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第五 千づかの稲(5-11~5-14・5-15) [第五 千づかのいね]

    晩器改名朝四
5-11  いろ鳥の中によき名を鶫哉
5-12 しらぎくや籬(まがき)のうちの羽林軍
5-13  竜胆や慈鎮の菊の後に咲く
5-14 をり屑の堰(いせき)にかゝるもみぢかな

(「句意周辺」)

 この四句の前書の「晩器改名朝四」の「晩器」は、寛政九年(一七九七)十月十七日に抱一が出家して、その「出家得度答礼」の西本願寺などの挨拶のため、十一月三日より十二月十四日まで上洛した折に、抱一(等覚院文詮暉真)に同行した俳友(其爪・古櫟・紫霓・雁々・晩器)の中の一人である。
 この「晩器」については、下記のアドレスで、「享和から文化の頃にかけて、喜多川歌麿風の美人画や読本の挿絵などを描いている浮世絵師・恋川春政(晩器・花月斎・春政と号す)」ではないかとして、紹介した。

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-564-57.html

 続く、「晩器改名朝四」の「朝四」は、下記のアドレスで、「柳沢米翁」と共に、抱一の後見人の一人であるような関係にある「佐藤晩得」の俳号の一つなのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-03

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-12

佐藤晩得

没年:寛政4.10.18(1792.12.1)
生年:享保16(1731)

 江戸中期の俳人。通称,又兵衛祐英。堪露,北斎,朝四,木雁,哲阿弥なしたどを号す。居が向島牛島神社近くにあったので,半渚老魚,牛島庵とも称した。秋田角館の人。佐竹藩江戸詰留守居役を勤めた。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門。西山宗因の風を慕い,居室に「清談林」の額を掲げたという。谷菅井らと考えを同じくした。交流圏は広く,酒井抱一,柳沢信仰,十寸見蘭洲らと親交する。句集に七回忌刊行の『哲阿弥句藻』がある。多くの著作のうち,諸俳人の逸話を記した『古事記布倶路』は特に有名。(楠元六男)(「朝日日本歴史人物事典」)

晩器春政(恋川春政)  生没年未詳

 恋川春町の門人、または二代目春町の門人といわれる。北川や恋川の画姓を称し、晩器、花月斎、春政と号す。作画期は享和から文化の頃にかけてとされ、喜多川歌麿風の美人画や読本の挿絵などを描いている。

(作品)
『朝顔日記』十冊/読本/※雨香園柳浪作、文化8年(1811年)刊行 「北川春政」落款
「遊女」 絹本着色 光記念館所蔵 ※「晩器春政筆」の落款、「春」の朱文方印あり。那須ロイヤル美術館(小針コレクション)旧蔵
「懐紙を持つ芸妓図」 紙本着色 熊本県立美術館所蔵 ※「春政筆」の落款、「春」の朱文方印と印文不明の白文方印あり。(「ウィキペディア」)


5-11  いろ鳥の中によき名を鶫哉

(「句意」)

 季語は「鶫」(晩秋)。「いろ鳥(色鳥)」は「秋に渡ってくる美しい小鳥」のことで、季語(三秋)の働きをするが、この句では、例示的な用例で、季語的な働きは、「鶫」が主で、「いろ鳥」は従ということになる。
 句意は、「佐藤晩得の俳号の一つの『朝四』の継受者として、その候補者は、例えば、抱一の出家得度答礼の挨拶のため上洛した折に同行した『米翁・晩得(哲阿弥)』に連なる俳人の『其爪・古櫟・紫霓・雁々・晩器』は、何れも、それに値する「色鳥(美しい秋の小鳥)」だが、『朝四』(『朝四大尽』)の号には、「酒上不埒(さけのうえのふらち)」の狂歌名を有する『恋川春町』の門人でもある『晩器春政』の、俳人『晩器』が相応しい。」


5-12 しらぎくや籬(まがき)のうちの羽林軍

(「句意」)

 季語は「しらぎく(白菊)」(三秋)。「羽林軍」は「天子の宿衛をつかさどる役=近衛府(軍)=親衛隊」のこと。この「しらぎく(白菊)」は、「晩器」ではなく、「朝四=哲阿弥=佐藤晩得」を比喩ということになろう。
「句意」は、「『晩器改名朝四』の『改号祝い』を迎えるにあたって、その『朝四=哲阿弥=佐藤晩得』の『白菊』を護衛する『籬』の、その『羽林軍』(『近衛軍団』)の、何と、『隆々たることか」。』


5-13  竜胆や慈鎮の菊の後に咲く

(「句意」)

 季語は「竜胆」(仲秋)、この「慈鎮の菊」というのは、「いとせめてうつろふ色のをしきかなきくより後の花しなければ」(慈鎮和尚=慈円)、そして、それを踏まえての、芭蕉の「菊の後(のち)大根の外(ほか)更になし」(『陸奥鵆』)を念頭に置いての一句のように思われる。
 「句意」は、「『菊の花が散ってしまえばもはや花はない』(慈鎮和尚)、それをパロディ化して、芭蕉翁は、『菊の後(のち)大根の外(ほか)更になし』と反転させた。ここは、その両翁の歌と句に唱和して、『慈鎮の菊』の『哲阿弥(佐藤晩得・前号『朝四』)』和尚の、その『朝四』の号を引き継ぐ『晩器(春政)』は、『芭蕉翁の大根』の風味謳歌ではなく、楚々と咲く『竜胆の花』に例えられる。」


5-14 をり屑の堰(いせき)にかゝるもみぢかな

(「句意」)

 この上五の「をり屑の」の「をり」というのが、一見して誤記のたぐいかと難儀したが、これは「澱・滓(おり・をり)」(水底・水中の沈殿物)の意に解したい。「堰(いせき・ゐせき)」は、「水を他へ引いたり流量を調節したりするため、川水をせきとめる所。せき。い」(「デジタル大辞泉」)。

 「句意」は、「水中・水底の『澱(おり)・滓(かす)・屑(くず)』を堰き止める『堰(せき)』に、『紅葉(もみじ)』(晩秋の季語)の葉が引き掛かって、それが、一際、晩秋の風情を漂わせている。(そして、この『紅葉』こそ、混沌として澱(よど)んだ今の俳諧の世界に、一石(いっせき)を投ずるであろう、吾らの『東風流(あずまぶり)』俳諧の、枢要な名跡『朝四』(『哲阿弥晩得』の号)を引き継ぐ、若き『晩器(春政)』と見立てても良かろう。)」

(参考一)

『吉原大通会』(「恋川春町の自画・自作の黄表紙(絵入りの草双紙)」)に見る「天明狂歌壇」の面々と「佐藤晩得」(「朝四大尽」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-03

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/04/5-115-145-15.html

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)10/20

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509


(メモ)

(『吉原大通会』関連)

https://blog.goo.ne.jp/edomanga/e/1e80b15744cccdfbf5696358b123f7d2

(上記の図の「上段右から左」の順・下記の※印)

※手柄岡持(狂名:てがらのおかもち)=享保二〇~文化一〇年(一七三五‐一八一三)。江戸後期の戯作者。狂歌師。秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役、佐藤晩得の後任者)。別号に朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)。寛政の改革の時、君侯の命で筆を絶っている。この『吉原大通会』の主役(「すき成」)として登場し、上記の図の場面は、天通(恋川春町)の神通力で、大文字屋で狂歌会をやっていたメンバーを、「天通とすき成」が居た菊場屋(松葉屋か?)に引き連れて来て、「それがし、つりが『すき成』なれば、「手がらの岡もち」(手柄岡持)と名をつきましょう」との科白を吐いている。普通の格好をしているのは、唐丸と岡持の二人だけで、この二人は、春町(天通)と一緒に、菊場屋(松葉屋?)に居たような感じである。

※四方赤良(狂名:よものあから)=寛延二~文政六年(一七四九‐一八二三)、江戸後期の狂歌師。洒落本、滑稽本作者。別号に大田南畝(おおたなんぽ)、蜀山人(しょくさんじん)、寝惚(ねぼけ)先生など。江戸幕府に仕える下級武士。上記の図は、漏斗(ろうと・じょうご)を頭に載せているようである(脳から狂歌を注ぎたい洒落か?)唐丸が「春さんが」と赤良に問い掛けると「春とは誰だ。恋川春町か」と唐丸に問い質している。

※元木綱(狂名:もとのもくあみ)=享保九~文化八年(一七二四‐一八一一)。江戸後期の狂歌師。湯屋を業とした。狂歌最古参の一人。その門下を落栗連と称した。上記の図は「(赤良の格好を見て)さすがに趣向の人だね。当方は名前のとおり普段のままだ」と頭に手をやっている。

※朱楽菅江(狂名:あけらかんこう)=元文三~寛政一〇年(一七三八‐一七九八)、江戸後期の狂歌師、洒落本作者。江戸生まれた幕臣。上記の図は天神様の格好のようで、清盛風の酒盛入道常閑に向かって、上記の図は「襟巻は良いが、掻巻は似合わないね」とケチをつけている。

※紀定丸(狂名:きのさだまる)=宝暦十~天保十二年(一七六〇-一八四一)、四方赤良の甥。幕臣で精励な能吏で旗本となった。上記の図は「何時も気が定まらず、思案に暮れている」と自嘲している。

※大腹久知為(狂名:おおはらくちい)=『徳和歌後満載集(一巻)』(四方赤良編著)に「大原久知位」で一首、『同(九巻)』に「大原久知為」で一首、『同(巻十)』に「大原久ちゐ」で一首、計三首の狂歌が収載されている。上記の図は「おお原くちいから、お茶でいこう。眠い。眠い」とぼやいている。

※酒盛入道常閑(狂名:さかもりにゅうどうじょうかん)=未詳。上記の図は「(菅江が常閑の襟巻は褒め、掻巻にはケチを付けたので)菅江の袖頭巾の梅は良いが、水仙はお粗末だ」とお返しをしているようである。

(上記の図の「下段左から右」の順・下記の△印)

△平原屋東作(狂名:へいげんやとうさく)=享保十一~寛政元年(一七二六‐八九)。「平秩東作(へずつとうさく)の名で知られている。内藤新宿で家業の馬宿、たばこ商を営んだ。幕府の事業にも手をそめるが、寛政の改革により、幕府の咎めを受ける。上記の図は「(煎餅袋を逆さに被って)へいげん屋東作にあらず、べいせん屋頓作の座興だ」とソッポを向いている。

△蔦唐丸(狂名:つたのからまる)=寛延三~寛政九年(一七五〇‐九七)、蔦屋重三郎、江戸中期の地本問屋、蔦屋の主人。通称蔦重(つたじゅう)。上記の図は「狂歌より、どうか一幕の狂言をお書きください」と硯と紙を差し出している。他の登場人物は全員仮装しているのだが、後から駆けつけて来て普通の格好をしている(普通の格好は「手柄岡持」との二人のようである)。

△加保茶元成(狂名:かぼちゃのもとなり)=宝暦四~文政十一年(一七五四-一八二八)、江戸新吉原の妓楼大文字屋の初代村田市兵衛の養子となる。天明狂歌壇の一翼として活躍し、吉原連を主宰した。上記の図は「人さまに見せない『加保茶元成』振りは、先代が歌って踊ったとおりです」と、顔を覆面で覆っている。この集まりは、当初、加保茶元成の大文字屋での各人が扮装しての狂歌会だったのだが、菊場屋(松葉屋の仮名?)に居た恋川春町と手柄岡持が、二次会にと大文字屋から菊場屋へと場所を移させたようである。

△腹唐秋人(狂名:はらからのあきんど)=宝暦八~文政四年(一七五八~一八二一)、狂歌を大屋裏住に学び本町連に入り、中井董堂(なかいとうどう)の号で書家としても知られている。上記の図は「俺の着ているのは、竜紋という上等の絹物だ」と嘯いている。

△大屋裏住(狂名:おおやのうらずみ)=享保十九~文化七年(一七三四‐一八一〇)。江戸中期の狂歌師。号は萩廼屋(はぎのや)。江戸で更紗染屋から貸家を業とした。手柄岡持(朋誠堂喜三二)や酒上不埒(恋川春町)らの属している本町連を主宰している。上記の図は「土の車の吾らまで、かかる時節に大屋裏住」と能「土車」の科白を吐いている。

(上記図には登場しない。)

〇恋川春町=延享元~寛政元年(一七四四‐八九)、 狂名:酒上不埒(さけのうえのふらち)。

江戸中期の黄表紙作者、狂歌師。駿河小島藩士。寛政の改革を風刺した「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)」に関わる召喚に出頭せず、その年死んだことから、自殺説も伝えられる。上記の図には登場しない(上記の図は大文字屋(一次会)から菊場屋(二次会:松葉屋の仮名か?)に会場を移しての場面で、その菊場屋の別室で『吉原大通会』を書いているか?)。この『吉原大通会』では、「天狗が化けた通人=天通」として登場している。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/04/5-115-145-15.html

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)5/20
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509


〇荻江露友(「おうぎ江西林」の名で登場)と佐藤晩得(佐藤晩得=朝四=朝四大尽、ここでは「蝶四といふ大通」の名で登場))

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/04/5-115-145-15.html

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)14/20

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

この場面は、天通(恋川春町)の神通力で、当時の名のある大通(吉原通いの大通人=お大尽)を一同に集めて、「荻江節」(吉原の遊郭で座敷歌風に三味線に合わせて唄う長唄=めりやす=長唄の短い独吟物)が、その創始者・荻江露友(「おうぎ江西林」の名で登場)によって、その「九月がや」(作詞家・佐藤晩得=朝四=朝四大尽、ここでは「蝶四といふ大通」の名で登場)が披露されている場面のようである。

 上記の図の花魁の右脇の立膝をしている方が、初代荻江露友のようで、その右脇の三味線を弾いているのは芸者衆であろう。そして、その芸者衆から左周りに花魁まで大通(お大尽)衆が並び、中央の荻江露友と正面向きになっている武士風の大通は、蝶四(朝四大尽=佐藤晩得)のように思われる。この場面は、荻江節の初代荻江露友より、自分の作詞した「九月がや」の節付けなどの指導を受けているように解して置きたい。

 そして、この初代荻江露友(作曲家)と佐藤朝四(作詞家)を囲んでの大通(お大尽)衆は、「吝株(しわかかぶ)の貧通(ひんつう)は大費とぞ惜しみける」などの、この『吉原大通会』の作者・恋川春町の文章を見ると、そもそも、この戯作の『吉原大通会』の「大通」は、「大通人」(吉原に精通している大通人)を意味していて、ここでは、「荻江節愛好大通人」と解した方が、上記の図を理解するのには良いのかも知れない。


荻江露友(おぎえろゆう)→荻江節の家元名。

初世

(?―1787)荻江節の創始者。初名は千葉新七といって津軽藩士千葉源左衛門の子、のちに長谷川と改姓し泰琳(たいりん)と号した。長唄(ながうた)の初世松島庄五郎(しょうごろう)の門弟であったといわれているが、師弟であるとの証拠はない。1766年(明和3)11月より市村座に出勤、当時の名人富士田吉次(ふじたきちじ)と並び称されたが68年8月に引退、1年9か月の芝居勤めであった。一般的には小音で劇場長唄向きではなかったとの説が有力であるが、67年に立(たて)三味線の錦屋総治(にしきやそうじ)、西川奥蔵(おくぞう)が隠退したことに関係があるのではないかという説もある。
 市村座を去ってから、新吉原でお座敷長唄を創始、これが流行になって荻江節の名を残した。右手に扇を持って縦に構え、左の足を立てて立膝になり、左手で左の耳のあたりを押さえて謡う癖があったという。[林喜代弘・守谷幸則](「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

≪初代露友はめりやす作曲もやっていて、佐竹藩留守居役の佐藤朝四の作詞「九月がや」、山東京伝作詞の「素顔」、大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻作詞の「賓頭盧」(びんずる)の節付けをしたことが知られている。(注)「めりやす(メリヤス)」=「節付け」のこと。≫


(参考二) 「晩器春政」(恋川春政)周辺

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/04/5-115-145-15.html

絵師:晩器春政/作品名:diptych print/日付:1800-1820 (floruit)/情報源:大英博物館/画題等:Woodblock print, diptych. Popular culture. Young man and young woman rousing another girl who has fallen asleep in a norimonot(「駕籠の女を起こす男女」の部分拡大図:「晩器筆」)

https://ja.ukiyo-e.org/image/bm/AN00602864_001_l


5-15 落葉して都の見ゆる庵かな

 この句は、『日本俳書体系第一四(近世俳話句集)』では、「晩器改名朝四」の前書のある四句(5-11・いろ鳥の中によき名を鶫哉/5-12 ・しらぎくや籬(まがき)のうちの羽林軍/5-13 ・竜胆や慈鎮の菊の後に咲く/5-14・ をり屑の堰(いせき)にかゝるもみぢかな)と同列の一句とされているのだが、「日本名著全集刊行会」所収本『俳文俳句集』所収の「屠龍之技」では、独立の一句として掲載されている。

 ここでは、この一句は、「晩器改名朝四」の前書に掛かる句というよりも、この「晩器改名朝四」当時の、抱一自身の心境を吐露した一句として解して置きたい。

(「句意」周辺)

 この句の四句の前書の「晩器改名朝四」というのは、抱一自身の、一方的な前書で、必ずしも、この前書の「晩器改名朝四」の、その当事者の「晩器」は、「朝四」(「朝四大尽」)という枢要な名跡は辞退して、「朝四」(抱一)の前座名の「朝三」(晩器)を名乗っているようにも、抱一の、この自撰句集の『屠龍之技』などからも窺えるようなのである。

 「朝三いつのとしか予と京師に遊ぶ。
  ことし又、心牛にいざなわれて花洛 
  におもむく。その餞として」
当て来よ大和路かけて二の替り   (第八 花ぬふとり)
島一つ梭(しゅん)を投たりいとざくら(第八 花ぬふとり)

 これらのことは、寛政十年(一七九八)の、抱一自身の「句藻」で、次のように記していることからも窺い知れる。

  師((晩得=朝四)にあつ(づ)かり置ける予(抱一)が朝四の名を/
素兄(晩得の息)にかへすとて
預りをお復(かへ)し申(し)鉢の柿

  素兄朝四の名を晩器に譲る
色鳥の中で能き名を鶫かな

 即ち、「晩器」は「朝四」に改号したのではなく、「抱一」(「朝四」の継受者)そして、「素兄」(晩得=朝四の息)から、由緒のある「朝四」を継受するような誘いがあったのだが、その「朝四」は「抱一」(晩得からの継受者)のままとし、その前座役のような「朝三」を改号後の俳号としているようにも解せられるのである。

 この「朝三」を前書とする抱一の句は、これ以後の「軽挙館句藻」に、しばしば見られるところのもので、「朝四」の号は見受けられなくなってくる。そして、「晩得」の号は、文政七年(一八二四)、抱一の晩年の六十四歳時の「軽挙館句藻」に、その「息(継嗣)・素兄」が継受された句が遺されている。

  素兄父の名にあらため晩得と名のる
 葛餅や親の名て(で)御師龍大夫

 この「素兄」(晩得の息)と「抱一」との関係というのは、寛政八年(一七九六)、抱一、三十六歳時の、『江戸続八百韻』(「序」=抱一=墨陽庭柏子、「跋」=「米翁の息・保光=月邨所)、「連衆」=「大虎(千秋館)・素兄(清談林)・雁々(繍虎堂)」との四吟」時に遡ることになる。

 ここで、その翌年に、抱一が出家して、その得度の答礼挨拶を兼ねての上洛した折、同行した俳友(其爪・古礫・紫霓・雁々・晩器)の、その一人の「雁々」は、「酒井家の家臣・荒木家某」と紹介されている(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)。

 そして、ここで、改めて、「晩器改名朝四」の、「佐藤晩得」の「朝四」の号は、「朝四・暮三」・「朝三・暮四」(「詐術で人を愚弄(ぐろう)すること。中国、宋(そう)に狙公(そこう)という人があり、自分の手飼いのサル(狙)の餌(えさ)を節約しようとして、サルに「朝三つ、夕方に四つ与えよう」といったら、サルは不平をいって大いに怒ったが、「それでは朝四つ、夕方三つにしよう」というと、サルはみな大喜びをした、と伝える『列子』「黄帝篇(へん)」の故事による。このエピソードに続けて、「聖人の智(ち)を以(も)って愚衆を籠絡(ろうらく)するさまは、狙公の智を以って衆狙を籠するが如(ごと)し」とある。転じて、目先の差別のみにこだわって、全体としての大きな詐術に気づかぬことをいう。[田所義行]」(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

「句意」は、「『晩器改名朝四』」の改号は、晩器は、『朝四・暮三』の『朝四』でなく、『朝三・暮四』の、その『朝三』に改号すると謂う。そして、『朝四』は、『千束の隠士・抱一堂屠龍=抱一』のままと謂う。思えば、出家して上洛した折りに、晩器などとの、あの『俳諧(洒落俳諧)の旅路』が、今、こうして、落葉して見える『江戸の都』から『夢に描いていた京の都』の、そのあれかこれかを、あたかも、『朝三・暮四/朝四・暮三』の思いで回想している。」
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