門の果実がたわわに実っています」というようなことであろう。

 そして裏(ウラ)の意は、「僧門に出家するに際して、天窓(あたま)を、丸坊主にし、『ありの実』ならず『無し(梨)の実』のような風姿であるが、これも『実(み)=身』と心得て、その身を宿世に委ねて参りたい」ということになる。

 抱一の、この出家に際しては、松平定信の寛政の改革、とりわけ、抱一の兄事していた亀田鵬斎らが弾劾される「異学の禁」に対する意見書などを幕府あて提出したなど、さまざまな流言がなされているが、その流言の確たるものは、不明のままというのが、その真相であろう。

 ただ一つ、掲出の、抱一の俳句と和歌とに照らして、抱一の出家は、抱一自身が自ら望んで僧籍に身を投じたことではないことは、これは間違いないことであろう。


4-55 草の戸や小田の氷のわるゝ音

季語=氷=氷(こおり、こほり)/晩冬

https://kigosai.sub.jp/?s=%E6%B0%B7&x=0&y=0

【子季語】厚氷、綿氷、氷の声、氷の花、氷点下、氷塊、結氷、氷結ぶ、氷面鏡、氷張る、氷閉づ、氷上、氷雪、氷田、氷壁、氷の楔、蝉氷
【解説】気温が下がり水が固体状になったもの。蝉の羽根のように薄いものを蝉氷、表面に物影が映り鏡のように見えるものを氷面鏡という。
【例句】
一露もこぼさぬ菊の氷かな     芭蕉「続猿蓑」
氷苦く偃鼠(えんそ)が喉をうるほせり 芭蕉「虚栗」
瓶破(わ)るゝよるの氷の寝覚め哉  芭蕉「真蹟詠草」

(参考)

「初氷」(はつごおり、はつごほり)/初冬

芹焼や裾輪の田井の初氷        芭蕉「其便」

「氷柱」(つらら)/晩冬

朝日影さすや氷柱の水車       鬼貫「大悟物狂」
松吹きて横につららの山辺かな    来山「続いま宮草」

「草の戸」(くさのと) =草ぶきの庵(いおり)の戸。転じて、粗末なわびしい住まい。草のとぼそ。草のあみど。※寂蓮集(1182‐1202頃)「卯の花の垣根ばかりはくれやらで草の戸ささぬ玉河の里」 ※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)旅立「草の戸も住替る代ぞひなの家、面(おもて)八句を庵の柱に懸置(かけおく)」(「精選版 日本国語大辞典」)

https://haiku-textbook.com/kusanotomo/

「草の戸も住替る代ぞひなの家」=「住み慣れてきたこのみすぼらしい草庵も、住み替わるべき時がきた。誰かあとで引っ越してくる人が、おひなさまを飾って華やかになることがあるだろう。 」

https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/2019/02/23/000915

「氷苦く偃鼠(えんそ)が喉をうるほせり」=「取っておいた水は、氷りやすくほろ苦いが、どぶ鼠のような私の咽喉を潤してくれた。」という意味で、これは『荘子』(偃鼠河ニ飲ムモ満腹ニ過ギズ)に拠っている。

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/kanya.htm

「瓶(かめ)破(わ)るゝよるの氷の寝覚め哉」=寒い夜、甕<かめ>の割れる音で目が覚める。寒さのために氷が張って甕を割ったのであろう。甕の中には明日の朝の飲み水や、ご飯を炊くための調理用の水などが入っていたはずである。芭蕉庵の冬の夜の厳寒と底深い静寂があたりを覆っている。

句意(その周辺)=「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」の前書が二句のうちの、二句目の句である。しかし、この句は、「寛政九年(一七九七)、十月十八日」の、抱一の出家の「得度式」関連の句ではない。この「得度式」の後、抱一は、「十一月三日より十二月十四日まで、挨拶のため上洛」することになる。この、十一月三日からの「上洛の旅」の、その「旅立」の一句と解したい。

 すなわち、芭蕉の「奥の細道」の「旅立」の「草の戸も住替る代ぞひなの家」を念頭に置いての一句ということになる。


「抱一の『花洛の細道』」(その一)」

(前書=序章) 「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」

(序句)  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな
(旅立)  草の戸や小田の氷のわるゝ音

 句意は、吾が江戸の住まいの、「本所番場」の、この「草の戸」(侘しい「白屋」=大名屋敷の「朱門」に対する「白屋」)周辺の、「小田」(小さな江戸近郊の「田圃」)に張ったと思われる「氷」が、吾が「洛の細道」の「旅立」に際して、芭蕉翁の、「奥の細道」の「旅立」の、「草の戸も住替る代ぞひなの家」の華やかな「雛の家」からの「旅立」でなく、あたかも、芭蕉翁の、「「瓶(かめ)破(わ)るゝよるの氷の寝覚め哉」や、「氷苦く偃鼠(えんそ)が喉をうるほせり」のような、寒々とした「詫び住まいの白屋」からの「旅立」であることよ。

 この句の背景には、芭蕉の次の三句などが、ひそかに秘められている。

 草の戸も住替る代ぞひなの家     芭蕉 (「奥の細道・旅立」)
 氷苦く偃鼠(えんそ)が喉をうるほせり 芭蕉「虚栗」
 瓶破(わ)るゝよるの氷の寝覚め哉  芭蕉「真蹟詠草」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-18

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-544-55.html

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(右隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-544-55.html

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)

【 右隻の右から平坦な土坡に、春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華層などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する。続いて夏の花、牡丹、鬼百合、紫陽花、立葵、撫子、下の方には河骨、沢瀉、燕子花に、やはり白鷺が二羽向き合い、水鶏も隠れている。

 左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である。

 モチーフはそれぞれ明確に輪郭をとり厚く平たく塗り分け、ここで完璧な型づくりが為されたといっていいだろう。光琳百回忌から一年、濃彩で豪華な大作としては絵馬や仏画などを除いて早い一例となる。淡い彩色や墨を多用してきた抱一としては大変な飛躍であり、後の作画に内外に大きな影響を及ぼしたことが想像される。

 本図は、昭和二年の抱一百年忌の展観に出品され、当時は、金融界の風雲児といわれた実業家で、浮世絵風俗画の収集でも知られる神田鐳蔵の所蔵であった。その前後、大正から昭和初めにかけて、さまざまな所蔵家のもとを変転したことが入札目録よりわかるが、それ以前の情報として、新出の田中抱二資料の嘉永元年(一八四八)の「写真」に、本図の縮図が見出されたことを報告しておく。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(松尾知子稿))

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第四 椎の木かげ(4-51~4-53) [第四 椎の木かげ]

4-51 月の鹿ともしの弓や遁(れ)来て 

季語=月の鹿=鹿(しか)/三秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2217

【子季語】すずか、すがる、しし、かのしし、紅葉鳥、小鹿、牡鹿、小牡鹿、鹿鳴く、鹿の声

【関連季語】春の鹿、鹿の子、鹿の袋角、鹿の角切、鹿垣

【解説】鹿は秋、妻を求めて鳴く声が哀愁を帯びているので、秋の季語になった。公園などでも飼われるが、野生の鹿は、畑を荒らすので、わなを仕掛けたり、鹿垣を設えたりして、人里に近づけないようにする。

【例句】

ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」
女をと鹿や毛に毛がそろうて毛むつかし 芭蕉「貝おほひ」
武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」
ひれふりてめじかもよるや男鹿島    芭蕉「五十四郡」

(参考)「月」(三秋)、そして、「ともし(照射)」(三夏)も季語だが、ここは、この句の前書の「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」で、この句の主題(狙い)と季語(主たる季語)は「鹿」ということになる。そして、この「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」は、「九条良経(藤原良経)」の「たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(新古444)」などを指しているように思われる。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html#SM

句意(その周辺)=この句を前書抜きにして、字面だけで句意を探ると、「夏の『ともし(照射))の矢(仕掛け罠)を『遁(れ)来て』、今や、『月の秋の雌鹿を求めて鳴く牡鹿の声が谺(こだま)する季節』となったよ。」ということになる。

 ここに、前書の「良経公の御うたにも」の、「たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(新古444)」を加味すると、「たぐへくる」(「連れ添ってくる」)、「たゆむらん」(弱まっている)の用例で、「秋にはたへぬ」の「たへぬ」(「耐へぬ」と「絶へぬ」の両義がある)の用例ではない。

 しかし、これらの「たぐへくる」・「たゆむらん」・「たへぬ」という用例は、相互に親近感のある用例で、その底流には「哀感・哀愁・悲哀」」などを漂わせているような雰囲気を有している。

 すなわち、この前書の「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」は、具体的に、特定の一首を指しているのではなく、例えば、次のように、数首から成る「多重性」のある前書のようにも思えるのである。

「鹿」

たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(新古444)

ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」

「月」

ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ(新古422)

武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」

「たへぬ」

のちも憂ししのぶにたへぬ身とならばそのけぶりをも雲にかすめよ(月清集)

俤や姨ひとりなく月の友        芭蕉「更科紀行」

 これらの作業を通して、抱一の掲出句の句意を探ると次のようになる。

句意=「良経公の御うた」にも、数々の「秋にはたへぬ」、その「月の鹿」を詠んでいるものがあるが、「月の友」を求めて、かぼそく鳴いている「鹿」の声を聴いていると、あの「鹿」は、「ともしの弓を遁れ来て」、武蔵野の奥へ奥へと、唯々、「こころの友」を求めて、「月」に向かって泣いているように聞こえてくる。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-514-53.html

俵屋宗達筆「鹿に月図」(「山種美術館」蔵)

http://blog.livedoor.jp/a_delp/archives/1040394436.html

≪ 抱一の《風神雷神図屏風》の模写は、尾形光琳の模写をさらに模写したもので、宗達の《風神雷神図屏風》(国宝)を知らなかったと言われています。抱一は、その他の宗達の絵も知らなかったのでしょうか。《鹿に月図》(宗達筆)と《秋草鶉図》(抱一筆)の月は、形も色彩も酷似しているので、抱一が宗達の絵を観て、その天才的な感性に対するオマージュとして引用したこともあり得るのではないでしょうか。≫


4-52 黒楽の茶碗の欵やいなびかり

季語=いなびかり=稲妻(いなずま、いなづま)/三秋

https://kigosai.sub.jp/?s=%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%B3%E3%81%8B%E3%82%8A&x=0&y=0

【子季語】稲光、稲の殿、稲の妻、稲の夫、稲つるみ、いなつるび、いなたま

【関連季語】雷

【解説】空がひび割れるかのように走る電光のこと。空中の放電現象によるものだが、その大音響の雷が夏の季語なのに対し、稲妻が秋の季語となっているのは、稲を実らせると信じられていたからである。

【例句】

稲妻を手にとる闇の紙燭かな  芭蕉「続虚栗」
稲妻に悟らぬ人の貴さよ    芭蕉「己が光」
あの雲は稲妻を待つたより哉  芭蕉「陸奥鵆」
稲妻やかほのところが薄の穂  芭蕉「続猿蓑」
いなづまや闇の方行五位の声  芭蕉「続猿蓑」
稲妻や海の面をひらめかす   芭蕉「蕉翁句集」
いなづまやきのふは東けふは西 其角「曠野」
いなづまや堅田泊りの宵の空  蕪村「蕪村句集」  

句意(その周辺)=この句の、中七の「茶碗の・欵や」の、この「欵」が何とも意味不明である。嘗て、下記のアドレスでは、「欵(かん)」=「親しみ・よしみ」の意にとらえていた。

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-22

 さらに、下記のアドレスで、「款冬(かんとう)」=石蕗の花(つわのはな、つはのはな)/初冬」の月の句に出会った。

https://yahantei.blogspot.com/

4-40 款冬(かんとう)や氷のけぶりも此ごろは

 この「款冬(かんとう)」は、「おおば・おほば」とも詠み、「植物「ふき(蕗)」の古名。また「つわぶき(橐吾)」の古名ともいう。〔本草和名(918頃)〕」(「精選版 日本国語大辞典」)

季語的には、「「ふき(蕗)」(初夏)、「つわぶき(橐吾)」(初冬)で、「いなびかり」(三秋)との「取り合わせ」では、「つわぶき(橐吾)」(初冬)の「石蕗(つわ・つは・ツワ)の花」の「欵(ツワ)」の詠みと意に解したい。

 そして、抱一には、下記の蕊が黄色の「白椿に楽茶碗図」があるが、この黄色い蕊色の、「欵(ツワ)の花」をイメージしたい。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-514-53.html

抱一画集『鶯邨画譜』所収「白椿に楽茶碗図」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html


 4-52 黒楽の茶碗の欵(ツワ)やいなびかり

句意は、「黒の楽茶碗に無造作に活けてある黄色の『石蕗(ツワブキ)の花』に、一瞬の黄色い「稲光り」の閃光が走っている。」



4-53 かけ稲を屏風に眠る小鷺哉

季語=かけ稲=稲干す(いねほす)/ 仲秋

https://kigosai.sub.jp/?s=%E7%A8%B2%E5%B9%B2%E3%81%99&x=0&y=0

【子季語】稲掛/掛稲/稲塚/稲叢/稲堆/稲垣/干稲

【解説】刈り取った稲を稲架などに掛けて、天日で乾燥させること。近頃では、火力で乾燥させることが多いが、米のうま味は天日乾燥のほうがはるかに勝る。

【例句】

松原に稲を干したり鶴の声    才麿「椎の葉」
かけ稲や大門ふかき並木松   太祇「太祇句選後篇」
かけ稲に鼠鳴くなる門田かな  蕪村「安永四年句稿」
かけ稲やあらひあげたる鍬の数 白雄「白雄句集」
稲かけし夜より小藪は月よかな 一茶「文化句帖」

(参考)

冬鷺(ふゆさぎ)/ 三冬

【子季語】残り鷺

【解説】冬の間、日本に留まる鷺の総称。サギ科には様々な属があるが、冬鷺の多くはコサギ属とアオサギ属である。灰色の冬の景の中で白い小鷺はひときわ目立つ。蒼鷺の体色は灰色を帯びた青。残り鷺とは冬になっても南に帰ることができなかったものをいう。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-514-53.html

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇

(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「一月 梅図に鶯図」「二月 菜花に雲雀図」「三月 桜に雉子図」「四月 牡丹に蝶図」「五月 燕子花に水鶏図」「六月 立葵紫陽花に蜻蛉図」

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-514-53.html

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇

(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「七月 玉蜀黍朝顔に青蛙図」「八月 秋草に螽斯(しゅうし=いなご)図」「九月 菊に小禽図」「十月 柿に小禽図」「十一月 芦に白鷺図」「十二月 檜に啄木鳥図」

≪ 十二の月に因む植物と鳥や昆虫を組み合わせ、余白ある対角線構図ですっきりかつ隙のない構成で描き出す。いかにも自然だと共感できる姿が選び抜かれ、モチーフ相互の関係も絶妙に作られている。多くの十二ヵ月花鳥図の中で、唯一、終幅に「文政癸未年」(文政六年=一八二三)と年紀があり、抱一六十三歳の作とわかる基準作。抱一が晩年に洗練を究めた花鳥画の到達点であり、伏流となって近現代まで生き続ける江戸琳派様式の金字塔である。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説162(松野知子稿)」)

 上記の「十二ヵ月花鳥図(酒井抱一筆)」は、下記のアドレスで紹介したものであった。

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-22

 この「十二ヵ月花鳥図(酒井抱一筆)」の「十一月 芦に白鷺図」の、その「芦」を、「かけ稲を屏風(背景)」すると、この句の絵画的なイメージとなってくる。

句意は、「稲架の掛け稲を屏風にして、冬の間、日本に留まる、白い『小鷺』が安らぎをとっている。」
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第四 椎の木かげ(4-43~4-50) [第四 椎の木かげ]

4-43 音八が鄽(みせ)人形も袷かな

季語=袷=袷(あわせ/あはせ)/ 初夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/8701

【子季語】綿抜/初袷/古袷/素袷/袷衣/絹衣

【解説】袷衣のことで、すなわち表地と裏地を合わせた着物。素肌に直接身につけるものは「素袷」という。冬に着る「綿入」から綿を抜いて着る夏物を「綿抜」という。

【例句】 那須七騎弓矢に遊ぶ袷かな 蕪村「新五子稿」

「更夜」(前書)=「深更。※和漢朗詠(1018頃)上「燭を背けては共に憐れむ深夜の月 花を踏んでは同じく惜しむ少年の春〈白居易〉〔韓愈‐落葉詩〕」(「精選版 日本国語大辞典」)。

 ここは、「更衣((ころもがえ、ころもがへ)」(初夏)の捩りの「更夜」とし、「夏の夜(なつのよ)」(三夏)の意も利かせているような雰囲気である。

(参考) 「更衣(ころもがえ、ころもがへ)」(初夏)の例句

長持へ春ぞ暮れ行く更衣    西鶴「落花集」
ひとつぬひで後に負ぬ衣がへ  芭蕉「笈の小文」
越後屋に衣さく音や更衣    其角「五元集」

「夏の夜(なつのよ)」(三夏)の例句

夏の夜は明くれどあかぬまぶた哉 守武「俳諧初学抄」
夏の夜や崩れて明けし冷し物 芭蕉「続猿蓑」

「音八」=「嵐音八」=歌舞伎俳優。幕末までに4世あるが,詳細は不明。初世のみ著名。初世(1698‐1769∥元禄11‐明和6)は京都の生れ。大坂竹田芝居で初舞台を踏む。1732年(享保17)江戸に下り,34年道外方(どうけがた)になる。以後,演技と特徴のある容貌とにより人気を博し,三都道外方随一と評される。かたわら江戸人形町に鹿の子餅の店を経営し,これも好評で戯作の題材になっている。(「世界大百科事典 第2版」)

「鄽」(音=テン、訓=みせ・やしき)=店・店舗・屋敷



https://kanjitisiki.com/jis3/0082.html

「江戸人形町に鹿の子餅の店を経営」=「道化役者の嵐音八というのが人形町に「鹿の子餅」の店を出し、四尺くらいの小僧人形、不二家のペコちゃんみたいなもの、が鹿の子餅の包みやお茶を出す仕掛けで大評判になった。」(柳家小満んの「鹿の子餅」より「江戸小咄」)



http://kbaba.asablo.jp/blog/2022/11/04/9538150

「音八と云ふ役者の家にて 鹿子餅を売る見世先に 四尺斗坊主小僧人形 袖無し羽織を着し 茶台の上へ竹の皮包を重ねたる持ちて 立居たる餅買人の来たる時 此人形おのれと持出る ぜんまいからくり有りし也」(『寛天見聞記』)



『からくり(著者: 立川昭二)』

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-434-50.html


『機巧図彙(からくりずい・きこうずい): 細川半蔵著』を元に復元された茶運び人形とその内部構造(復元品)(「国立科学博物館」蔵)(「ウィキペディア」)


句意(その周辺)=抱一の、こういう句にはお手上げである。「鄽」(音=テン、訓=みせ・やしき)が、「廓」の誤字なのではないのかと、てっきり「吉原」を背景にする句と思ったら、どうやら、歌舞伎俳優(道化役者)の「嵐音八」が、江戸人形町に「鹿の子餅の店」をやっていて、その「鄽」(見世・店)先の「からくり人形」の「茶運び人形」に関する句のようである。

 この「からくり人形」の「茶運び人形」が、「更衣」の季節で「袷」になり、その「更衣」から「更夜」(前書)と、其角譲りの、抱一の「洒落風」(「言葉遊び」)の「夏の夜」の「捩り」(「言葉を、同音または音の近い他の語に言いかけること=地口・語呂」・「付句の一種」)のような雰囲気である。

 句意=春から夏へと「衣更え」の季節となり、その「衣更え」の「更夜」に、足をのばして、江戸(上野)人形町の「音八」の鹿の子餅の店(鄽)」に行ったら、今、評判の、その「店(鄽)」先の、「からくり人形」の「茶運び人形」が「袷」姿で、「衣更え」をしていましたよ。

(蛇足=「東風」流の「其角・嵐雪」の元締めの「芭蕉」の語録中の語録の「不易・流行」の、典型的な「流行」(変化し移ろう流行)の、「言いかけ」の、「その時々の呟(つぶや)き」のような句なのであろう。)


4-44 待(また)ぬ蚊の声の高さや杜宇(ほととぎす)

季語=杜宇(ほととぎす)=時鳥(ほととぎす)/三夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2099

【子季語】初時鳥、山時鳥、名乗る時鳥、待つ時鳥、田長鳥、沓手鳥、妹背鳥、卯月鳥、杜鵑、杜宇杜魂、子規、不如帰

【解説】初夏五月に南方から渡ってきて日本に夏を告げる鳥。雪月花に並ぶ夏の美目でもある。昔は初音を待ちわびた。初音を待つのは鶯と時鳥だけ。夜、密かに鳴くときは忍び音といった。

【例句】

野を横に馬引むけよほとゝぎす  芭蕉「猿蓑」
ほとゝぎすきのふ一聲けふ三聲  去来「去来発句集」
岩倉の狂女恋せよほとゝぎす   蕪村「五車反古」
江戸入りの一ばん声やほととぎす 一茶「七番日記」

「蚊」も季語(三夏)で、「待たぬ蚊」と「待っているホトトギス」の「季重なり」(一つの句に季語が二つ以上入ること)の句である。「杜宇(ほととぎす)」は「五箇の景物」(雪・月・花・郭公=ほととぎす・紅葉)の一つの別格扱いの季語だが、ここでは、「待たぬ蚊の声の高さや」で、「待っているホトトギス(の初声)」と同格的扱いの、巧妙な句づくりとなっている。

(例句)

わが宿は蚊の小さきを馳走なり  芭蕉「小文庫」

句意(その周辺)=吾らの「東風」流の「其角・嵐雪」の元締めの「芭蕉」翁の句に、「わが宿は蚊の小さきを馳走なり」と、まさに、「待(また)ぬ蚊の声の高さ(大きさ)」は、これぞ、まさしく、「小さき馳走」ではなく、「初音を待つのは鶯と時鳥」の、その「初夏」(更夜)の、その「杜宇(ほととぎす)」の「初音」であることよ。(蛇足=「芭蕉と抱一」というのは、「其角(嵐雪)と抱一」に比して、殆ど「等閑視」されている印象も受けるが、この句などは、「其角」流というよりも、「芭蕉(桃青・翁・老人)」の「蕉風一統の陰徳を得たり(『東風流(春来)』序)」という印象を深くする。)


4-45 樹作りが衣かゝれり庭若葉

季語=「庭若葉」=若葉(わかば)/初夏]

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2132

【子季語】朴若葉、藤若葉、若葉寒

【関連季語】青葉、草の若葉、茂、新緑、新樹

【解説】おもに落葉樹の新葉のこと。やわらかく瑞々しい。若葉をもれくる日ざし、若葉が風にそよぐ姿、若葉が雨に濡れるさまなどいずれも美しい。

【例句】

若葉して御めの雫ぬぐはばや   芭蕉「笈の小文」
又是より若葉一見となりにけり 素堂「山口素堂句集」
若葉ふく風やたばこのきざみよし 嵐雪「玄峰集」
若葉吹く風さらさらと鳴りながら 惟然「惟然坊句集」
不二ひとつうづみ残してわかばかな 蕪村「蕪村句集」
絶頂の城たのもしき若葉かな 蕪村「蕪村句集」
濃く薄く奥ある色や谷若葉 太祇「太祇句選」
若葉して又もにくまれ榎哉 一茶「題叢」

句意(その周辺)=この句は、字面だけで句意を探ると、「樹(き)作り」(庭師・盆栽士など?)が、「庭若葉」(「庭の若葉が生えた樹?」「庭の若葉した盆栽?)」などに、「衣(ころも)かゝれり」(衣を掛かれり=「衣をかける?」「衣で覆う?」)などしている……、ということになる。
 何か、「からくり」(仕掛け)があるとすると、中七の「衣かゝれり」のような感じなのだが、これを「衣装を凝らす(意匠を凝らす)」とすると、これは、まさしく、抱一流の「からくり」(仕掛け)となってくる。
 さらに、上記の例句では、「又是より若葉一見となりにけり(素堂)」が、その抱一流の「からくり」(仕掛け)には、イメージとしてはしっくりするような印象なのである。
 これらを加味すると、「樹作りに精を出している人が、『又是より若葉一見(いちげん)となりにけり』と、庭の若葉の木々に、さまざまな、衣装(意匠)を凝らしている。」ということになる。(蛇足=「衣かゝれり」と「衣装を凝らす(意匠を凝らす)」とを結びつけたのは、これまた、「若葉して御めの雫ぬぐはばや(芭蕉)」の陰徳に因る。)


4-46 夏山の火串は㡡(とばり)の紙燭かな

季語=「夏山の火串(ほぐし)」=照射(ともし)/ 三夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/16387

【子季語】火串/ねらい狩/鹿の子狩/照射する/火串振る

【解説】鹿の子の通る道にかがり火を焚き、鹿の子がその火にくらんだ瞬間を逃さず矢を射って鹿を捕らえるという狩猟法。

【例句】

谷本(うつぎほ)の鬼なおそれそともし笛 其角「虚栗」
弓杖に歌よみ顔のともしかな     嵐雪「其袋」
武士の子の眠さも堪へる照射かな    太祇「太祇句選」
谷風に付木吹きちる火串かな     蕪村「新華摘」

「火串(ほぐし)」=火をつけた松明(たいまつ)を挟んで地に立てる木。夏の夜、これに鹿などの近寄るのを待って射取る。《季 夏》

「㡡(とばり)」=かや。蚊を防ぐため、吊り下げて寝床を覆うもの。

「紙燭(しそく・ししょく)」= 小形の照明具。紙や布を細く巻いてよった上に蝋を塗ったもの。ときに芯(しん)に細い松の割り木を入れた。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-434-50.html

(「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=この句の「からくり」(仕掛け)は、「火串(ほぐし)」(屋外の「松明」)と「紙燭(しそく・ししょく)」(屋内の「松明」)とを対比させているところにある。季語は「夏山の火串」で、これに、「㡡(とばり)の紙燭」と、この難解字体の「㡡(とばり)」も「蚊帳(かや)」の意があり、「夏山」(屋外)と「㡡」とも対比の、二重の「からくり」となっている。

句意は、「『夏山』には、鹿をとる『火串』がたかれ、屋内の『㡡』には、蚊を防ぐ『紙燭』が灯されている。」(蛇足=それにしても、抱一は、先の「「鄽(みせ)」といい、この「㡡(とばり)」といい、目眩ましの難漢字を多用する。)



4-47 板行のこれも久しきのぼり哉

季語=「のぼり」=幟(のぼり)/ 初夏

https://kigosai.sub.jp/?s=%E5%B9%9F&x=0&y=0

【子季語】五月幟/菖蒲幟/鍾馗幟/紙幟/絵幟/初幟/外幟/内幟/幟竿/幟杭/幟飾る

【解説】五月五日の端午の節句に、男子のすこやかな成長を願って立てる細長い旗状のもの。家紋や武者絵などが描かれており、高さが十メートルに及ぶものもある。

【例句】

ものめかし幟の音に沖も鳴る  来山「津の玉柏」

家ふりて幟見せたる翠微かな  蕪村「新花摘」

【参考】

「座敷のぼりと号して屋中へかざるは、近世の簡易なり。紙にして鯉の形をつくり、竹の先につけて幟と共に立る事、是も近世のならはしなり。出世の魚といへる諺により男子を祝すの意なるべし。ただし東都の風なりといへり。」(『東都歳時記』)

http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f001183.html



「武者繪の板すりて、蘇枋黄汁等にて彩れり、江戸にても鍾馗のぼりは紙を用るもあれど、それも此ごろは少なきにや、板行の繪などは絶たり、」(『嬉遊笑覽  六下兒戲』)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-434-50.html

(喜多川歌麿「五節供 端午」)(部分図)

https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/4084435/

句意(その周辺)=この句も「目眩まし」の「からくり」(仕掛け)句である。まず、上五の「板行や」の「板行(はんこう・はんかう)」(「書籍・文書などを版木で印刷して発行すること。また、その印刷したもの。印行。出版。」)が、またしても、誤字・誤植の類なのではないかと、意味が不明で、それが、中七の「これも久しき」と結びつき、この「これも」がで、「ギブアップ」となってくる。そして、下五の「のぼり哉」の「のぼり」が平仮名で、季語の「幟・鯉幟」と結びついて、この「幟」が「版(板)木で刷られたもの」で、「板行の絵幟(えのぼり)」の句なのかと、だんだんと、その正体を出してくるような、そんな「からくり」のようなのである。

 句意は、「版(板)木で刷られた、『板行の座敷幟の武者絵幟)』の、この『絵幟』の図柄を見るのも、随分と久しいことであるよ。」(この「絵のぼり」を、歌麿の描く「鍾馗のぼり」と解すると正解なのかも知れない。)


4-48 たけがはもうつ蝉も碁や五月雨

季語=五月雨=五月雨(さみだれ)/仲夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2042

【子季語】さつき雨、さみだる、五月雨雲

【解説】陰暦五月に降る雨。梅雨期に降り続く雨のこと。梅雨は時候を表し、五月雨は雨を表す。「さつきあめ」または「さみだるる」と詠まれる。農作物の生育には大事な雨も、長雨は続くと交通を遮断させたり水害を起こすこともある。  

【例句】

五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉「奥のほそ道」
五月雨の降残してや光堂 芭蕉「奥のほそ道」
さみだれの空吹おとせ大井川 芭蕉「真蹟懐紙」
五月雨に御物遠や月の顔 芭蕉「続山の井」
五月雨も瀬ぶみ尋ぬ見馴河 芭蕉「大和巡礼」
五月の雨岩ひばの緑いつまでぞ 芭蕉「向之岡」
五月雨や龍頭揚る番太郎 芭蕉「江戸新道」
五月雨に鶴の足みじかくなれり 芭蕉「東日記」
髪はえて容顔蒼し五月雨   芭蕉「続虚栗」
五月雨や桶の輪切る夜の声   芭蕉「一字幽蘭集」
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 芭蕉「曠野」
五月雨は滝降うづむみかさ哉 芭蕉「荵摺」
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉「嵯峨日記」
日の道や葵傾くさ月あめ   芭蕉「猿蓑」
五月雨や蠶(かいこ)煩ふ桑の畑 芭蕉「続猿蓑」

(参考)

「空蝉」(下記「源氏物語図・巻3)」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-434-50.html

源氏物語図 空蝉(巻3)/部分図/狩野派/桃山時代/17世紀/紙本金地着色/縦32.3×57.6㎝/1面/大分市歴史資料館蔵

≪源氏は心を許さない空蝉に業をにやして紀伊守邸を訪れる。部屋を覗きみると、空蝉と義理の娘で紀伊守の妹、軒端荻が碁を打っていた。≫

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/46118

「たけがは・竹河」(下記「源氏物語図・巻44)」)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-434-50.html

源氏物語図 竹河(巻44)/部分図/狩野派/桃山時代/17世紀/紙本金地着色/縦48.8×横57.9㎝/1面/大分市歴史資料館蔵

≪夕霧の子息蔵人少将は、玉鬘邸に忍び込み、庭の桜を賭けて碁を打つ二人の姫君の姿を垣間見て、大君への思いをつのらせる。≫

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/86586

句意(その周辺)=この句の上五の「たけがはも」の「たけがは」は、『源氏物語』の「第四十四帖 :竹河」の「竹河」、そして、中七の「うつ蝉も・碁や」の「うつ蝉」は、「第三帖:空蝉」の「空蝉」を指していて、その「碁や」は、その「竹河(第七段:「蔵人少将、姫君たちを垣間見る」)」と「空蝉(「第三段:空蝉と軒端荻、碁を打つ」)」との「囲碁」の場面を指している。

 句意は、「この五月雨で、『源氏物語』を紐解いていたら、「第四十四帖 :竹河」と「第三帖:空蝉」で、「姫君たちが囲碁に夢中になっている」場面が出てきましたよ。」ということになる。すなわち、この句の「からくり」(仕掛け)は、上記の、「源氏物語図巻」の「絵解き」の一句ということになる。(蛇足=抱一の「からくり(仕掛け)」は、「源氏物語図巻」の「絵解き」の一句ということだけではなく、上記の芭蕉の「五月雨」の例句、十一句の全てが、「さみだれ・さつきあめ」で、「さみだるる」の「用言止め」の句は一句もない。この句の、下五の「五月雨」は、「さつきあめ」の体言止めの詠みではなく、「さみだるる」の用言止めの詠みで、この句の眼中には、「姫君たちが囲碁に夢中になっているが、まさに、五月雨(さみだれ)のように、さみだれて、混戦中の形相を呈している」ということになる。この蛇足が正解に近いのかも? )


4-49 はつ秋や寝覚て笛の指遣ひ

季語=はつ秋=初秋(はつあき)/初秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/4902

【子季語】新秋、孟秋、早秋、秋浅し、秋初め、秋口

【解説】秋の初めの頃のこと。暑さはまだ厳しくとも僅かながらも秋の気配を感ずるころ。

【例句】

初秋や海も青田の一みどり    芭蕉「千鳥掛」
初秋や畳みながらの蚊屋の夜着  芭蕉「酉の雲」
初秋や耳かきけづる朝ぼらけ   鬼貫「七草」
初秋や浴みしあとの気のゆるみ  太祇「句稿」
初秋や余所の灯見ゆる宵のほど  蕪村「蕪村句集」

句意(その周辺)=この句も、芭蕉の「初秋や畳みながらの蚊屋の夜着」を「羅針盤」(「からくり」探しの「羅針盤」)とすると、これまでの「前書」の「更衣」からの「更夜」(三夏)から「初秋」(初秋)へと、微妙な「季移り」(連歌・連句で、雑(ぞう)の句をはさまず、ある季の句に直ちに他の季の句を付けること。)の、その巧妙な「からくり」を秘めている一句ということになる。

 句意は、「夏の『更夜』から『寝覚めて』、「初秋」の祭り笛の「竹笛」(篠笛)の「指遣い」を「あれか、これか」と練習している。(蛇足=「はつ秋」の「はつ」は、「音色」を「発する」をも意識しての用例なのかも知れない。また、先の「照射(ともし)」の例句の「谷本(うつぎほ)の鬼なおそれそともし笛(其角)」などに関連しての句なのかも知れない。)


4-50 七夕の硯に遣ふ楊枝かな

季語=七夕=七夕(たなばた)/初秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2557

【子季語】棚機、棚機つ女、七夕祭、星祭、星祝、星の手向け、星の秋、星今宵、星の歌、芋の葉の露

【関連季語】天の川、梶の葉、硯洗、庭の立琴、星合、牽牛、織女、鵲の橋、乞巧奠

【解説】旧暦七月七日の夜、またはその夜の行事。織姫と彦星が天の川を渡って年に一度合うことを許される夜である。地上では七夕竹に願い事を書いた短冊を飾り、この夜を祝う。

【例句】

七夕や秋を定むる初めの夜    芭蕉「有磯海」
七夕のあはぬこゝろや雨中天  芭蕉「続山の井」
高水に星も旅寝や岩の上    芭蕉「真蹟」

(参考)

https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E4%B8%89%E5%86%8A%E5%AD%90-%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80-%E3%81%82%E3%81%8B%E3%81%95%E3%81%86%E3%81%97/

≪「七夕や秋を定むるはじめの夜

 此句、夜のはじめ、はじめの秋、此二に心をとゞめて折々吟じしらべて、數日の後に、夜のはじめとは究り侍る也。」(『去来抄・三冊子・旅寝論』潁原退蔵校訂、一九三九、岩波文庫p.114~115)

 元禄八年刊支考編の『笈日記』に、

   七夕 草庵

 たなばたや龝をさだむる夜のはじめ  翁

 高水に星も旅ねや岩のうへ

   後の句の心はなにがしの女の岩の

   上にひとりしぬればとよみけむ

   旅ねなるべし。今宵この事語り

   出たるつゐでのゆかしきにしる

   し侍る

とある。高水にの句の方は先に紹介されていて、元禄九年刊の史邦編『芭蕉庵小文庫』の小町と遍照の歌を元にしていた。

 「はじめの夜」の方の句は元禄八年刊浪化編の『有磯海』に、

   七夕や秋をさだむるはじめの夜   芭蕉

とある。同じ元禄八年刊だが数日違いでこの違いが出てしまったようだ。

 これは意味的には一緒なので、あとはリズムの問題だろう。「はじめの・よ」の四一のリズムよりも「よの・はじめ」という二三のリズムの方が安定感がある。ただ「夜のはじめ」は倒置になるので、「はじめの夜」の方が意味はわかりやすい。≫

句意(その周辺)=旧暦の「七夕」は、夏と秋とを分ける、その分岐点なのである。芭蕉の例句の、「七夕や秋を定むるはじめの夜」が、それを端的に物語っている。そして、抱一は、この句(4-50 )と前句(4-49)との二句を並列して、この『屠龍之技』(第四 椎の木かげ)に収載することによって、この『三冊子』などに出てくる、芭蕉の句(「七夕や秋を定むるはじめの夜」)の「からくり」(狙い)を、そこに、「東風流」の洒落風の「からくり」(仕掛け)を施している。

4-49 はつ秋や寝覚て笛の指遣ひ
4-50 七夕の硯に遣ふ楊枝かな

「はつ秋」=「七夕」と、「笛の指遣ひ」=「硯に遣ふ楊枝」とが、その種明かしなのである。まず、「笛」と「楊枝」とは、「口」に咥えるものである。その「口」に咥えるものを、「指」で「遣ふ(う)」ものに反転している。

すなわち、前句の「笛の指遣ひ」は、次句の「硯に遣ふ楊枝」の、「指」=「楊枝(「指墨書きの指」でなく「楊枝」で書く」)の、「硯に遣ふ筆・指」でなく、「硯に遣ふ楊枝かな」というのが、抱一の「からくり」(狙い)のようなのである。

 句意は、「『七夕』の短冊に、筆や指でなく、『楊枝』で書こうと、手ごろな楊枝を、『硯』の墨をつけて、それを『遣(つか)』おうとしている。」(蛇足=この句まで、前書の「更夜」は掛かり、次句から「秋」の句となってくる。それにしても、上記の「句意」の取り方は、過重の「穿ち」の見方であるという誹りは受容することになろう。)


(追記) この句に接して、先のイメージが不鮮明であった次の句が、より鮮明になってきた。

4-38 火もらひに鉋の壳(から)や梅の晝 

 この句を前句(4-37)と並列すると次のとおりとなる。

4-37 はる雨のふり出す賽(さい)や梅二輪
4-38 火もらひに鉋の壳(から)や梅の晝 

 この前句の「賽(さい)」は、「賽子(サイコロ)」を掛けての用例と解したのだが、次句の「壳(から)」は、「おから」(豆腐殻の「卯の花」)などを掛けての用例のイメージはしたのだが、どうにも意味不明であった。

これは、「壳(から)子(こ)」から、「壳(から)粉(こ)→殻粉(からこ)→からこ団子・粢(しとぎ)」と理解すると、イメージが鮮明になってくる。

句意は、「梅の昼に、火種を頂こうと、鉋の殻(から)を持って行って、一緒に、殻粉(からこ)団子を頂き、結構な、梅見の昼とあいなった。」となる。

 下記のアドレスに、「しとぎばなし」ですると、「梅の昼」と結びついて、「二月の厄除け団子(餅)」のイメージとなってくる。

http://www.shitogi.jp/shitogi-bkup.html

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-434-50.html

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第四 椎の木かげ(4-33~4-42) [第四 椎の木かげ]

4-33 いくたびも清少納言はつがすみ

清少納言.jpg

季語=はつがすみ=初霞(新年)

「丁巳春興」(前書)=「丁巳(ていみ)」(丁巳=寛政九年=一七九七)の「春興」(三春の季語の『春興(春ののどかさを楽しむ心)』の他に、新年句会の一門の『春興』と題する刷物の意もある。」

「清少納言」=平安時代中期の女流歌人。『枕草子』の作者。ここは、『枕草子』の、「春はあけぼの」(夜明け)、「夏は夜」、「秋は夕暮れ」そして「冬はつとめて、雪の降りたる」などの、「春はあけぼの」(夜明け)の一句。

句意(その周辺)=「丁巳春興」の前書がある九句のうちの一番目の句である。抱一、三十九歳の時で、その前年の秋頃から、「第四 椎の木かげ」がスタートとする。
句意=「四十にして惑わず」の、その前年の「新年の夜明け」である。この「新年の夜明け」は、まさに、「いくたびも、清少納言(「春はあけぼの」)」の、その新春の夜明けを、いくたびも経て、そのたびに、感慨を新たにするが、それもそれ、今日の初霞のように、だんだんと、その一つひとつがおぼろになっていく。 


4-34 菜の花や簇落たる道の幅

季語=菜の花(晩春)

(例句)
菜の花や月は東に日は西に    蕪村「続明烏」
菜の花やかすみの裾に少しづつ  一茶「七番日記」

「簇落たる」=「簇(むら)落(おとし)たる」=この「簇(むら)」を「群・叢(むら)」と解したい。

句意(その周辺)=「菜の花や月は東に日は西に(蕪村)の、一面の「菜の花」の光景である。その中にあって、人が通る「道の幅」だけ、「菜の花」の「群・叢(むら)」咲くのを落として、「道幅を開けている」いるように見える。(蛇足=嘗ては、「菜の花やかすみの裾に少しづつ(一茶)」で、「道の幅」だけ「群・叢(むら)」咲いている」としたが、今回は「群・叢(むら)」咲くのを落としているように、「道幅を開けている」と、まるで、逆の見方とあいなっている。)

(参考) 「菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅」周辺    

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-22

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html


抱一画集『鶯邨画譜』所収「流水に菊」(「早稲田大学図書館」蔵)

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

抱一句集『屠龍之技』の「菜の花」の句に次のような句がある。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 

 この句の情景は、どのようなものなのであろうか。とにかく、抱一の句は、其角流の「比喩・洒落・見立て・奇抜・奇計・難解」等々、現代俳句(「写生・写実」を基調とする)の物差しでは計れないような句が多い。

 しかし、江戸時代の俳句(発句)であろうが、現代俳句であろうが、「季題(季語)・定形。切字・リズム・存問(挨拶)・比喩・本句(歌・詩・詞)取り」等々の、基本的な定石というのは、程度の差はあるが、その根っ子は、同根であることは、いささかの変わりはない。

 ここで、同時代(江戸時代中期=「蕪村」、江戸時代後期=「抱一」)の、同一系統(其角流「江戸座」俳諧の流れの「蕪村・抱一」)の、蕪村の同一季題(季語)の句などを、一つの物差しにして、この抱一の句の情景などの背景を探ることとする。

  菜の花や和泉河内へ小商ひ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この「和泉河内」は、現大阪の南部で、当時の「菜種油」の産地である。一面の菜の花畑が、この句の眼目である。抱一の「菜の花や」の「上五『や』切り」でも、「菜種油=一面の菜の花畑」は背後にあることだろう。

  菜の花や壬生の隠れ家誰だれぞ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この句の「壬生」は、現京都市中京句で、「壬生忠岑の旧知」である。抱一の句の「道の幅」の「道」も、抱一旧知の「「誰だれ」が棲んでいたのかも知れない。

  菜の花や油乏しき小家がち  (蕪村 安永二年=一七七三 五十八歳)   

 「一面の菜の花畑」は「満地金のごとし」と形容される。その一面の菜の花畑とその菜の花から菜種を取る農家の家は貧しい小家を対比させている。ここには「諷刺」(皮肉・穿ち)がある。抱一の句の「落(おとし)たる」「道の幅」などに、この「穿ち」の視線が注がれている。

  菜の花や月は東に日は西に   (蕪村 安永三年=一七七四 五十九歳) 

 蕪村の傑作句の一つとされているこの句は、「東の野にかぎろひの立つ見えて顧りみすれば月傾きぬ(柿本人麿『万葉集』)の本歌取りの句とされている。しかし、洒落風俳諧に片足を入れている蕪村は、その背後に、「月は東に昴(すばる)は西にいとし殿御(とのご)は真中に」(「山家鳥虫歌・丹後」)の丹後地方の俗謡を利かせていることも。夙に知られている。この句は、蕪村の後を引き継いで夜半亭三世となる高井几董の『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』にも採られており、俳諧撰集『江戸続八百韻』(寛政八年=一七九六、三十六歳時編集・発刊)を擁する抱一も、おそらく、目にしていると解しても、それほど違和感はないであろう。

 ここでは、その『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』(几董編著)ではなく、『続明烏』(几董編著)の「菜の花や」(歌仙)の「表(おもて)」の六句を掲げて置きたい。

  菜の花や月は東に日は西に    (蕪村、季語「菜の花」=春)

   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく) (樗良、季語「かすみ」=春)

  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)

   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと (蕪村、雑=季語なし)

  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し  (樗良、雑=季語なし)

   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの     (几董、季語「雪」=冬)

 この「俳諧」(「歌仙」=三十六句からなる「連句」)の一番目の句(発句)を、抱一の句(俳句=発句)で置き換えてみたい。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 (抱一、季語「菜の花」=春)

   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)      (樗良、季語「かすみ」=春)

  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)

   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと  (蕪村、雑=季語なし)

  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し   (樗良、雑=季語なし)

   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの      (几董、季語「雪」=冬)

 これは、蕪村の発句が、生まれ故郷の「浪華」(「和泉河内」を含む)や現在住んでいる京都(「島原」)辺りの句とするならば、抱一の句は「武蔵」、そして、『軽挙館句藻』に出てくる「千束村(浅草寺北の千束村)に庵むすびて」の「吉原」辺りの句と解したい。

 その上で、当時の抱一に焦点を当てて、これら六句の解説を施して置きたい。

(発句)菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅  抱一

 「簇(むら)」は、「菜の花の叢(むら・群生)の意に解したい。「道の幅」の「幅」は、「ふち・へり」の方が句意を取りやすい。句意は、「(千束村から吉原に行く)道すがら、その道の両側には、菜の花が、まるで、取り残されたように、群れ咲いている」。(以下「略」)


4-35 うぐゐすぞ梅にやどかる鳥は皆

季語=「うぐゐす」=鶯(三春)。「梅」(初冬)。「梅に鶯(鶯宿梅)」(初春)。

「鶯宿梅(おうしゅくばい)」=「鶯宿梅(おうしゅくばい)」は、平安時代後期の歴史物語「大鏡(おおかがみ)」に記された日本の古い故事の一つ。「拾遺和歌集」にも見られる。

https://www.worldfolksong.com/calendar/japan/uguisu-ume.html

「やどかる」=「宿借る」(例句)
草臥(くたび)れて宿借るころや藤の花 (芭蕉「笈の小文」)
ほととぎす宿借るころや藤の花 (「三冊子」に出てくる上記の句のオリジナル)

句意(その周辺)=春告鳥の「鶯」が、「春告草」の「梅」の木に宿ると、あたかも、それが合図のように、「小鳥たち」は「皆」、一斉に「梅」の木にやって来る。(蛇足=この句には、「鶯宿梅」の別称をもつ端唄「春雨」が似つかわしい。)

(参考) 端唄「春雨」周辺

https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/harusame.html

春雨に しっぽり濡るる鶯の
羽風に匂う 梅が香や
花にたわむれ しおらしや
小鳥でさえも 一筋に
ねぐら定めぬ 気は一つ
わたしゃ鶯 主は梅
やがて身まま気ままになるならば
サァ 鶯宿梅(おうしゅくばい)じゃないかいな
サァサ なんでもよいわいな


4—36 のり初(そむ)る五ツ布団やたから船

季語=たから船=宝船(たからぶね)/新年

https://kigosai.sub.jp/?s=%E5%AE%9D%E8%88%B9&x=0&y=0

【解説】よい初夢を見るために、枕の下に敷く、宝を満載した船の絵をいう。七福神の乗ったものもある。元旦もしくは正月二日の夜に敷いて寝るとされる。

【例句】

須磨明石みぬ寝心やたから船 嵐雪「小弓誹諧集」

句意(その周辺)=初夢に、豪勢な「五つ布団の敷き初め」の夢が見たいと、「宝船」の絵を、「一つ布団」に敷くのでした。(蛇足=これは、下記の歌麿の「夜具舗初(しきぞめ)之図」が似つかわしい。)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

「夜具舗初(しきぞめ)之図」(『吉原青楼年中行事. 上,下之巻 / 十返舎一九 著 ; 喜多川歌麿 画』) (「早稲田大学図書館」蔵)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0001/wo06_01494_0001_p0010.jpg

(参考)  「夜具舗初(しきぞめ)之図」周辺

https://love-style-jp.com/yoshiwara/yujo-seikatu.html

≪ 布団は当時、高価なものでした。上級遊女が寝具として使っていたのは、敷布団を3枚重ねる「三つ布団(みつぶとん)」でした。また、下級遊女は「二つ布団(ふたつぶとん)」でした。一般市民は敷布団が一枚だけの「一つ布団(ひとつぶとん)」でした。(中略)

 三つ布団が贈られると、まず布団が妓楼の店先に飾られました。これは「積み夜具(つみやぐ)」と呼ばれました。そしてその後、縁起の良い吉日を選んで遊女の部屋に運び込まれました。初めて三つ布団を敷くことを「敷き初め(しきぞめ)」と呼びました。≫


4-37 はる雨のふり出す賽や梅二輪

季語=はる雨=春雨(はるさめ)/三春。「梅」(初冬)。この句は「初冬」の句。

「梅」(例句)
梅一輪一輪ほどの暖かさ(嵐雪『遠のく』)

「賽(さい)」=「神にむくいること(賽神)」と「サイコロのこと(賽子)との両義がある(「ウィキペディア」)。さらに、この「賽(サイ)」は「際(サイ)=その時」の意が掛けられている。

句意(その周辺)=「春雨」の「賽神(サイジン)」が「降りだす」、その「際(サイ)」に、「賽子(サイコロ)」を「振る」と、「梅が二輪」、嵐雪師匠の「梅一輪一輪ほどの暖かさ」の「一輪ほど」ではなく「二輪」ほど、日増しに暖かくなっていきます。

(蛇足)=「春雨の降る」と「賽を振る」、「賽」と「際」などの「言葉遊び」で、さらに、私淑する「其(キ)=其角・嵐(ラン)」の「嵐雪」の名句「梅一輪一輪ほどの暖かさ」を踏まえ、「一輪ほど」でなく、「一輪プラス一輪」で「二輪ほど」と洒落ている。

(蛇足の蛇足)この上五の「はる雨」の「はる」も「花札を張る・賭場を張る」などの「張る(はる)」と、中七の「ふり出す」の「はる」と「ふり」との洒落なども意識されているのかも知れない。と同時に、これは、下五の「梅二輪」との取り合わせで、「花札」の「赤短札」(下記と「参考」など)の「松」(一月)・「梅」(二月)・「桜」(三月)の、「梅」(二月)と、その「梅のカス」二枚の「二輪」、さらに「赤短札」の「あかよろし」を「あめよろし」と洒落て詠んでいる風情も加わってくる。こうなると、句意は、何通りもあって手の施しようが無くなってくる。 「花札」の「梅(二月)」(「ウィキペディア」)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

(参考) 「花札」の「赤短札」(周辺)

http://www.kamanariya.com/ltd/tenjikai/koten/wakayorosi.htm

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html


4-38 火もらひに鉋の壳(から)や梅の晝 

季語=「梅の晝(昼)」=「梅」(初冬)

「鉋の壳(から)」=「鉋屑(かんなくず)」か?=「鉋で材木を削るときにできる薄い木片の屑。かなくず」 (「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=「昼」時に、「火を貰いに」、「鉋の壳(から)」=「鉋屑(かんなくず)」を火種にして、火をおこし、その火を囲みながら、まだ寒い「梅見」の頃の食事時を満喫している。(蛇足=何処かに、抱一の仕掛けが施されている雰囲気なのだが、それが容易には分からない。この中七の「鉋の壳(から?)」は、「削り華」(木を削って作った花)、「削り節」(鰹節など)、「おから」(豆腐殻の「卯の花」)などの意が隠されているのかも知れない。また、抱一と関係の深い「新梅屋敷」などに関連して、下記(参考)の「江戸自慢三十六興 梅屋敷漬梅」に関連しての、句意探訪もあるのかも知れない。)

(参考)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

「江戸自慢三十六興 梅屋敷漬梅」歌川広重(二代)、歌川豊国(三代)画 /国立国会図書館所蔵

https://www.kabuki-za.co.jp/syoku/2/no62.html

≪ 絵の題に梅屋敷漬梅とあります。梅の漬物には梅干のほか青梅漬(青梅の塩漬)、糟梅(酒の粕に漬けたもの)などもあり、梅酒も現在とほぼ同じ作り方が『本朝食鑑』(1697)にあります。梅屋敷の漬梅は梅干でした。≫


4-39 出代(でがはり)の唇あつき椿かな

季語=椿=椿(つばき)/三春

https://kigosai.sub.jp/?s=%E6%A4%BF&x=0&y=0

【子季語】山茶、山椿、乙女椿、白椿、紅椿、一重椿、八重椿、玉椿、つらつら椿、落椿、散椿、 藪椿、雪椿

【関連季語】冬椿、椿の実

【解説】椿は、春を代表する花。万葉集のころから歌にも詠まれ日本人に親しまれてきた。つやつやした肉厚の葉の中に真紅の花を咲かせる。花びらが散るのではなく、花ひとつが丸ごと落ちるので落椿という言葉もある。最も一般的な藪椿のほか、八重咲や白椿、雪椿などの種類もある。

【例句】
鶯の笠おとしたる椿かな 芭蕉「猿蓑」
椿落て昨日の雨をこぼしけり 蕪村「蕪村遺稿」

【参考】「出代(でがはり)・出替り」も季語(仲春)だが、ここは、「椿」(三春)に掛かる形容詞的な用例(「出代(でがはり)の唇あつき」)で、季語としての働きではなく、その背後に潜ませている、抱一の趣向ということになる。

(子季語)出代/新参/古参/御目見得/居なり/重年

(解説)年季を終えた奉公人が交代すること。今で言う人事異動のようなもの。江戸では二月と八月、後に三月と九月に行われた。

(例句)
出替りや幼心にものあはれ 嵐雪「猿蓑」
出替りや傘提げて夕ながめ 許六「韻塞」
出代りの畳へ落す涙かな 太祇「平安廿歌仙」
出代や春さめざめと古葛籠 蕪村「蕪村句集」
出代や人の心のうす月夜 召波「春泥発句集」
出がはりの酒しゐられて泣きにけり 白雄「白雄句集」
出替の笑ひにふくむなみだかな 青蘿「青蘿発句集」
出代の市にさらすや五十顔 一茶「八番日記」

句意(その周辺)=「梅」(二月)と「桜」(三月)に替わって、その「出替わり」のような「椿」(四月)は、丁度、「出替わり・奉公人」の下女の「唇」のような、「ぼってりと・厚咲き(地のまま)」の花のような雰囲気を漂わしている。


4-40 款冬(かんとう)や氷のけぶりも此ごろは

季語=「款冬(かんとう)」=石蕗の花(つわのはな、つはのはな)/初冬

https://kigosai.sub.jp/001/archives/3743

【子季語】いしぶき、つはぶきの花

【解説】キク科の常緑多年草。名の由来は「葉に艶のある蕗」による。蕗に似ているが、蕗とは別種である。大きな光沢のある葉をもち、初冬に黄色い花を多数つける。

【例句】

淋しさの目の行く方やつはの花  蓼太「蓼太句集初編」
春秋をぬしなき家や石蕗の花   几董「井華集」
空明の姿二つやつはの花     言水「初心もと柏」
ちまちまとした海もちぬ石蕗の花 一茶「七番日記」
咲くべくもおもはであるを石蕗の花 蕪村「蕪村句集」

句意(その周辺)=この句は、「石蕗の花」(三冬)の句である。その「款冬(かんとう)=冬を款する(象徴する)花」=「石蕗の花」は、春になって、この頃は、「氷のけぶり(煙り)」とは、全く無縁の風情である。この句、一句だけでは、「冬」の句であるが、「春興」の他の句と一緒になると、「春」(「この頃」)の句となる。


4-41 ちり積(つみ)て山樵(やまがつ)が荷や花一朶(だ)

季語=「花一朶」の「花」(晩春)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/1994

【子季語】花房、花の輪、花片、花盛り、花の錦、徒花、花の陰、花影、花の奥、花の雲、花明り、花の姿、花の香、花の名残、花を惜しむ、花朧、花月夜、花の露、花の山、花の庭、花の門、花便り、春の花、春花、花笠、花の粧

【関連季語】桜、初花、花曇、花見、落花、残花、余花

【解説】花といえば桜。しかし、花と桜は同じ言葉ではない。桜といえば植物であることに重きがおかれるが、花といえば心に映るその華やかな姿に重心が移る。いわば肉眼で見たのが桜、心の目に映るのが花である。

【例句】
これはこれはとばかり花の吉野山  貞室「一本草」
なほ見たし花に明け行く神の顔   芭蕉「笈の小文」
花の雲鐘は上野か浅草か      芭蕉「続虚栗」

「一朶」=一枝

「ちり積」=「塵積」(ちりつも)だが、「ちり積(つ)みて」の詠みとする。
「山樵(やまがつ・さんしょう)」=樵(きこり、木樵)・樵夫(しょうふ)・「杣夫(そまふ)」。
「歳木樵(としきこり)」=「仲冬」(暮)の季語。

(例句)

おとろへや小枝も捨てぬとし木樵 蕪村「蕪村句集」

句意(その周辺)=木こりが、山の荷(伐り出した薪)を沢山背負って、山を下りてくる。その荷の一番上には、花が一枝添えられている。蕪村の「おとろへや小枝も捨てぬとし木樵」の「とし木樵」(冬)を「花一朶」(春)に反転している雰囲気で無くもない。

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

「職人尽歌合(しょくにんづくしうたあわ)/樵夫と草刈」

https://www.benricho.org/Unchiku/edo-syokunin/07-1769syokuninzukushiutaawase/01.html


4-42 はるの田や墨絵の馬の幾かへり

季語=「はるの田」=「春田」(三春)

「却走馬以糞」(前書)=「老子/ 道経/ 儉欲第四十六」の、「天下有道/却走馬以糞」(天下に道有れば/走馬を却(しりぞ)けて以って糞し=世の中で「道」が行われていると/伝令の早馬は追いやられて畑の耕作に用いられる)が、この前書の出典のようである。

http://sloughad.la.coocan.jp/novel/master/achaina/laozi/laozi46.htm

「幾かへり」=いくたび。なんべん。

幾かへり露けき春を過ぐしきて/花のひもとく折りに会ふらむ(『源氏物語』夕霧・藤裏葉442)

https://sakura-paris.org/dict/%E5%AD%A6%E7%A0%94%E5%8F%A4%E8%AA%9E%E8%BE%9E%E5%85%B8/content/129_856

句意(その周辺)=前書の「却走馬以糞(走る馬をしりぞけ、農耕馬の糞を以ってす)」、この「春田」の「墨絵」のような「馬」が、ひもすがら、「幾かへり」(いくたびも)、「春田」を耕している。(蛇足=この「春田」の、その「糞」も歓迎される「農耕馬」は、嘗ての、戦時には、戦場を駆け巡る「走馬」であったのだ。今、しみじみ、「江戸の太平の世」の、その「もののあはれ」というものを目の当たりにしている。)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

鏑木清方画「讃春(左隻)/昭和8年(1933)/6曲1双/絹本着色」(「三の丸尚蔵館」蔵)

https://www.kunaicho.go.jp/event/sannomaru/tenrankai70.html

https://nekoarena.blog.fc2.com/blog-entry-2780.html



≪左隻は隅田川に小舟を浮かべた水上生活者の情景です
赤い着物のおかっぱ頭の小さな女の子が船底を覗き、中から母親が
優しく見上げています。
金具も捲れた古い和船ですが、バケツには桜の枝が活けてあります。
遠くの清洲橋の吊橋型の橋がぼんやり浮かんでいます。
近代的な鋼鉄橋を、鏑木清方らしく浮世絵風にあしらっています。
舟には七輪が載っていて、火が起きています。
仁徳天皇の「民のかまどはにぎはひにけり」の故事に依っているのでしょう。≫



(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

鏑木清方画「讃春(左隻)」(部分図)/ 「三の丸尚蔵館」蔵

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第四 椎の木かげ(4-29~4-32) [第四 椎の木かげ]

4-29 市人の喧嘩やとしの川向ひ

季語=「としの川向ひ」=「年の瀬(せ=川)」(仲冬・暮・歳末・歳晩)など」(「都市」の「川向ひ)」=「川向こう」が掛けられている用例と解する。)

「喧嘩(水論)」も季語(仲夏)だが、ここは一群(4-29~4-32)の「歳末」の句として置きたい。

「望白馬津」(前書)=「白馬津(「白馬の戦い」と「延津の戦い」を「望む」)

https://three-kingdoms.net/26161

句意(その周辺)=前書の「「望白馬津」を、「三国志」の「白馬津(「白馬の戦い」と「延津の戦い」を「望む」)との、大袈裟の意に解して、「江戸八百八町」(「助六由縁江戸桜」の一節)の年の暮れの句意とする。

句意(その周辺)=百姓の「水喧嘩」と同じく、「川」(墨田川)の「西岸」(「いろは四十八組」の火消しが管轄する「江戸八百八町」)の「市人」(江戸の住人)は、「火事と喧嘩は江戸の華」とやらで、この年の暮れの忙しい最中にあっても、「三国志」の「白馬津の戦い」のように喧嘩ばかりしている。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html


「め組の喧嘩」(め組の喧嘩は、文化二年二月(1805年3月)に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件。講談や芝居の題材にされた)=「ウィキペディア」)

https://mag.japaaan.com/archives/166647



4-30 麓にも手を組む松や師走山

季語=「師走山」の「師走」(仲冬・暮・歳末・歳晩)」など)

「師走山」=「師走の山」=この「師走山」は、「待乳山聖天宮(まつちやましょうでんぐう)」の、「師走の待乳山」(下記の「東都三十六景 今戸橋真乳山」の「真乳山」)と解したい。

句意(その周辺)=「墨田川」と「山谷堀」との分岐点の「待乳山聖天宮・今戸橋」は、今、まさに、その「待乳山」は「師走山」と化して、その麓の「今戸橋」の傍らの「松」は、何やら、「手を組む(んで)」いるような光景である。(蛇足=この麓の「松」から通じている「山谷堀」の「日本堤」を上って行くと「吉原大門」に通ずる。さて、どうするか「手を組んで」いるのである。そして、それはまた、「望白馬津」なのである。)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html


「東都三十六景 今戸橋真乳山」(絵師:広重出版者:相ト)

https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail308.html?sights=matsuchiyamashodengu-imadobashi

「待乳山聖天宮・今戸橋 (まつちやましょうでんぐう・いまどばし)」

https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/matsuchiyamashodengu-imadobashi/

≪(解説) 待乳山は現在の隅田公園内にある小さい丘で、東に筑波山、西に富士山をのぞむことができた。本所・深川などが埋立てられる以前はこの山を入津の目標にしていたといわれ、付近の土を採って日本堤を築いたという言伝えもある。山上には聖天しょうでん宮が祀られ、商店・花柳界の信仰が厚かった。山の下にある今戸橋は山谷堀の最下流にかかっており、現在の浅草7丁目と今戸1丁目を結ぶ。≫



4-31 としの菊うち拂ふ袖のほこり哉

季語=「としの菊」=「師走の菊」(仲冬・暮・歳末・歳晩)」など)

「袖」=① 衣服で、身頃(みごろ)の左右にあって、腕をおおう部分。和服には、袂(たもと)の長さや形によって、大袖、小袖、広袖、丸袖、角袖、削(そぎ)袖、巻袖、元祿袖、振袖、留袖、筒袖などの種類があり、袂を含んでいうことがある。② 鎧(よろい)の付属具。③ 牛車(ぎっしゃ)の部分の名。

⑫ 小袖のこと。

※俳諧・独吟一日千句(1675)四「うたひ初とてまかり立声 広蓋に匂ひをふくむ花の袖」

⑬ 振袖のこと。また特に、振袖新造(しんぞう)をいう。

※雑俳・柳多留‐四八(1809)「本鬮(くじ)が三歩で袖が一歩也」

⑭ 「そでとめ(袖留)」の略。

※雑俳・柳多留‐三(1768)「しんぞうの袖も思へばこわいもの」(「精選版 日本国語大辞典」)

「ほこり(埃)」=① とび散る粉のようなごみ。細かいちり。② 数量や金銭などの余り。残余。はした。(「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=「菊・袖・埃」と、何とも平易な言葉だが、この三つの平易な言葉を連結する足掛かりが、これまた、何とも平易には見つからない。この「袖」は、「振袖新造」(15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。)の雰囲気もするのだが、ここは、前書の「望白馬津」に敬意を表して、この「ほこり(埃)」に着目し、「師走」の「十二月十三日」の「煤払い(すすはらい)・煤掃(すすはき)」の、「江戸城大掃除の日」の「一年間に溜まった煤や埃を掃き清めるとともに、邪気や穢れをも払うという意味の年中行事が行われる日」と関連させたい。

 すなわち、この翌日の「十二月十四日」は、「旧赤穂藩士・四十七士による吉良邸討ち入り事件」(浄瑠璃や歌舞伎では「仮名手本忠臣蔵」通称、「忠臣蔵」、講談では「赤穂義士伝」、「義士伝」)があった「望白馬津」の最大の「大喧嘩」の日なのである。

 そして、それは、後に、歌舞伎の「松浦の太鼓」の、その「両国橋の場」の、「雪の降る師走の江戸、俳諧の師匠宝井其角は両国橋で笹売りに身をやつしている赤穂浪士の大高源吾(仮名手本忠臣蔵では塩冶家浪人・大鷹文吾に相当)に偶然出会う」場面と重なってくる。

句意=今日は、「師走」の大掃除の十三日、吉原の「振袖新造」(「袖」)が、「菊」(「としの菊」)の「ほこり(埃)」を、その「袖の埃」を「打ち払う」ように、綺麗に飾り立てている。(蛇足=「仮名手本忠臣蔵(後の「松浦太鼓)」の、その「両国橋の場」での、宝井其角宗匠の「年の瀬や/水の流れと/ 人の身は」に、義士の大高源吾(俳号=子葉)が「明日待たるゝ その宝船」と唱和した場面が、しみじみと思い起こされてくる。)

(参考) 「松浦の太鼓(歌舞伎)」周辺

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html


「両国橋で出会う源五さん(左)と其角さん」(大石神社の絵馬より)

http://chushingura.biz/gisinews07/news203.htm

https://kabukist.com/matsuuranotaikokabuki-7035



「松浦の太鼓(歌舞伎)のセリフの謎は連歌にある!」


4-32 行年や何を遣手が夜念仏

季語=「行年」=行く年(ゆくとし)/暮(仲冬)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2740

【子季語】暮れ行く年、年逝く、年流る、流るる年、年浪流る、去ぬる年、年送る、年歩む

【解説】押し詰まった年末、忙しい日々の束の間に、過ぎ去ったこの年を思い浮かべる。また残り少なくなった暮れの日数にも感慨深いものがある。

【例句】

行く年や石噛みあてて歯にこたへ  来山「元禄七年歳旦牒」

行年や芥流る々さくら川      蕪村「夜半亭」

行年の脱けの衣や古暦       蕪村「落日庵」

行く年や空の青さに守谷まで    一茶「我春集」

「夜念仏」=「夜、念仏を唱えること。夜、唱える念仏。よねんぶつ。」

※謡曲・春栄(1435頃)「急いで来迎の夜念仏、声清光に彌陀の国の」

句意(その周辺)=「行く年・来る年」の「大晦日」の「吉原」は、「引け四ツ」(午前零時頃)が過ぎて客がいなくなると、若い者(妓牛)は、通りに門松を出し、注連縄(しめなわ)を飾るなど大忙しである。その最中、遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役をする「遣手(やりて)」が、何やら、一心不乱に「夜念仏」を唱えている。(蛇足=「行く年」の一年間の「望白馬津」の「あれこれ」を回想しつつ、「来る年」の「商売繫盛」を祈念しているのであろう。)

(参考一) 酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-12

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)

十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他

【もと六曲一双の屏風に各扇一図ずつ十二図が貼られていたものを、現在は十二幅の掛幅に改装され、複数の個人家に分蔵されている。吉原の十二か月の歳時を軽妙な草画に表わし、得意の俳句もこれまた達意の仮名書きで添えたもので、抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている。

 正月(元旦)「花街柳巷 雨華道人書之」の隷書体の題字に「元旦やさてよし原はしつかなり」の句。立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている。】

(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)


(参考二) 「廓の一日・吉原の正月」周辺

https://yahantei.blogspot.com/2023/01/1-11.html

(参考三) 「謡曲・春栄」周辺

http://www.tessen.org/dictionary/explain/shunnei
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