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第一 こがねのこま(1-5) [第一こがねのこま]

1-5 かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度(たび)

陽炎(かげろう、かげろふ)=三春。子季語に「野馬(かげろふ・やば)・糸遊・遊糸・陽炎燃ゆ・陽焔・かげろひ・かぎろひ」。

陽炎や柴胡(さいこ)の糸の薄曇    芭蕉「猿蓑」
かげろふに寝ても動くや虎の耳     其角「其角発句集」
野馬(かげろふ)に子共あそばす狐哉  凡兆「猿蓑」
陽炎や名もしらぬ虫の白き飛(とぶ)  蕪村「蕪村句集」
かげろふや簣(あじか)に土をめづる人 蕪村「蕪村句集」

 この二句目の「かげろふに寝ても動くや虎の耳」(其角)の「かげろふ」は、「かげろふ(陽炎)=三春」か「かげろふ(蜉蝣=初秋)・かげろふ(蜻蛉=三秋)」か、それとも、「陽炎と蜉蝣・蜻蛉」とが掛詞になっているのかと、いろいろと悩ましい、これまた「謎句」的な仕掛けのある句なのであろう。
 この句には、「四睡図」という前書が付してあり、『其角発句集(坎窩久臧考訂)』では、「豊干禅師、寒山、拾得と虎との睡りたる図」との頭注(同書p180)がある。 
 其角が、どういう「四睡図」を見たのかは定かではないが、実は、其角の師匠の芭蕉にも、次のような「四睡図」を見ての即興句が遺されている。

 月か花かとへど四睡の鼾(いびき)哉  ばせお (真蹟画賛、「奥羽の日記」)

 この芭蕉の句は、「おくの細道」の「羽黒山」での、「羽黒山五十代の別当・天宥法印の『四睡図』の画賛」なのである。

画像 → https://yahantei.blogspot.com/2022/10/1-5.html


芸阿弥(室町時代)「四睡図」(部分拡大図)(「ウィキペディア」)

画像 → https://yahantei.blogspot.com/2022/10/1-5.html

長沢芦雪筆(18世紀)「四睡図」(部分図)(「ウィキペディア」)

画像 → https://yahantei.blogspot.com/2022/10/1-5.html 


菱川師宣(1701年)「四睡図」(部分図)(「ウィキペディア」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%9D%A1%E5%9B%B3

 其角の「かげろふに寝ても動くや虎の耳」の「虎の耳」は、芭蕉の「月か花かとへど四睡の鼾哉」の「四睡図」に描かれている「虎の耳」を背景にしているのかも知れない。と同時に、この其角の句は、同じく、芭蕉の、その『猿蓑』に収載されている「陽炎」の句の、「陽炎や柴胡(さいこ)の糸の薄曇」をも、その背景にしているように思われる。
 この「柴胡(さいこ)の糸」というのは、薬草の「セリ科の植物のミシマサイコの漢名、和名=翁草」で、その糸ような繊細な「柴胡」を、「糸遊」の別名を有する「陽炎」と「見立て」の句なのである。
 そして、其角は、芭蕉の、その「糸ような繊細な『柴胡』=「陽炎」という「見立て」を、「かげろふ」=「陽炎」=「薬草の糸のような柴胡」(芭蕉)=「蜉蝣(透明な羽の薄翅蜉蝣・薄羽蜉蝣・蚊蜻蛉)」(其角)と「見立て替え」して、「蕉風俳諧・正風俳諧」(『猿蓑』の景情融合・姿情兼備の俳風)から「洒落風俳諧」(しゃれ・奇抜・機知を主とする俳風)への脱皮を意図しているような雰囲気なのである。

(『猿蓑』の「陽炎」の句)

陽炎や/取つきかぬる雪の上      荷兮(かけい)
かげろふや/土もこなさぬあらおこし  百歳
かげろふや/ほろほろ落る岸の砂    土芳
いとゆふのいとあそぶ也虚木立(からきだて) 伊賀 氷固(ひょうこ)
野馬(かげろふ)に子共あそばす狐哉     凡兆
かげろふや/柴胡の糸の薄曇      芭蕉

(「洒落風」其角俳諧)

かげろふに寝ても動くや虎の耳     其角「其角発句集」
かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度 抱一『屠龍之技』

1-5 かげろふや野馬(のうま)の耳の動く度(たび)

 句意=「陽炎(かげろう)」が立つ野辺に、「かげろう(野馬)」の異名をもつ「野馬(のうま・やば)」が「四睡図」の虎のように寝入っていて、その耳に「かげろう(蜉蝣)」が止まるのか、時折、耳を動かしている。

(参考)英一蝶の「風流四睡図」周辺

画像 → https://yahantei.blogspot.com/2022/10/1-5.html

「風流四睡 英一蝶」(「ウィキメディア・コモンズ、フリーメディアリポジトリ」)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%A2%A8%E6%B5%81%E5%9B%9B%E7%9D%A1_%E8%8B%B1%E4%B8%80%E8%9D%B6.jpg

 其角の畏友「英一蝶」は、「四睡図」の「豊干禅師」=「花魁(おいらん)」、「寒山・拾得」=「二人の禿(かむろ)」、「虎」=「猫」に「見立て替え」して、「風流四睡図」を描いている。其角が、この「風流四睡図」に画賛をすれば、次のような句になる。

かげろふに寝ても動くや猫の耳
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第一 こがねのこま(1-4) [第一こがねのこま]

1-4 うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの 

 梅=初春。「うめ(梅)が香」=梅の匂い、梅(親季語・季題)の子季語(傍題)。「梅が香や」の「上五や切り」の例句に、次のような句がある。

梅が香やしらら落窪京太郎        芭蕉(『忘梅』)
梅がゝやひそかにおもき裘(かはごろも) 蕪村(安永六年書簡)
梅が香やどなたが来ても欠茶碗  一茶(『文化句帖』)
梅が香や乞食の家ものぞかるゝ  其角(『五元集』)
梅が香や隣りは荻生惣右衛門   其角(?『江戸名所図会」)

 其角の「梅が香や乞食の家ものぞかるゝ」の句には、「遊大音寺」(大音寺ニ遊ブ)との前書きがある。この句に関連して、次のアドレスで、下記のように解説している。

http://kikaku.boo.jp/shinshi/hokku10

『  んめがゝや乞食の家も覗かるゝ
 「んめがゝ」は「梅が香」。現在、大音寺は台東区下谷竜泉寺の町中にありますが、当時は吉原遊郭の裏手で、江戸郊外の田圃の中のあったという事です。其角にとっては、大音寺は読み書きなどを習うために、通いだったか寄宿してだったか分かりませんが、10歳頃に入学した「寺子屋」であったようで、久しぶりに訪れたのかも知れません。町から外れたこの付近は、乞食の住む小屋も多くあって寂しげなところかと思われますが、土地勘があっての散策だったのでしょう。野梅の馥郁な香が伝わってきます。
 この句は「梅が香」という雅な縦の題材を「乞食」と取り合わすことで、其角らしい感性で俳化しています。「雁・鹿・虫とばかり」和歌と俳諧との本質の違いに悩んだ入門から、既に八年、俳諧を自家薬籠中の物にした其角の姿が目に浮かびます。』(「詩あきんど」)

 同じく、其角(?)の句とされている「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」は、下記のアドレスで、『江戸名所図会」に記述されている「俳仙宝晋斎其角翁の宿」に関連しての原文が紹介されている。

https://yeahscars.com/kuhi/ogyusoemon/

『 「江戸名所図会」(天保年間)に「俳仙宝晋斎其角翁の宿」があり、
「茅場町薬師堂の辺なりと云い伝ふ。元禄の末ここに住す。即ち終焉の地なり。按ずるに、梅が香や隣は萩生惣右衛門という句は、其角翁のすさびなる由、あまねく人口に膾炙す。よってその可否はしらずといえども、ここに注して、その居宅の間近きをしるの一助たらしむるのみ。」
 とある。現実に、荻生惣右衛門(荻生徂徠)が、其角の住んでいた場所の隣に蘐園塾を開いたのは、其角の死後2年が経過した1709年である。其角と荻生徂徠に面識はないという。
今ではこの句は、杉山杉風の弟子である松木珪琳のものだと言われている。けれども、「隣りは荻生惣右衛門」と詠まれたあたりは、其角を意識してのものだと言えるだろう。
 其角の「梅が香や…」の句には、「梅が香や乞食の家も覗かるゝ」(一茶の句)がある。現在になってこの2句を併せて鑑賞するなら、将軍吉宗に仕えた学者の、「徂徠豆腐」で知られる倹しい一面が、面白く浮かび上がってくる。』

画像 → http://yahantei.blogspot.com/2022/10/1-4.html

『江戸名所図会』所収「茅場町薬師堂」(江戸名所図会 7巻. [2] 24/49頁) (国立国会図書館デジタルオンライン)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563381/25

 この『江戸名所図会』の次頁(25/49頁)の記述文の中に、「隣りは荻生惣右衛門」の句が出て来る。この「茅場町薬師堂」(24/49頁)の句は、「夕やくし涼しき風の誓いかな」である。

http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/chisenin/

「 『江戸名所図会』には「薬師堂、同じく御旅所の地にあり、本尊薬師如来は、恵心僧都の作なり、山王権現の本地仏たる故、慈眼大師勧請し給ふといへり、縁日は毎月八日、十二日にして、門前二・三町の間、植木の市立てり、別当は医王山智泉院と号す」とあります。
歌人で芭蕉十哲の一人、其角が境内地に住んでおり、
夕やくし涼しき風の誓いかな
の句をよんでおります。 」(「鎧島山 智泉院(通称:茅場町のお薬師さま)」)

 この其角の「夕やくし涼しき風の誓いかな」は、百万坊旨原編の『五元集』『五元集拾遺』(『俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』)には収載されていず、『其角発句集(上)(坎窩久臧 考訂)(名家俳句集)』に収載されている。それには、頭注があって、「夕やくし」=「薬師には夜の参詣多きより夕薬師といふ」とある(『同書』p220)。

 ついでに、芭蕉の句の「梅が香やしらら落窪京太郎」の「しらら・落窪・京太郎」は、「浄瑠璃『十二段草子』姿見の段に「よみけるさうしはどれどれぞ、こきん(古今)・まんやう(万葉)・いせものがたり(伊勢物語)・しらら(散佚=さんいつ)物語=とりかへばや物語)・おちくも(落窪物語)・京太郎(京太郎物語)」の「とりかへばや・おちくぼ・京太郎」物語のことのようである(『松尾芭蕉集一・全発句(井本農一・堀信夫校訂)』)。
 ここで、いよいよ、抱一の、「1-4 うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの」の句であるが、この句もまた、抱一が私淑して止まない「宝井(榎本)其角」の、次の句の、「本歌取り(和歌・連歌・狂歌)・本説取り(漢詩文)・本句取り(俳諧・連句・発句・俳句・狂句・川柳)」なのである。

  周防どのは才ある人にて、政事行るゝに一生非なし。
  ひなき(火無き)をめでゝ、板くら(板倉)どのと
  申とかや、この中より、やけたる銭をひろひ出て
 火燵(こたつ)から青砥(あをと)が銭を拾ひけり  (其角『五元集』)

 この「其角」の句は、百万坊旨原編の『五元集』にも、坎窩久臧考訂の『其角発句集(冬之部)』にも収載されている。この坎窩久臧考訂の『其角発句集(冬之部)p253』の、この句の頭注には、「板倉殿の冷火燵といふ諺をさせり」とある。
 この「板倉殿の冷火燵といふ諺」は、「火の気の無いこたつの洒落。板倉殿(板倉周防守)の政務には非難される点が無いことから、『非がない』と『火がない』とをかけてのもの」ということになる。
 ちなみに、この句の「青砥が銭」とは「十文の銭を五十文使って探した、という青砥藤綱の故事をふまえている」と、何とも、其角の句というのは、いわゆる「謎句(付け)」の「謎掛のような仕掛けのある句」の連続なのである。

1-4 うめが香や爰(ここ)の炬燵も周防どの 

句意=梅の匂いが春を告げている。だが、まだ、炬燵は離せない。しかし、この家の炬燵も火のない「周防殿の冷炬燵(ひえこたつ)=板倉炬燵」だ。

句意周辺=「周防どの」とは、「京都所司代周防守板倉重宗」のこと。その「板倉殿(板倉周防守)の政務には非難される点が無いことから、『非がない』と『火がない』とをかけてのもの」ということになる。そして、この上五の「うめが香や」と中七の「爰の炬燵も」の「も」の措辞は、やはり、其角の句として夙に名高い「梅が香や隣りは荻生惣右衛門」の「荻生徂徠」の「徂徠豆腐」などが背景にあるのであろう。

(参考) 徂徠豆腐 (「ウィキペディア」)

https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%82%E5%BE%A0%E8%B1%86%E8%85%90

 落語や講談・浪曲の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話である。江戸前落語では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。
 ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。
 法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」 と法の道理を説いた。さらに「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。
 これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる。
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第一 こがねのこま(1-3) [第一こがねのこま]

1-3 築山の戸奈背にをつるやなぎかな

 柳(やなぎ)=晩春。築山=庭園に山をかたどって小高く土をつみ上げた所。戸奈背=戸無瀬=戸難瀬=京都市西京区嵐山、渡月橋の上流の古地名。紅葉の名所。歌枕。※恵慶集(985‐987頃)「大井河かはべの紅葉ちらぬまはとなせの岸にながゐしぬべし」

となせ(戸無瀬)の滝=※散木奇歌集(1128頃)冬「となせよりながす錦は大井河いかだにつめるこのはなりけり」

句意=この築山は、歌枕の、京都市西京区嵐山、渡月橋の上流の「戸奈背=戸無背」の「となせの滝」を模して作庭されている。その「となせの滝」に、あたかも、その傍らの柳が落下するように、風に靡いている。

句意周辺=この句の背景には、「築山殿と松平信康の悲劇」などが隠されているのかも知れない。

https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/miryoku/naotora/pr/plus/07_20160817.html

「築山殿と松平信康の悲劇」

 築山殿は、駿府(静岡市)にて今川家の重臣・関口刑部親永(せきぐちぎょうぶちかなが)と井伊直平(井伊直虎の曽祖父)の娘との間に生まれ、直盛(直虎の父)や直親のいとこにあたるとされています。
今川義元の政略で松平元信(のちの徳川家康)に嫁ぎ、永禄2年(1559年)には長男である松平信康を出産。しかし、生まれてすぐに信康は今川家の人質として駿府で過ごすこととなります。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、家康は混乱に乗じて岡崎城に入城。名実ともに岡崎城主となると、築山殿と人質になっていた信康も岡崎城に移り住みます。永禄5年(1562年)には織田信長と清州同盟を結び、今川家と敵対関係になります。そして永禄10年(1567年)、9歳となった信康は信長の娘・徳姫と結婚します。
 元亀元年(1570年)、家康が浜松城に移ると、信康は岡崎城主となりますが、天正7年(1579年)、信康に悲劇が襲いかかります。悲劇のきっかけは徳姫が織田信長に送った12ヶ条の訴状だったと言われています。この訴状には、「築山殿が武田勝頼と内通している」といった内容が記されていたとされていて、この内容に織田信長が激昂。築山殿と信康の処刑を要求しました。熟慮の末、信長との関係を重視し、身を切る思いで、築山殿の殺害と信康の切腹を命じました。築山殿は徳川家臣によって佐鳴湖畔で殺害され、信康は二俣城(天竜区二俣町)で自害しました。

(画像)

https://yahantei.blogspot.com/

「築山殿/瀬名姫」(つきやまどの/せなひめ)(「ウィキペディア」)
生誕 不明
死没 天正7年8月29日(1579年9月19日)
別名 築山御前、駿河御前
配偶者 徳川家康
子供 徳川信康、亀姫
親 父∶関口親永

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第一 こがねのこま(1-2) [第一こがねのこま]

1-2 から笠のほねのたくみも柳哉

 柳(やなぎ)=晩春。
わがせこが見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも 大伴坂上郎女『万葉集』
見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春に錦なりける 素性法師『古今集』
青柳の糸よりかくる春しもぞ乱れて花のほころびにける 紀貴之『古今集』
傘(からかさ)に押しわけみたる柳かな 芭蕉「炭俵」
傾城の賢なるはこの柳かな       其角「五元集」
梅ちりてさびしく成しやなぎ哉     蕪村「蕪村句集」
恋々として柳遠のく舟路かな      几董「井華集」

 から笠(唐笠)=江戸時代に入ってからで、白の和紙に桐油(とうゆ)を引いたのが始まりで、その粗雑なものを番傘とよんだ。のちに家紋をつけたりし、傘の周囲を紺で染めたものを蛇の目傘、それより細身で高級品のものを紅葉(もみじ)傘といい、握りには籐(とう)を巻いたり、骨を糸飾りにしたりして粋筋(いきすじ)の間で流行した。
傘にねぐらかさうやぬれ燕  其角『虚栗』

柳に風=柳が風に従ってなびくように、少しも逆らわないこと。また、巧みに受けながすこと。※雑俳・如露評万句合‐宝暦九(1759)「いつ見ても柳に風の夫婦中」

句意=唐笠の骨の仕組みは、実に巧みに出来上がっている。それは、丁度、「柳に風」のごとく、巧みに、従順な働きをしている。抱一の句作りの要諦は、江戸座俳諧の元祖の宝井其角の句をいかに「柳(其角)に風(抱一)」ごとく、咀嚼して、さりげなく一句にしているかどうかにかかっている。

柳図.jpg

鈴木其一筆「柳図扇」一本(柄) 酒井抱一賛 太田記念美術館蔵
一六・六×四五・五㎝
【 軽やかに風に揺れる柳が描かれる。抱一による賛は「傾城の賢なるはこれやなきかな 晋子吟 抱一書」。晋子(しんし)とは、芭蕉の門弟の一人で江戸俳座の祖である其角のこと。この句は『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)などで京都の遊郭、島原を形容する際に用いられており、江戸時代後期にはよく知られていたと思われる。本扇面は、当時の吉原文化の一翼を担った抱一とその弟子其一の、粋な書画合筆による。賛のあとに抱一の印章「文詮」(朱文瓢印)が捺される。画面右に其一の署名「其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。なお、其一の弟子入りの時期と抱一没年から制作期は文化十年(一八一三)から文政十一年(一八二八)の間と考えられる。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

(参考) 「藤図扇子」(其一筆・抱一賛・其角句)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-25

抱一の賛の其角の句「傾城の賢なるはこれやなきかな」は、『五元集(旨原編)』では「傾城の賢なるは此柳かな」の句形で収載されている。この其角の句が何時頃の作なのかは定かではない。『都名所図会』(安永九年<一七八〇>刊)で京都の遊郭、島原を形容する際に用いられているということは、其角の京都・上方行脚などの作なのかも知れない。

 闇の夜は吉原ばかり月夜哉   (天和元年=一六八一、二十一歳)
 西行の死出路を旅のはじめ哉  (貞享元年=一六八四、二十四歳、一次上方行脚)
 夜神楽や鼻息白し面の内    (元禄元年=一六八九、二十八歳、二次上方行脚)
 なきがらを笠に隠すや枯尾花  (元禄八年=一六九四、三十四歳、三次上方行脚)

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第一 こがねのこま(1-1) [第一こがねのこま]

第一 こがねのこま
1-1 うぐひすは鳴ともかたし腰瓦 

 鶯(うぐいす、うぐひす)=三春。
鶯の谷より出づる声なくは春来ることをたれかしらまし 大江千里『古今集』
鶯や餅に糞する縁のさき  芭蕉「葛の松原」
鶯の啼やちいさき口明て  蕪村「蕪村句集」
鶯の静かに啼くや朝の雨  成美「いかにいかに」

腰瓦(こし‐がわら)=長屋や土蔵、塀などの外壁の腰板の部分に瓦を張ったもの。※雑俳・川柳評万句合‐安永九(1780)梅二「たべる程近所であるとこしかわら」。

句意=春を告げる鶯が、屋根の腰瓦の上で鳴いているが、黒い腰瓦は固い冬の風情のままである。この「かたし」は「固し」で、「難し」との「掛詞」を加味すると、「鶯が鳴いても、腰瓦は頑として「固い」ままで、春の風情を「こじ開ける」は「難し(むつかしい)」。それよりも、雑俳の「食べる程近所であるとこしかわら」の意を汲んで、この「腰瓦」を「瓦煎餅」(江戸吉原の「名物」)と掛けての句意もあろう。

(追記) 大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔交遊編〕

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/oota/ootananpo/nanpo-kouyuu/kobetu/nanpo-kouyuu-sakaihouitu.html

【酒井抱一】(さかい ほういつ)(屠龍)(とりゅう)

「上元、屠竜公子の館に宴す 金馬門前白日開 上元春色満楼台 若令飛蓋遊西苑 天下誰当八斗才」 南畝集7/漢詩番号1400/ ③484/ 天明8年/1788/01/15

※ 太田南畝は、大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を讃えて七言絶句の漢詩を詠んでいる(『南畝集』七)。その書き出しには「金馬門(きんばもん)白日開」とあり、中国漢代の末央宮(びおうきゅう)の門を気取って、江戸城の大手門をペダントリーに「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語から「こがねのこま」としていたようだ。(『酒井抱一 大江戸にあそぶ美の文人(玉蟲敏子著)』「日本史リブレット54」p10)

「秋日、屠竜公子に過る 居竜公子在江皐 百尺楼頭臥自高 晩命漁人聊下網 得魚新欲酌醇醒」南畝集9/漢詩番号1750/④93/寛政3年/1791/09/

「屠竜公子の席上、妬婦夜貴船の嗣に祈るの図に題す
 香羅骨結両同心 海誓山盟契濶深 溝水応須無断絶 谷風何事変晴陰 伐柯斧使良媒失 積羽舟随旧怨沈  苦向叢嗣将告訴 松杉夜色気蕭森」南畝集9/漢詩番号1890 /④138/寛政3年/1791/

「宝刀歌
 君不見宝刀勝昆吾 万物之炭造化炉 金躍冶中声将発 鋳成千載気象孤 王環鉄鞘千金質 精光直射扶桑日 干将莫邪何足誇 太平時節未出室 屠竜公子学屠竜 技成三年竜未逢 蔵匝以比天子剣 笑他突鬢頭如蓬 神物有意何処帰 一夕奪之忽西飛 奪之真人号白水 白水所佩天下稀」南畝集9/漢詩番号1888/④137/寛政5年/1793/09/

鶯村君の松の画は金川宿羽根沢といふ楼の庭にある松なり
 かな川の松の青木の台の物洲浜にたてる鶴の羽根沢」放歌集/②177/ 文化9年/1812/01/

春日、抱一君を尋ぬ 狂風処々起清芬 不是探梅偶訪君 幽谷孤鴬求友人 片時閑話洗塵氛」
「席上、画に題す 一枝白雪含春色 数朶黄金発歳蘭 莫道吏情誇老健 唯将酒力敵余寒」
南畝集19/漢詩番号3972-3/⑤341 /文化12年/1815/02/

「卯月十二日、鶯邨上人のやどりに晋子のかける光陰の道行といふものをみて
 光陰の道行はやきかくれ家は鴬村も山ほとゝぎす
 所からちかき山屋の若楓岡べのまくづかゝるもてなし
 夕ぐれに山の根ぎしをいでくればいそぐ四つ手に帰る案茀(アンポツ)」紅梅集/②338/文化15年/1818/04/12
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