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第四 椎の木かげ(4-29~4-32) [第四 椎の木かげ]

4-29 市人の喧嘩やとしの川向ひ

季語=「としの川向ひ」=「年の瀬(せ=川)」(仲冬・暮・歳末・歳晩)など」(「都市」の「川向ひ)」=「川向こう」が掛けられている用例と解する。)

「喧嘩(水論)」も季語(仲夏)だが、ここは一群(4-29~4-32)の「歳末」の句として置きたい。

「望白馬津」(前書)=「白馬津(「白馬の戦い」と「延津の戦い」を「望む」)

https://three-kingdoms.net/26161

句意(その周辺)=前書の「「望白馬津」を、「三国志」の「白馬津(「白馬の戦い」と「延津の戦い」を「望む」)との、大袈裟の意に解して、「江戸八百八町」(「助六由縁江戸桜」の一節)の年の暮れの句意とする。

句意(その周辺)=百姓の「水喧嘩」と同じく、「川」(墨田川)の「西岸」(「いろは四十八組」の火消しが管轄する「江戸八百八町」)の「市人」(江戸の住人)は、「火事と喧嘩は江戸の華」とやらで、この年の暮れの忙しい最中にあっても、「三国志」の「白馬津の戦い」のように喧嘩ばかりしている。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html


「め組の喧嘩」(め組の喧嘩は、文化二年二月(1805年3月)に起きた町火消し「め組」の鳶職と江戸相撲の力士たちの乱闘事件。講談や芝居の題材にされた)=「ウィキペディア」)

https://mag.japaaan.com/archives/166647



4-30 麓にも手を組む松や師走山

季語=「師走山」の「師走」(仲冬・暮・歳末・歳晩)」など)

「師走山」=「師走の山」=この「師走山」は、「待乳山聖天宮(まつちやましょうでんぐう)」の、「師走の待乳山」(下記の「東都三十六景 今戸橋真乳山」の「真乳山」)と解したい。

句意(その周辺)=「墨田川」と「山谷堀」との分岐点の「待乳山聖天宮・今戸橋」は、今、まさに、その「待乳山」は「師走山」と化して、その麓の「今戸橋」の傍らの「松」は、何やら、「手を組む(んで)」いるような光景である。(蛇足=この麓の「松」から通じている「山谷堀」の「日本堤」を上って行くと「吉原大門」に通ずる。さて、どうするか「手を組んで」いるのである。そして、それはまた、「望白馬津」なのである。)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html


「東都三十六景 今戸橋真乳山」(絵師:広重出版者:相ト)

https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail308.html?sights=matsuchiyamashodengu-imadobashi

「待乳山聖天宮・今戸橋 (まつちやましょうでんぐう・いまどばし)」

https://www.ndl.go.jp/landmarks/sights/matsuchiyamashodengu-imadobashi/

≪(解説) 待乳山は現在の隅田公園内にある小さい丘で、東に筑波山、西に富士山をのぞむことができた。本所・深川などが埋立てられる以前はこの山を入津の目標にしていたといわれ、付近の土を採って日本堤を築いたという言伝えもある。山上には聖天しょうでん宮が祀られ、商店・花柳界の信仰が厚かった。山の下にある今戸橋は山谷堀の最下流にかかっており、現在の浅草7丁目と今戸1丁目を結ぶ。≫



4-31 としの菊うち拂ふ袖のほこり哉

季語=「としの菊」=「師走の菊」(仲冬・暮・歳末・歳晩)」など)

「袖」=① 衣服で、身頃(みごろ)の左右にあって、腕をおおう部分。和服には、袂(たもと)の長さや形によって、大袖、小袖、広袖、丸袖、角袖、削(そぎ)袖、巻袖、元祿袖、振袖、留袖、筒袖などの種類があり、袂を含んでいうことがある。② 鎧(よろい)の付属具。③ 牛車(ぎっしゃ)の部分の名。

⑫ 小袖のこと。

※俳諧・独吟一日千句(1675)四「うたひ初とてまかり立声 広蓋に匂ひをふくむ花の袖」

⑬ 振袖のこと。また特に、振袖新造(しんぞう)をいう。

※雑俳・柳多留‐四八(1809)「本鬮(くじ)が三歩で袖が一歩也」

⑭ 「そでとめ(袖留)」の略。

※雑俳・柳多留‐三(1768)「しんぞうの袖も思へばこわいもの」(「精選版 日本国語大辞典」)

「ほこり(埃)」=① とび散る粉のようなごみ。細かいちり。② 数量や金銭などの余り。残余。はした。(「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=「菊・袖・埃」と、何とも平易な言葉だが、この三つの平易な言葉を連結する足掛かりが、これまた、何とも平易には見つからない。この「袖」は、「振袖新造」(15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。)の雰囲気もするのだが、ここは、前書の「望白馬津」に敬意を表して、この「ほこり(埃)」に着目し、「師走」の「十二月十三日」の「煤払い(すすはらい)・煤掃(すすはき)」の、「江戸城大掃除の日」の「一年間に溜まった煤や埃を掃き清めるとともに、邪気や穢れをも払うという意味の年中行事が行われる日」と関連させたい。

 すなわち、この翌日の「十二月十四日」は、「旧赤穂藩士・四十七士による吉良邸討ち入り事件」(浄瑠璃や歌舞伎では「仮名手本忠臣蔵」通称、「忠臣蔵」、講談では「赤穂義士伝」、「義士伝」)があった「望白馬津」の最大の「大喧嘩」の日なのである。

 そして、それは、後に、歌舞伎の「松浦の太鼓」の、その「両国橋の場」の、「雪の降る師走の江戸、俳諧の師匠宝井其角は両国橋で笹売りに身をやつしている赤穂浪士の大高源吾(仮名手本忠臣蔵では塩冶家浪人・大鷹文吾に相当)に偶然出会う」場面と重なってくる。

句意=今日は、「師走」の大掃除の十三日、吉原の「振袖新造」(「袖」)が、「菊」(「としの菊」)の「ほこり(埃)」を、その「袖の埃」を「打ち払う」ように、綺麗に飾り立てている。(蛇足=「仮名手本忠臣蔵(後の「松浦太鼓)」の、その「両国橋の場」での、宝井其角宗匠の「年の瀬や/水の流れと/ 人の身は」に、義士の大高源吾(俳号=子葉)が「明日待たるゝ その宝船」と唱和した場面が、しみじみと思い起こされてくる。)

(参考) 「松浦の太鼓(歌舞伎)」周辺

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html


「両国橋で出会う源五さん(左)と其角さん」(大石神社の絵馬より)

http://chushingura.biz/gisinews07/news203.htm

https://kabukist.com/matsuuranotaikokabuki-7035



「松浦の太鼓(歌舞伎)のセリフの謎は連歌にある!」


4-32 行年や何を遣手が夜念仏

季語=「行年」=行く年(ゆくとし)/暮(仲冬)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2740

【子季語】暮れ行く年、年逝く、年流る、流るる年、年浪流る、去ぬる年、年送る、年歩む

【解説】押し詰まった年末、忙しい日々の束の間に、過ぎ去ったこの年を思い浮かべる。また残り少なくなった暮れの日数にも感慨深いものがある。

【例句】

行く年や石噛みあてて歯にこたへ  来山「元禄七年歳旦牒」

行年や芥流る々さくら川      蕪村「夜半亭」

行年の脱けの衣や古暦       蕪村「落日庵」

行く年や空の青さに守谷まで    一茶「我春集」

「夜念仏」=「夜、念仏を唱えること。夜、唱える念仏。よねんぶつ。」

※謡曲・春栄(1435頃)「急いで来迎の夜念仏、声清光に彌陀の国の」

句意(その周辺)=「行く年・来る年」の「大晦日」の「吉原」は、「引け四ツ」(午前零時頃)が過ぎて客がいなくなると、若い者(妓牛)は、通りに門松を出し、注連縄(しめなわ)を飾るなど大忙しである。その最中、遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役をする「遣手(やりて)」が、何やら、一心不乱に「夜念仏」を唱えている。(蛇足=「行く年」の一年間の「望白馬津」の「あれこれ」を回想しつつ、「来る年」の「商売繫盛」を祈念しているのであろう。)

(参考一) 酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-12

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-294-32.html

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」その一(正月「元旦」)

十二幅うち一幅(旧六曲一双押絵貼屏風) 紙本淡彩 九七・三×二九・二(各幅)落款「抱一書畫一筆」(十二月)他 印章「抱一」朱文方印(十二月)他

【もと六曲一双の屏風に各扇一図ずつ十二図が貼られていたものを、現在は十二幅の掛幅に改装され、複数の個人家に分蔵されている。吉原の十二か月の歳時を軽妙な草画に表わし、得意の俳句もこれまた達意の仮名書きで添えたもので、抱一ならではの詩書画三絶ぶりが全開されている。

 正月(元旦)「花街柳巷 雨華道人書之」の隷書体の題字に「元旦やさてよし原はしつかなり」の句。立ち並ぶ屋根に霞がなびき、朝鴉が鳴き渡っている。】

(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)


(参考二) 「廓の一日・吉原の正月」周辺

https://yahantei.blogspot.com/2023/01/1-11.html

(参考三) 「謡曲・春栄」周辺

http://www.tessen.org/dictionary/explain/shunnei
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第四 椎の木かげ(4-26~4-28) [第四 椎の木かげ]

4-26 おもふ事言はでたゞにや桐火桶

藤原俊成.jpg


季語=桐火桶=火桶(ひおけ、ひをけ)/三冬

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2846

【子季語】桐火桶、火櫃

【解説】円火鉢のこと。桐の木などをくり抜いて内側を真鍮などの金属板を張ったもの。炭火を入れて暖を取る。彩色をほどこしてあったりもする。平安時代以降用いられたもので枕草子にある。

【例句】

細工絵を親に見せたる火桶かな 来山「太胡盧可佐」
霜の後撫子さける火桶哉 芭蕉「勧進牒」
草の屋の行灯もとぼす火桶かな 太祗「太祗句選」
桐火桶無絃の琴の撫でごころ 蕪村「雁風呂」
侘びしらに火桶張らうよ短冊で 蕪村「落日庵日記 」

【参考】藤原俊成(「桐火桶」)(「ウィキペディア」)

 定家は為家をいさめて、「そのように衣服や夜具を取り巻き、火を明るく灯し、酒や食事・果物等を食い散らかしている様では良い歌は生まれない。亡父卿(俊成)が歌を作られた様子こそ誠に秀逸な歌も生まれて当然だと思われる。深夜、細くあるかないかの灯火に向かい、煤けた直衣をさっと掛けて古い烏帽子を耳まで引き入れ、脇息に寄りかかって桐火桶をいだき声忍びやかに詠吟され、夜が更け人が寝静まるにつれ少し首を傾け夜毎泣かれていたという。誠に思慮深く打ち込まれる姿は伝え聞くだけでもその情緒に心が動かされ涙が出るのをおさえ難い」と言った。(心敬『ささめごと』)

句意(その周辺)=この句には、「俊成卿の畫(画)に」との前書があり、「藤原俊成(釈阿)が桐火桶を抱えている肖像画」を見ての一句なのであろう。

句意=俊成卿は、歌を作るときに、「「おもふ事」(心にあること)を、何一つ、「言はで」(言葉には出さず)、「たゞにや」(ただ、ひたすらに、「ウーン・ウーン」と苦吟しながら)、「桐火桶」(桐火鉢)を、抱え込んでいたんだと、そんなことを、この俊成卿の肖像画を見て、実感したわい。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-264-28.html


藤原俊成(菊池容斎・画、明治時代)(「ウィキペディア」)


4-27 松を時雨むかしうき世の毬目附

季語=時雨(初冬)

「毬目附(まりめつけ)」=「打毬(だきゅう)」競技(馬術競技)の「違法を監察する武士の職名(役名)」

「打毬」=打毬(だきゅう)は日本の競技・遊戯。馬に騎った者らが2組に分かれ、打毬杖(だきゅうづえ。毬杖)をふるって庭にある毬を自分の組の毬門に早く入れることを競う。

(中略)

江戸時代の方法は、毬門に紅白の験を立てて、毬門内に騎者10人、左右5騎ずつくつわを並べ、控える。騎者の後方左右に、勝負の合図に鉦鼓を打つ役人がいて、毬目付毬奉行門のかたわらでたがいに毬の出入りを検し、勝敗を分かつことを司る。(「ウィキペディア」)

句意(その周辺)=この句は、「河人が初七日に橋場の保元寺に参る」との前書のある二句のうちの一句目の句である。この「河人」という人物は、抱一の俳句仲間というよりも、抱一の世話役のような「酒井家」の重臣のような方で、第八代将軍・徳川吉宗が奨励した馬術競技「打毬」の「目附」役なども担っていたのであろう。

句意=何かとお世話になっている「酒井家」の重臣「河人」の「初七日」に「橋場の保元寺(法源寺)」(参考二)に出掛けた。その寺の「松」に「時雨」が降りかかり、在りししの、馬術競技の「打毬」の「目附」役であった頃の、「河人の英姿」が蘇ってくる。

(参考一) 「打毬図」周辺

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-264-28.html

「打毬図」(「和歌山市立博物館」蔵)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/281583

≪(解説) 打毬をする紀州藩士の様子を描いている。打毬とは、現在も宮内庁において保存・継承されている古式馬術で、紀元前5~6世紀に古代ペルシャで発祥し、中国を経て平安時代に我が国に伝えられた。和歌山出身の徳川吉宗が武芸として復興し、各藩に奨励したという。≫

(参考二)「保元寺」周辺

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-264-28.html

江戸名所図会「法源寺・鏡が池」

https://blog.goo.ne.jp/sa194520131207/e/7f5a39c964d373b87b6dad87c965a211


4-28 仙人の碁盤に向ふ巨(炬)燵かな

季語=巨(炬)燵=「炬燵」(三冬)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2841

【子季語】掘炬燵、置炬燵、敷炬燵、切炬燵、電気炬燵、炬燵櫓、炬燵蒲団、炬燵切る、炬燵張る、炬燵開く、炬燵板

【解説】日本に古くからある暖房器具。近頃は電気炬燵がほとんどだが、昔は、床を切って炉を設け櫓を据えて蒲団をかけ暖を取った。また櫓の中に火種をいれた中子を置いて、蒲団をかぶせたものを置炬燵と言った。

【例句】

住みつかぬ旅のこゝろや置火燵    芭蕉「勧進牒」
きりぎりすわすれ音になくこたつ哉  芭蕉「蕉翁全伝」
寝ごゝろや火燵蒲団のさめぬ内    其角「猿蓑」
つくづくとものゝはじまる炬燵哉   鬼貫「鬼貫句選」
草庵の火燵の下や古狸        丈草「丈草句集」
淀舟やこたつの下の水の音      太祇「太祇句帖」
巨燵出て早あしもとの野河哉     蕪村「蕪村俳句集」
腰ぬけの妻うつくしき巨燵かな    蕪村「蕪村俳句集」

句意(その周辺)=この句にも、「河人が初七日に橋場の保元寺に参る」との前書が掛かる。
句意=「俗界」(「うき世」)を離れて、「仙人」(神通力を修めた「仙客」)と化した「打毬目附」そし「て「囲碁の仙客(達人)」の、その「先人(亡き人)」の「形見分け」の「碁盤」を「炬燵」の上に置いて、しみじみと、「在りし師」の「在りし日(日々)」を偲んでいる。
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第四 椎の木かげ(4-21~4-25) [第四 椎の木かげ]

4-21 太刀懸に菊一とふりやけふの床

季語=菊=菊(きく)/三秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2597

【子季語】白菊、黄菊、一重菊、八重菊、大菊、中菊、小菊、菊作、厚物咲、初菊、乱菊、千代美草、懸崖菊、菊の宿、菊の友、籬の菊、菊時、菊畑

【解説】キク科の多年草。中国原産。奈良時代日本に渡って来た。江戸時代になって観賞用としての菊作りが盛んになる。香りよく見ても美しい。食用にもなる。秋を代表する花として四君子(梅竹蘭菊)の一つでもある。

【例句】

菊の香や奈良には古き仏達 芭蕉「杉風宛書簡」
菊の花咲くや石屋の石の間 芭蕉「翁草」
琴箱や古物店の背戸の菊  芭蕉「住吉物語」
白菊の目にたてゝ見る塵もなし   芭蕉「笈日記」
手燭して色失へる黄菊かな     蕪村「夜半叟句集」
黄菊白菊其の外の名はなくもなが  嵐雪「其袋」

「重陽」(前書の「重陽」)=重陽(ちょうよう、ちようやう)/晩秋

https://kigosai.sub.jp/?s=%E9%87%8D%E9%99%BD&x=0&y=0

【子季語】重九、重陽の宴、菊の節句、九日の節句、菊の日、今日の菊、三九日、刈上の節供
【関連季語】温め酒、高きに登る、菊の着綿、茱萸の袋 、茱萸の酒、菊酒、九日小袖

【解説】旧暦の九月九日の節句。菊の節句ともいう。長寿を願って、菊の酒を飲み、高きに登るなどのならわしがある。
【実証的見解】古来、中国では奇数を陽数として好み、その最大の数「九」が重なる九月九日を、陽の重なる日、重陽とした。この日は、高いところにのぼり、長寿を願って菊の酒を飲んだ。これを「登高」という。また、茱萸の実を入れた袋を身につければ、茱萸の香気によって邪気がはらわれ、長寿をたまわるとも信じられていた。日本においては、宮中で観菊の宴がもよおされ、群臣は菊の酒を賜った。また、菊に一晩綿をかぶせ、その夜露と香りをつけたもので身を拭う、菊の着綿という風習もあった。この日に酒を温めて飲む「温め酒」の風習は無病息災を願ったものである。

【例句】

朝露や菊の節句は町中も 太祇「太祇句選」
人心しづかに菊の節句かな 召波「春泥発句集」

【参考】健康を願う「菊の節句」周辺

https://www.kumon.ne.jp/kumonnow/topics/vol370/

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-214-25.html

雅遊五節句之内 菊月』 国芳 天保10(1839)年頃
≪九月九日は「菊の節句」です。昔の中国では九のような奇数を陽数、八のような偶数を陰数と分類していました。この考え方からすると「九」は一桁の奇数の中で最も大きく、特に九月九日のように陽数が重なることから「重陽」と呼ばれました。また、旧暦の九月は今の十月にあたり、優れた薬効があり不老長寿の花とされる「菊」の時期であることから「菊月」とも呼ばれていました。江戸時代になると、幕府は一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日の季節の節目を「五節句」として制定しましたが、中でも九月九日は「重陽の節句」または「菊の節句」と呼ばれ、盛大に行われていたようです。また、江戸中期になるとこの日を大人の女性の「後(のち)の雛」として雛人形と秋の菊の花を飾り、厄除けや健康祈願をする「大人の雛祭り」の風習も庶民の間で広がりをみせたといいます。

 さて、今回の浮世絵は武者絵を得意とする歌川国芳の描いた「雅遊五節句之内 菊月」です。国芳は二人の男の子に相撲を取らせて「菊の節句」を表現しました。しかし筋骨隆々の武者絵と違い、二人の男の子はあどけなく、まわし(ふうどし)に巾着を付けて一戦を交えています。腰の巾着はおそらくお守りや迷子札入れとして母親が手作りしたものでしょう。まわし姿になっても巾着をつけて勝負している様子がなんとも可愛らしいですね。周りでは菊文様の着物の子どもが声援しています。周囲には長寿のシンボルである大輪の菊が多数描かれていて、子どもの健康、長寿の願いを込めたことがわかります。≫

句意(その周辺)=今日は、陰暦の九月九日の「重陽」、「菊の節句」である。「床の間」の、その「太刀掛け」には、今日は「菊一輪(いちりん)」が懸けられている。(蛇足=この「菊一輪」は、酒井抱一が「大名・酒井家」の一員であることを示す、名刀「菊一文字」が「一(ひと)ふり)懸けられている。」



4-21 見劣し人のこゝろや作りきく

季語=作りきく=菊(きく)/三秋

「作りきく」=菊作り=1 菊を栽培すること。また、その人。《季 秋》/2 フグなどの刺身を、皿の上に菊の花のように盛りつけたもの。/3 「菊作りの太刀」の略。(「デジタル大辞泉」)

句意(その周辺)=今日は「重陽」の節句、菊見に出かけた。いろいろな「作り菊」を見て回ったが、「見事なもの」と「見劣るものと」、その区分けは、その「菊」を作る「人のこころ」によるものということを実感した。(蛇足=「料理」の「菊つくり」でも、「太刀」の「菊一文字」と「菊一文字もどき」との違いでも、全く、同じことなのだ。)



4-23 冬の野や何を尾花が袖みやげ

季語=冬の野(三冬)。「尾花」(三秋)も季語だが、この句では「冬野(枯野)の尾花」。

「袖みやげ」=この「袖みやげ(土産)」が難解である。この「袖」は「誰が袖」(匂袋)の「誰が」が「ヌケ」になっているものと解したい。

《古今集・春上の「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖ふれし宿の梅ぞも」の歌から》

1 匂袋(においぶくろ)の名。衣服の袖の形に作った袋を二つひもで結び、たもと落としのようにして携帯した。
2 細長い楊枝ようじさし。
3 桃山時代から江戸時代にかけて流行した種々の豪華な婦人の衣装を衣桁(いこう)にかけた図。屏風(びょうぶ)などに描かれた。
4 衣服の片袖の形や文様を意匠に取り入れた器物。香合(こうごう)・向付(むこうづけ)・茶碗・水指(みずさし)などがある。(「デジタル大辞泉」)

句意(その周辺)=このお土産の「誰が袖(匂袋)」の図柄は、「冬の野の尾花」のようである。「重陽」の節句に、「黄菊白菊其の外の名はなくもなが(嵐雪)」の「菊」の図柄であれば、吾が「東風流(あずまぶり)」俳諧(「其(キ=其角)・嵐(ラン=嵐雪)の根本の向上躰」)に申し分なかったのに。(蛇足=これでは「見劣り」するわい。)

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-214-25.html

「誰が袖(匂袋)」



4-24 見し夢や時雨の松の畫から紙

季語=時雨(初冬)

「畫から紙」=「桃山時代から江戸時代にかけて流行した種々の豪華な婦人の衣装を衣桁(いこう)にかけた図。屏風(びょうぶ)などに描かれた。」=「誰が袖(屏風)」


(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-214-25.html

「誰が袖図屛風」(サントリー美術館蔵)( 六曲一双/)屛風 紙本著色/(各)縦172.0 横384.0/江戸時代 17世紀)

https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=555

≪ 誰が袖屏風とは、衣桁などに多くの衣装を掛けた様子を描いた作品群のことで、江戸時代初期に流行したと考えられている。基本的に人物は登場せず、衣装や匂い袋、遊戯具など、室内に置かれた持ち物によって、その持ち主の面影を偲ぶという趣向になっている。「誰か袖」とは「これは誰の衣装なのか」という意味で、『古今和歌集』に収められた「色よりも 香こそあはれと思ほゆれ 誰が袖ふれし 宿の梅ぞも」に由来する。なかでも本作はバランスの良い構図と、豪華な描写が高く評価されている。右隻は、菊蒔絵の衣桁の上段に、霞に藤花模様の能装束らしき衣装と匂い袋が配されている。下段には菖蒲模様の袴が見える。右端に置かれているのは能面を入れる面箱と思われ、この部屋の主人公は能を好む人物であるらしい。左隻は、藤蒔絵の衣桁や屏風に、段に胡蝶文、転法輪文、文字散らし文、丸紋散らし文など、多様なデザインの衣装が掛かっている。右手には双六盤があり、盤上や床に石、サイコロ、振り筒が無造作に置かれている。画中屏風には本格的な水墨山水図が描かれており、その筆致が海北派に近いとの指摘がある。本作の作者は不明だが、著色画・水墨画の両方に長けた絵師であったことは間違いない。(『リニューアル・オープン記念展Ⅰ ART in LIFE, LIFE and BEAUTY』、サントリー美術館、2020年) ≫

句意=昨日「見し夢」の中で、嘗て、大手門前の「酒井家上屋敷」での一句、「ゆめに見し梅や障子の影ぼうし」(「第一こがねのこま1-6」)が、「重陽の節句の菊に降りかかる時雨の松」となって、当時の面影が、「誰が袖図屏風(「畫から紙」)」として蘇ってきた。それは、同時に、吾が「東風流(あずまぶり)」俳諧(「其(キ=其角)・嵐(ラン=嵐雪)の根本の向上躰」)の、その其角宗匠の名吟、「名月や畳の上に松の影」(『雑談集(其角著)』)を偲ばせるものであった。

(参考一)『雑談集』(其角著)周辺

http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/zoutan.html

(参考二)「ゆめに見し梅や障子の影ぼうし」(「第一こがねのこま1-6」)周辺

https://yahantei.blogspot.com/2023/01/1-6.html



4-25 来ぬ夜鳴く衛や虎が裾模様

季語=「衛」=千鳥(ちどり)/三冬

https://kigosai.sub.jp/?s=%E5%8D%83%E9%B3%A5&x=0&y=0

【子季語】目大千鳥、大膳、胸黒、小千鳥、白千鳥、鵤千鳥、千鳥足、千鳥掛、磯千鳥、浜千鳥、浦千鳥、島千鳥、川千鳥、群千鳥、友千鳥、遠千鳥、夕千鳥、小夜千鳥、夕波千鳥、月夜千鳥、鵆

【解説】チドリ科の鳥の総称で留鳥と渡り鳥がある。嘴は短く、色は灰褐色。足を交差させて歩むのが千鳥足。酔っ払いの歩行にたとえられる。

【例句】

星崎の闇を見よとや啼千鳥  芭蕉「笈の小文」
一疋のはね馬もなし川千鳥  芭蕉「もとの水」
千鳥立更行初夜の日枝おろし 芭蕉「伊賀産湯」
汐汲や千鳥残して帰る海人  鬼貫「七車」
背戸口の入江にのぼる千鳥かな 丈草「猿蓑」

【参考】「虎が雨」=「虎が雨(とらがあめ)/ 仲夏」(陰暦の五月二十八日に降る雨のこと。曾我兄弟の兄、十郎が新田忠常に切り殺されことを、愛人の虎御前が悲しみ、その涙が雨になったという言伝えに由来する。)の季語だが、この句では、「虎が裾模様」で、季語としての働きはしていない。さらに、この「袖(すそ)模様」は、「前々句」(4-23)からの「誰が袖」の「袖(そで)模様」の変奏なのである。

(画像) → https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-214-25.html

「白繻子地紅梅文様描絵小袖 酒井抱一画」(「国立歴史民俗博物館」蔵)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/136247

≪酒井抱一(ほういつ)(1761~1828)の筆による描絵小袖である。文様は独特な濃淡で紅梅を描き、梅樹の根元には蒲公英(たんぽぽ)や菫(すみれ)など春の情景が表される。「抱一」の朱印がある。本小袖は、紅梅を全面に見事に描いた小袖意匠としても秀逸であり、絵師が直接小袖に図様を描く描絵小袖の数少ない遺例の一つである。≫

句意(その周辺)=吾が「東風流(あずまぶり)」俳諧(「其(キ=其角)・嵐(ラン=嵐雪)の根本の向上躰」)の、その其角宗匠の『句兄弟』に収載されている「むらちどり其(の)夜ハ寒し虎が許(もと)」(参考)の「本句取り」の一句なのである。
 句意=「重陽」の「菊」(「誰が袖」の菊模様の「匂袋」)の句から、「時雨」(「誰が袖図屏風」の「畫から紙」)の句となり、そして、「今」、それらが、「袖」でなく「裾」の、その「虎が雨」の、その「白繻子地紅梅(「虎が雨」の見立て)文様描絵小袖(その「袖」と「裾」絵)の、「虎が雨(「梅」して、「菊」・「千鳥」)」と化している。


(参考)「むらちどり其(の)夜ハ寒し虎が許(其角)」周辺

https://yahantei.blogspot.com/2007/05/blog-post_23.html

(句合せ四)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

※(謎解き・五十五)http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html

四番

   兄 粛山

 祐成が袖引(き)のばせむら千鳥

   弟 (其角)

 むらちどり其(の)夜ハ寒し虎が許

(兄句の句意)群千鳥が鳴いている。群千鳥よ、どうか、曽我兄弟の祐成が仇討ちに出掛けていこうとしているが、その袖を強く引いて引き留めて欲しい。

(弟句の句意)群千鳥が鳴いている。曽我兄弟の祐成が仇討ちに出掛けて行った日も、虎御前とともにあって、その夜は厳しい寒さであったことだろう。

(判詞の要点)両句とも、曽我十郎祐成と祐成と契った遊女の虎御前のことについて詠んだものである。「是は各句合意の躰也。兄の句に寒しといふ字のふくみて聞え侍れば、こなたの句、弟なるべし」。判詞中の「冬の夜の川風寒みのうたにて追反せし也」は、紀貫之の「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒みちどり鳴くなり」(『拾遺集』)を踏まえている。

(参考)「粛山(しゅくざん)」については、この其角の『句兄弟』の、「上巻が三十九番の発句合(わせ)、判詞、其角。中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める。下巻は元禄七年秋から冬にかけて東海道・畿内の旅をした其角・岩翁・亀翁らの紀行句、諸家発句を健・新・清など六格に分類したものを収める」(『俳文学大辞典』)の、「中巻が粛山との両吟謡歌仙、父東順の葬送の折の其角の独吟五十韻、芭蕉の東順伝、其角らの連句八巻を収める」の「粛山」であろう。『句兄弟(上)』の其角の判詞には、「さすか(が)に高名の士なりけれハ(ば)」とあり、この粛山とは、松平隠岐守の重臣・久松粛山のことであろう。
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第四 椎の木かげ(4-12~4-20) [第四 椎の木かげ]

4-12 仙薬を魚もなめてや雲の峰

季語=「雲の峰」=雲の峰(くものみね)三夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2036

【子季語】 積乱雲、入道雲、峰雲

【解説】 盛夏、聳え立つ山並みのようにわき立つ雲。積乱雲。夏といえば入道雲であり、夏の代名詞である。強い日差しを受けて発生する激しい上昇気流により、巨大な積雲に成長して行く。地方により坂東太郎・丹波太郎・信濃太郎・石見太郎・安達太郎・比古太郎などとよばれる。

【例句】

雲の峰幾つ崩れて月の山     芭蕉「奥の細道」
ひらひらとあぐる扇や雲の峰   芭蕉「笈日記」
湖やあつさををしむ雲のみね   芭蕉「笈日記」
雲の峰きのふに似たるけふもあり 白雄「白雄句集」
しづかさや湖水の底の雲のみね  一茶「寛政句帖」

仙薬=① 飲むと仙人になるという薬。不老不死の薬。仙丹。

※霊異記(810‐824)上「『逕ること八日、夜、銛き鋒に逢はむ。願はくは仙薬を服せ』といひて」 〔史記‐始皇本紀〕

② 非常によくきく不思議な薬。霊薬。

※今昔(1120頃か)五「国王、此は仙薬を服せるに依て也と知て」

(「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=この句には「緑樹(りょくじゅ)影沈(かげしづん)では」との前書がある。この前書からすると、一茶の「しづかさや湖水の底の雲のみね」に近い、「緑樹の影と入道雲のが水底に沈んで、その入道雲を、魚が、あたかも、仙薬(不老不死の薬)のように舐めている」というような句意となる。

(参考)『酒井抱一 井田太郎著・岩波新書』で紹介されている句意周辺

 この句は、『酒井抱一 井田太郎著・岩波新書』(p77~p78)で、其角の「香薷散(かうじゆさん)犬がねぶつて雲の峯」(『五元集』)の句を変奏しているとの謎解きをしている。

 それによると、この前書は、謡曲(「竹生島(ちくぶじま)」)の「緑樹影沈(しづ)みて、魚木に上る気配あり」を摘まんだものと指摘している。そして、其角の句は、「夏雲が水たまりに影を落とす。犬が水たまりの茶色い水をなめるので、さながら犬が雲のなかにいるかのようである」として、その「茶色い水(液体)」は、「暑気払い」の「茶色い・香薷散」の見立てと喝破している。

 この其角の「香薷散」の句は、下記のアドレスで紹介している。
ttps://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA?updated-max=2007-04-06T08:55:00%2B09:00&max-results=20&start=4&by-date=false
【〇 香薷(じゆ)散犬がねぶつて雲の峰 (其角『五元集』)
 〇 まとふどな犬ふみつけて猫の恋   (芭蕉『菊の道』)

四十一 掲出の一句目の其角の句は、「雲の峰が立つ真夏の余りの暑さに、犬までが暑気払いの『香薷(じゆ)散』を舐(なぶ)っている」という意であろう。この句の背後には、『事文類聚』(「列仙全伝」)の故事(准南王が仙とし去った後、仙薬が鼎中に残っていたのを鶏と犬とが舐めて昇天し、雲中に鳴いたとある)を踏まえているという。さらに、この句の真意は、「将軍綱吉の生類憐れみの令による犬保護の世相を背景とし、犬の増長ぶりを諷している」という(今泉・前掲書)。と解すると、これまた、其角の時の幕政への痛烈な風刺の句ということになる。それに比して、其角の師匠の芭蕉の二句目の犬の句は、「恋に切なく身を焦がす猫が、おっとり寝そべっている犬を踏みつけてうろつきまわっている」と、主題は「猫の恋」で実にのんびりとした穏やかな光景である。この「まとふど」は、「全人(またいびと)」の「純朴で正直な人」から転じての「とんま・偶直な」という意とのことである(井本農一他注解『松尾芭蕉集』)。いずれにしろ、ここには、其角のような、時の幕政への痛烈な風刺の句というニュアンスは感知されない。芭蕉もまた、反権力・反権威ということにおいては、人後に落ちない「隠棲の大宗匠」という雰囲気だが、どちらかというと、「おくのほそ道」に関わる「芭蕉隠密説」も流布されるように、「親幕府」という趣だが、こと、その蕉門第一の高弟・其角は、「反幕府」という趣なのが、何とも好対照なのである。ちなみに、芭蕉もまた、其角と同様に、綱吉の「生類憐れみの令」の御時世の元禄の俳人であったことは、付言する必要もなかろう。】

 ここまで来ると、其角の句も、抱一の句も、それこそ、正岡子規の、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」と、「チンプンカンプン」ということで、敬遠されることになる。

 しかし、抱一の、その句の周辺を探るには、その作意の本筋の「其角」の句は手に負えないとしても、より、定石的な、より、理解し易い、例えば、上記の、「季語」の解説の「例句」などを補助線にすると、何かが見えてくるような、そして、そういう、「抱一の発句、濃艶愛すべし」という見方もあるように思える。


4-13 秋旣(すでニ)ちかづきふへて蛍がり

季語=「秋」と「蛍」=「秋の蛍」=秋の蛍(あきのほたる) 初秋

https://kigosai.sub.jp/?s=%E7%A7%8B%E3%81%AE%E8%9B%8D&x=0&y=0

【子季語】 秋蛍/残る蛍/病蛍

【解説】 秋風が吹く頃の蛍である。弱々しく放つ光や季節を外れた侘しさが本意。

【例句】

世の秋の蛍はその日おくりかな  信徳「口真似草」
死ぬるとも居るとも秋を飛ぶ蛍  乙州「西の雲」
牛の尾にうたるる秋のほたるかな 成美「成美家集」
蛍減る秋を浅香の橋作り     乙二「をののえ草稿」

「ほたるがり」=夏の夜、水辺などに光る蛍を捕えて遊ぶこと。ほたるおい。《季・夏》

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

※浮世草子・好色産毛(1695頃)三「上鴨の蛍狩(ホタルガリ)、宇治瀬田は更也、北野平野に勝て、市原二の瀬の柴口鼻(しばかか)が帰る夜道をかがやかし」 (「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=この句も難解句の一つである。まず、前句(4-12)の前書(「緑樹(りょくじゅ)影沈(かげしづん)では」)が掛かる一群(「4-12」~「4-20」)の句の、二番目の句と解したい。その上で、この句の「秋旣(既の「異字体」)ちかづきふへて蛍がり」の詠みは、「秋既(すで)ニ/ちかづき・ふへて/蛍がり」(五・七・五)の詠みとして置きたい。

 句意=緑樹の影も沈んで、既に、夏から秋へとの気配を漂わせている。その忍び寄る初秋の夜に蛍の数は増えて、その最後の蛍狩りに興じている。

(参考) 其角の蛍の句(「此(この)碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉(『五元集』)」)周辺
https://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA?updated-max=2007-04-06T08:55:00%2B09:00&max-results=20&start=4&by-date=false

【(謎解き・二十一)

〇 鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分 (其角『五元集』)
〇 夕顔にあはれをかけよ売名号 (其角『五元集』)
〇 此(この)碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉 (其角『五元集』)

四十 この掲出の三句は、『五元集』では、一句目が「春」、二句・三句目が「夏」と分かれて掲載されているが、その『五元集』のもとになっている『焦尾琴』の「早船の記」では、次のように掲載されているうちの三句である。

http://kikaku.boo.jp/haibun.html

   其引 所の産を寄て

※行水や何にとゝまる海苔の味   其角
朝皃の下紐ひちて蜆とり      午寂
雨雲や簀に干海苔の片明り     文士
幕洗ふ川辺の比や郭公       序令
椎の木に衣たゝむや村時雨     同
浮島の親仁組也余情川       景口(けいれん)
すまふ取ゆかしき顔や松浦潟    同
建坪の願ひにみせつ小萩はら    白獅
※幸清か霧のまかきや昔松     其角
※鯉に義は山吹の瀬やしらぬ分   同
さなきたに鯉も浮出て十三夜    秋航
雷の撥のうはさや花八手      百里
夕月や女中に薄き川屋敷      同
村雨や川をへたてゝつくつくし   甫盛
後からくらう成けり土筆      堤亭
揚麩には祐天もなし昏の鴫     朝叟
※夕顔に哀(あはれ)をかけよ売名号 其角
 河上に音楽あり
笙の肱是も帆に張夏木立       午寂
お手かけの菫屋敷は栄螺哉      同
 こまかたに舟をよせて
※此碑ては江を哀(カナシ)まぬ蛍哉 其角
若手共もぬけの舟や更る月      楓子

 さて、この掲出の一句目の、「鯉の義は山吹の瀬やしらぬ分」は、「綾瀬の御留川(漁獲禁止の川)の名物の山吹鯉を獲るのに、見張りの役人に少々山吹色の小判を与えれば、見て見ぬふりをしてくれる」という世相風刺(当時の幕政の腐敗の風刺)の句のようなのである(今泉・前掲書)。

 二句目の「夕顔に哀(あはれ)をかけよ売名号」は、『五元集』では、「裕天和尚に申す」との前書きがあり、この裕天和尚は、当時の五代将軍綱吉の母桂昌院の尊信を受け、隅田川東岸の牛島を去って、一躍高位の僧となられた方で、その「裕天和尚に申す」という形での、「売名号」(仏あるいは菩薩の名号を書いた札で、書き手によって御利益がある)の御利益のように、民衆に「哀れをかけよ」としての、これまた、当時の幕政への不満に基づく風刺の句のようなのである。

 この「夕顔」は、『源氏物語』の「夕顔」の「山がつが垣穂荒るともをりをりはあはれをかけよ撫子のつゆ」を踏まえているとのことである(今泉・前掲書)。そして、三句目の「此碑では江を哀(かなし)まぬ蛍哉」は、「この殺生禁断の碑のお蔭で何となく不景気で、川の流れを眺めながら哀れに感じないのは蛍だけ」という意の、当時の五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」への嘆きの句であるという(半藤・前掲書)。其角の謎句には、このような当時の幕政への痛烈な風刺の句があり、その意味では、其角は、終始一貫して、反権力・反権威の反骨の俳人という姿勢を貫いている。

 こういう句の背後にあるものを、当時の人でも察知できる者と、察知できない者と、完全に二分されていたのであろう。そして、その背後にあるものを察知できない者は、其角の句を「奇想・奇抜・意味不明」の世界のものとして排斥していったということは、容易に想像のできるところのものである。】


4-14 きぬぎぬの橋に成(なり)たかあの鴉

季語=「きぬぎぬの橋」=「後朝の橋」=「鵲の橋(かささぎのはし)」 初秋

https://kigosai.sub.jp/?s=%E9%B5%B2%E3%81%AE%E6%A9%8B&x=0&y=0

【子季語】 星の橋/行合の橋/寄羽の橋/天の小夜橋/紅葉の橋/烏鵲の橋

【解説】 七夕の夜、天の川を渡る織姫のため、かささぎが羽を連ねて橋となること。

【例句】

かささぎやけふ久かたのあまの川  守武「飛梅千句」
鵲の橋や銀河のよこ曇り      来山「続今宮草」
かささぎや石を重りの橋も有り   其角「浮世の北」

【参考】 鵲=鵲(かささぎ)三秋=七夕伝説に登場する鳥。天の川を渡る織姫のために羽を連ねて橋を作るという。カラスに似ているが腹部が白いのでカラスと見分けられる。
 「鴉・烏」だけでは、季語の働きはしない。「春= 鴉の巣/夏= 鴉の子/冬= 寒烏/新年 =初烏」。

 この抱一の句では、「きぬぎぬの橋」(「鵲の橋」)と「鴉」との取り合わせで、「初秋」の句ということになろう。そして、この句は、「吉原」の「きぬぎぬの別れ」の「あの鴉(男)」=「吉原帰りの男」の見立てということになる。

句意(その周辺)=緑樹の影も沈んで、七夕の季節、あの吉原帰りの「鴉(からす)野郎」は、昨夜は、「鵲の橋」を渡って、「彦星と織女と逢瀬」を成就したのであろうか? あの橋を渡っている顔つきを見ると、頭上で鳴いている鴉の「「カーカー」と、どこか淋し気であるわい(蛇足)。

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

「風流三ッのはじめ」(Theree Elegant Beginnings) (「慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション/Digital Collections of Keio University Libraries」)

https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/ukiyoe/0008

【「横雲やきふうのかわる日の出かな」 青楼の店先での後朝の別れの一齣。遊女の方はいまだ名残尽きせぬ様子で上目遣いに客を見やるが、一方の遊客は上半身は振り返っているものの足はすでに帰途に踏み出している。遊里のはかないかりそめの恋愛風景といえようか。朝陽の中に活動を始め、飛び交う鴉たちの鳴き声も白々しく聞こえてくるようである。 礒田湖龍斎は、世間が春信美人のブームに湧く頃浮世絵界に登場した。本図に見られるごとく、初期の画風は春信風に近似しているが、次第に独自の美人画様式を確立した。(樋口一貴)

作者/磯田湖龍斎/作者英名koryusai/画題 風流三ッのはじめ/請求記号200X@59/制作年代
18世紀後期/版元 なし/極印 なし/版型 中判錦絵/寸法 26.3×19.2/署名 湖龍斎画 】

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

「後朝きぬぎぬの図」(『吉原青楼年中行事. 上,下之巻 / 十返舎一九 著 ; 喜多川歌麿 画』)

(「早稲田大学図書館」蔵)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0002/wo06_01494_0002_p0008.jpg



4-15 寝やと言ふ禿またねずけふの月

季語=「けふの月」(仲秋)

【解説】 旧暦八月十五日の月のこと。「名月をとつてくれろと泣く子かな」と一茶の句にもあるように、手を伸ばせば届きそうな大きな月である。団子、栗、芋などを三方に盛り、薄の穂を活けてこの月を祭る。
【例句】

名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉「孤松」
たんだすめ住めば都ぞけふの月  芭蕉「続山の井」
木をきりて本口みるやけふの月  芭蕉「江戸通り町」
蒼海の浪酒臭しけふの月     芭蕉「坂東太郎」

【参考】

十五から酒をのみ出てけふの月  其角「五元集」
闇の夜は吉原はかり月夜哉    其角「五元集」

「禿(かぶろ)」=遊女に使われる少女。太夫(たゆう)、天神など上位の遊女に仕えて、その見習いをする六、七歳から一三、四歳ぐらいまでの少女。かぶろっこ。かむろ。(「精選版 日本国語大辞典」)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

※仮名草子・浮世物語(1665頃)一「禿(カブロ)、遣手(やりて)も空(そら)知らぬ風情なり」

(「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=これも「吉原」の句であろう。其角の「吉原」の「闇の夜は吉原はかり月夜哉」(『五元集』)などが背景にあるような雰囲気である。

句意=「緑樹影沈(ん)では」、今日は、陰暦八月十五日の「仲秋の名月」である。この吉原の妓楼の遊女に仕えている「禿」(少女)の名は「寝(ねれ・ね)や」と、面白い名なのだが、「また(まだ)」一睡もしないで、「不寝番(ねずのばん)をしている。


(参考) 「吉原」の「遊女(「花魁」など)周辺

「忘八(ぼうはち)」=遊女屋の当主。仁・義・礼・智・信・孝・悌・忠の8つの「徳」を忘れたものとされていた。

「禿(かむろ)」=花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女。彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。禿(はげ)と書くのは毛が生えそろわない少女であることからの当て字である。

「番頭新造(ばんとうしんぞう)」=器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担った。花魁につく。ひそかに客を取ることもあった。「新造」とは武家や町人の妻を指す言葉であったが、後に未婚の女性も指すようになった。

「振袖新造(ふりそでしんぞう)」=15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。その代金は「つきだし」(花魁としてデビューし、水揚げを迎える日)の際の費用の足しとされた。振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。

「留袖新造(とめそでしんぞう)」=振袖新造とほぼ同年代であるが、禿から上級遊女になれない妓、10代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなる。振袖新造は客を取らないが、留袖新造は客を取る。しかし、まだ独り立ちできる身分でないので花魁につき、世話を受けている。

「太鼓新造(たいこしんぞう)」=遊女でありながら人気がなく、しかし芸はたつので主に宴会での芸の披露を担当した。後の吉原芸者の前身のひとつ。

「遣手(やりて)」=遊女屋全体の遊女を管理・教育し、客や当主、遊女との間の仲介役。誤解されがちだが当主の妻(内儀)とは別であり、あくまでも従業員。難しい役どころのため年季を勤め上げた遊女や、番頭新造のなかから優秀な者が選ばれた。店にひとりとは限らなかった。

(「ウィキペディア」)

「妓夫」=遊里で客を引く男。遣手婆について,二階の駆引き,客の応待などもした。私娼や夜の字をあてたのは明治以降のことであるといわれる。この言葉の源は,承応の頃 (1652~55) ,江戸,葺屋町の「泉風呂」で遊女を引回し,客を扱っていた久助という男にあり,『洞房語園』によると,その男の煙草 (たばこ) を吸うさまが「及 (きゅう) 」の字に似ていたので,人々が彼をして「きゅう」というようになり,それがいつしか「ぎゅう」となり,やがて,かかる男たちの惣名になった,とある(「精選版 日本国語大辞典」)。



4-16 花方に団子喰せつ今日の月

季語=「今日の月」=「けふの月」(仲秋)

「花方」=「花形」=花形(はながた):はなやかで人気のある人や物のこと。(「ウィキペディア」) ここは、「吉原」の「花形」である「花魁(おいらん)」と、その取り巻きを指しているものと解したい。

「花魁(おいらん)」=江戸・吉原における上級遊女の別称。語源としては、遊女に従属する新造(しんぞう)や禿(かむろ)が姉女郎を「おいらがの(私の)」とよんだのがなまったとする説などがあるが、明らかではない。いずれにしても口語体から発生したらしく、漢字は当て字である。洒落本(しゃれぼん)には、姉妓、姉娼、全盛、妹妓など多数の当て字が使われている。そのなかで、ものいう花(美女)の魁(かしら)という意味をもつ花魁が、広く使用されて代表的文字となった。語源の伝承にもあるように、花魁は尊称的美称であって職名でないため、どの階級の遊女がこれに相当するかは一定していない。花魁の称が一般化した明和(めいわ)(1764~72)ごろは、吉原では太夫(たゆう)が衰滅して散茶(さんちゃ)がこれにかわった時代であるが、散茶のなかの最上格である呼出しを、初めは花魁とよんだという。呼出しは張り見世をしない別格であったが、のちには次位の昼三(ちゅうさん)や、その下の座敷持(ざしきもち)なども花魁とよぶようになった。ただし、いずれも2部屋以上の座敷を与えられ、新造2~3人、禿2~3人を従え、座敷には各種の調度をそろえ、寝具は重ねふとんであった。[原島陽一](「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

句意(その周辺)=「吉原」での「月見」には、とんと金がかかる。その「花方」の「花魁」と、その取り巻き連中に、「団子」(料理)を振舞いつつ、豪奢に「良夜」を楽しんでいる。

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

「良夜之図」(『吉原青楼年中行事. 上,下之巻 / 十返舎一九 著 ; 喜多川歌麿 画』)

(「早稲田大学図書館」蔵)

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01494/wo06_01494_0002/wo06_01494_0002_p0004.jpg


4-17 名月やもと塩窰(塩釜)の人通り

季語=名月(仲秋)

(参考句)

沾徳岩城に逗留して、餞別の句なき恨むるよし聞え侍りしに
  松島や嶋かすむとも此序   其角「五元集」

南村千調仙臺へかへるに
  行春や猪口を雄嶋の忘貝   其角「五元集」

「塩窰(塩釜)」=この「塩窰(塩釜)」は、謡曲「融」の、次のような一節を踏まえているように解したい。

https://japanese.hix05.com/Noh/4/yokyoku402.tooru.html

【シテ一セイ「月も早。出汐になりて塩釜の。うらさび渡る。気色かな。

サシ「陸奥はいづくはあれど塩釜の。うらみて渡る老が身の。よるべもいさや定なき。心も澄める水の面に。照る月並を数ふれば。今宵ぞ秋の最中なる。実にや移せば塩釜の。月も都の最中かな。

下歌「秋は半身は既に。老いかさなりてもろ白髪。

上歌「雪とのみ。積りぞ来ぬる年月の。積りぞ来ぬる年月の。春を迎へ秋を添へ。時雨るゝ松の。風までも我が身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。浦わの秋の夕かな浦わの。秋の夕かな。】

句意(その周辺)=「緑樹影沈(ん)では」、謡曲「竹生島(ちくぶしま)」、そして、「月も早。出汐になりて塩釜の」は、謡曲「融(とおる)」の名調子である。今宵の「名月」、その世阿弥の「融」の背景となっている「伊勢物語第八十一段」の、「塩竈にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はこゝに寄らなん」などが、脳裏を去来している。

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

謡曲「融」の舞台図と「京名所案内」

http://insite-r.co.jp/Noh/shunkoukai/2019/tooru/tooru_notice.html


4-18 印籠の一つ下(れ)るやからす瓜

季語=からす瓜=烏瓜(からすうり)/晩秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/3484

【子季語】 王瓜、王章
【解説】 ウリ科の多年草。山野に自生する蔓草。夏に白いレースのような 花を咲かせ秋に実をつける。実は卵形で、縞のある緑色から熟し て赤や黄に色づく。
【例句】

竹藪に人音しけり烏瓜       惟然「惟然坊句集」
まだき冬をもとつ葉もなしからす瓜 蕪村「夜半叟句集」
くれなゐもかくてはさびし烏瓜   蓼太「蓼太句集初編」
溝川や水に引かるる烏瓜      一茶「文政九年句帖

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

「蒔絵烏瓜図印籠 萬麟齊」

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k533664600

「印籠」=腰に下げる三重または五重の長円筒形の小箱。箱には蒔絵(まきえ)、堆朱(ついしゅ)、螺鈿(らでん)などの細工が施され、緒には緒締め、根付けがある。もと印判を入れたところからいい、室町頃から薬を入れるようになった。主として武士の礼装の装飾品。薬籠。印籠巾着。〔東京教育大本下学集(室町中)〕

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

※浮世草子・好色一代男(1682)七「田舎大じん印籠(ヰンラウ)あけて、いく薬かあたえけるを」(「精選版 日本国語大辞典」)

句意(その周辺)=「緑樹影沈(ん)では」の、謡曲「竹生島(ちくぶしま)」、そして、「月も早。出汐になりて塩釜の」の、その謡曲「融(とおる)」の名調子などを吟じながら、腰に差している「蒔絵烏瓜図印籠烏瓜」を、お相手してくれる相方に、「これ、烏瓜」と、「これを見たら思い出してくれ」と、手渡すような、そんな、雰囲気の句である。


4-19 貝の班(ふ)の雀に似たり夜蛤

季語=蛤=蛤(はまぐり)/三春
https://kigosai.sub.jp/001/archives/849#:~:text=%E8%9B%A4%E3%81%AF%E6%98%A5%E3%80%81%E8%BA%AB%E3%81%8C,%E8%9B%A4%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E9%A3%9F%E5%8D%93%E3%81%AB%E4%B8%8A%E3%82%8B%E3%80%82

【子季語】 蛤鍋、蒸蛤、焼蛤、蛤つゆ

【解説】 蛤は春、身がふっくらと肥え、旬を迎える。二枚の貝は他のものとは決して合わないことから末永い夫婦の縁の象徴とされ、婚礼や雛の節句などの細工、貝合せなどに用いられ、平安時代には、薬入れとしても使われた。吸物、蒸し物、蛤鍋、焼蛤として食卓に上る。桑名の焼蛤、大阪の住吉神社の洲崎の洲蛤が有名。

【例句】 

尻ふりて蛤ふむや南風    涼菟「喪の名残」
蛤の芥を吐かする月夜かな  一茶「七番日記」

【参考】

 この句(「貝の班(ふ)の雀に似たり夜蛤」)は、『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』(p124~p128)で、次のとおり紹介されている。(一部抜粋)

≪『句藻』「椎の木陰」に「送笠堂主人文(りゅうどうしゅじんにおくるふみ)」という俳文に見られる。寛政八年(一七九六)秋、川越(埼玉県川越市)の瓢坊が其貝(きばい)と改名するのを祝ったのである。

「抑(そもそも)、元禄十五年長月十六日のうら遊びに、晋子(其角)が見し、雀の足をはさみし貝ならんか。此(この)貝、必(かならずしも)中に明珠(めいしゅ)を含(ふくむ)るか。此珠(このたま)、彫琢を頼ずして、光、晋流のくらきを照らすべしと祝ひ、藻に住(すむ)虫の我等迄も、五七五の一章句を申送り侍る。

  貝の班(ふ)の雀に似たり夜蛤   (『句藻』「椎の木陰」) ≫

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

句意(その周辺)=この句は、其角の「夜光るうめのつぼみや貝の玉」(『類柑子』「浦あそび」)の本句取りの一句である。抱一は、文化三年(一八〇六)、四十六歳の時に、「其角百回忌」として、その「肖像百幅」(其角肖像画と其角の句の賛)を制作する(上記の図は、その内の一つで「夜光る画賛」のものである。これらについては、下記のアドレスの「参考」で紹介している)。

句意=吾が「東風流(あずまぶり)」俳諧(「其(キ=其角)・嵐(ラン=嵐雪)の根本の向上躰」)の元祖ともいうべ其角宗匠の「夜光るうめのつぼみや貝の玉」を変奏して、その「必ず中に明珠を含む」縁起が良い「夜蛤」の句を、次のような一句として、それに唱和することにする。

 「貝の班(ふ)の」(この貝の模様は)、「雀に似たり」(其角宗匠が目にした「雀の足を咥えた蛤」の、その「雀に似たり)、「夜蛤」(彫琢(てうたく)を頼(たよら)ずして、光(ひかり)、晋流(しんりう=其角俳諧)のくらきを照らすべし)

(参考) 「其角肖像百幅」(抱一筆・賛=其角句)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-30

【(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-22

(画像)→上記のとおり

酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 この著者(井田太郎)が、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情』(岩波新書一七九八)を刊行した(以下、『井田・岩波新書』)。

 この『井田・岩波新書』では、この「其角肖像百幅」について、現在知られている四幅について紹介している。

一 「仏とはさくらの花の月夜かな」が書かれたもの(伊藤松宇旧蔵。所在不明)
二 「お汁粉を還城楽(げんじょうらく)のたもとかな」同上(所在不明)
三 「夜光るうめのつぼみや貝の玉」同上(上記の図)
四 「乙鳥の塵をうごかす柳かな」同上(『井田・岩波新書』執筆中の新出)(以下略)  】


4-20 降り年や初茸売りが声の錆

季語=初茸=初茸(はつたけ)/三秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/5680#:~:text=%E8%8C%B8%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A7%E3%82%82%E4%B8%80,%E3%81%A7%E5%85%A8%E4%BD%93%E3%81%8C%E8%96%84%E8%8C%B6%E8%89%B2%E3%80%82

【解説】 茸のなかでも一番早く生えるのでこの名がついた。傘は扁平で全体が薄茶色。傷みやすく、傷になった部分は青く変色する。

【例句】

初茸やまだ日数経ぬ秋の露 芭蕉「小文庫」

【参考】 「初茸」周辺(「ウィキペディア」)

(歴史)

 特に関東地方で親しまれ、守貞漫稿(食類-後巻之一)には「初茸売り。山のきこりや八百屋がハツタケを売る。京阪にはハツタケは無い。江戸だけで売られる。」とあり、当時の関西ではあまり人気がなかったのに対し、マツタケがほとんど産出しない江戸近辺では、食用としてよく利用されたようである。千葉県では特に珍重されたといい、旧佐倉堀田藩鹿渡村(現在の千葉県四街道市鹿渡)においては、嘉永3(1850)年庚戌年(かのえいぬ)九月十日(旧暦)付の回状として「初茸 七十ケ 右ハ御用ニテ不足無ク 来ル十三日 四ツ時迄ニ 上納致ス可シ 尤モ軸切下致シ 相納メル可ク候 此廻状 早々順達致ス可ク候 以上」の文面が発行された記録がある。(中略)

 さらに、続江戸砂子(菊岡光行著:享保20年=1735年)には、「江府(=江戸)名産並近在近国」として「小金初茸・下総国葛飾郡小金之辺、所々出而発:在江府隔六里内外:在相州藤沢戸塚辺産、早産比下総:相州之産存微砂而食味下品。下総之産解砂而有風味佳品(小金初茸、下総国葛飾郡小金の辺、所々より出る。江戸より六里程。相州藤沢戸塚辺より出る初茸は、下総より早い。しかし相州産のものは微砂をふくみ、歯にさわってよくない。下総産のものは砂がなく、風味ももっとも佳い)。」との記事 がみえる。おそらくは、相模湾岸に広がるクロマツ林に産するハツタケと、内陸のアカマツ林に生えるハツタケとを比較したものではないかと思われる。

(生態・生理)

 日本では、夏から秋(時に梅雨期)、アカマツ・クロマツ・リュウキュウマツ などの二針葉マツ類の樹下に発生し、これらの樹木の生きた細根に典型的な外生菌根(フォーク状に二叉分岐し、白色 または赤紫色を呈するを形成して生活する。(中略)

(ハツタケと文学)

 秋の季語の一つとして知られることからも、日本人とハツタケとの関わりが深いものであることが推察される。

(例句)=一部抜粋

初茸やまだ日数 へぬ秋の露   芭蕉
初茸の無疵に出るや袂から    一茶
初茸のさび声門に秋の風    柳樽七五・8
青錆に成る初茸の旅労(つか)レ  柳樽八三・75

句意(その周辺)=「初茸」は、「初」の字がついているのだが、「新年」の季語ではなく、「古年」の「秋」の季語で、「雨の降る梅雨」明けの、特に、江戸近郊で食用される「江戸前(江戸風)の茸(きのこ)」である。その「初茸(たけ)売り」の声が、「初茸のさび声門に秋の風」(柳樽七五・8)で、夏から秋の「江戸前の風物詩」の一つとなっている。

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-124-20.html

河東節/助六所縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)

https://www.youtube.com/watch?v=Znm06U_7WEk

「春霞 立てるやいずこ三芳野の 山口三浦うらうらと
 うら若草や初花に 和らぐ土手を誰がいうて 日本めでたき国の名の
 豊芦原や吉原に 根こじて植えし江戸桜 
 匂う夕べの風に連れ 鐘は上野か浅草か」
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第四 椎の木かげ(4-11) [第四 椎の木かげ]

4-11 夕立や静(か)に歩行筏さし 

季語=夕立=夕立(ゆうだち、ゆふだち)三夏

https://kigosai.sub.jp/kigo500a/250.html

【子季語】 ゆだち、よだち、白雨、驟雨、夕立雲、夕立晴、村雨、スコール
【関連季語】 夏の雨、虹
【解説】 夏の午後のにわか雨、ときに雷をともない激しく降るが短時間で止み、涼しい風が吹きわたる。
【来歴 】 『花火草』(寛永13年、1636年)に所出。
【文学での言及】 よられつるのもせの草のかげろひて涼しく曇る夕立の空 西行法師 『千載集』巻三夏
【実証的見解】 夏の強い日差しで生じる上昇気流によって積乱雲が急激に成長し、局部的に激しい雨をもたらす現象。
【例句】
夕立にやけ石寒浅間山   素堂 「素堂句集」
夕立のあと柚の薫る日陰かな 北枝 「猿丸宮集」
夕立や草葉を掴むむら雀   蕪村 「蕪村句集」
夕立が始まる海のはずれかな 一茶 「七番日記」

「句意」(その周辺)

 この句は、抱一の趣向に趣向を凝らした一句である。この句にも、前書の「十鳥千句独吟」が掛かっているようなのだが、肝心の「十鳥」の「鳥」が「ヌケ(ヌキ・抜け・抜句)」(俳諧で、ある語を句の表面に出さないで、余意においてそれをとききかせる句作りの手法。また、その句)の、いわゆる「抜句」の雰囲気なのである。
 さらに、前書の「十鳥千句独吟」の「十鳥」は、この句の前の十句(「4-1」~「4-10」)
で、「鶯・雉・燕・杜鵑・翡翠・雁・鵲・木菟・鴛鴦・蒼鷹」で、これらを発句として、「十百韻」
千句)が巻かれていると解しても差し支えなかろう。
 とすると、「ヌケ」の手法が「余意を利かせる」手法とすると、これは、「正式(しょうしき・せいしき)俳諧」(「十百韻」)成就後の、その余勢の余章的な「余興(興を添える)俳諧」との範疇に入る、そのような一句(発句)のような雰囲気を有している。
 そして、ずばり、この句は、次の其角の句の、「反転化・捩り・見立て・抜け」などの一句と解したい。

※「日の春をさすがに鶴の歩みかな(其角)」=(「丙寅初懐紙」)季語=日の春(新年)の「鶴」を「夕立」(夏)の「鶴」の句に反転化(「反転・捩り・見立て・抜け」)しているか?

其角の造語による「日の春」(新年)→ 抱一の「夕立」(三夏)→反転
其角の「さすがに」 → 抱一の「静かに」(捩り)
其角の「鶴」 → 抱一の「筏さし(筏士)」(見立て)
其角の「歩み」→ 抱一の「歩行」の造語的詠み(あゆむ)→捩り

 句意は、「猛烈な夕立が襲ってきた。その中を、少しも慌てず、静かに、筏士が、筏の上を歩みながら、筏を漕いでいる。それは、まるで、私淑する其角師匠の『日の春をさすがに鶴の歩みかな』のような風情である。」

(参考その一) 抱一の「鶴」図周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-11-21

鶴三.jpg

酒井抱一画「群鶴図屏風」二曲一双 紙本金地著色 (ウースター美術館蔵)

鶴四.jpg

瀬戸民吉製「色絵双鶴図小皿」十枚一組 (国立歴史民族博物館蔵)
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/110/witness.html
【この小皿は「文政九戌十一月瀬戸民吉製」とあり、文政九年(一八二六)の瀬戸焼(愛知県瀬戸焼き)の一つということになる。この文政九年は、抱一、六十六歳の時で、その六月には、『光琳百図後編』が刊行された年である。
 『鶯邨画譜』が刊行されたのは、文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、その後、十年足らずして、陶器に意匠化されて、抱一ブランドが製品化されているのは特記して置く必要があろう。】

鶴一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「双鶴図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

(参考その二)蕪村の「筏師・筏士」周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-06-12

蕪村・筏師・出光美術館.jpg

蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

【[【筏師画賛】一幅 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 江戸時代 二七・二×六六・八㎝
嵐山の桜を愛でている最中に、急に風雨が激しくなって、筏師の蓑が風に吹かれた一瞬を花に見立てた俳画。蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている。蓑笠だけで表された筏師のポーズは遊び心にあふれ、ほのぼのとしていながら印象的である。遊歴の俳人画家、蕪村は五十歳になってから京都に安住の地に選び、身も心も京都の人になりきって庶民の風習を楽しんだ。自己を語ることをせずに、筏師一人だけを慎み深く捉えているところに、かえって都会的な香りや郷愁を感じさせる。(出光)
(釈文)
嵐山の花にまかりけるに俄に風雨しけれは
いかたしの みのや あらしの 花衣  蕪村 (花押) ]
「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》』のこころ」(作品解説38)

 上記の「作品解説」の中で、「蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている」の、いわゆる、水墨画の「乾筆(かっぴつ)=墨の使用を抑え,半乾きの筆を紙に擦りつけるように描く」の技法を、この「ミの(蓑)」に駆使しているのが、この俳画のポイントのようである。
 その「蓑」に比して、「笠」の方は、「潤筆(じゅんぴつ)=十分に墨を含ませて描く」の技法の一筆描きで、この「蓑と笠」だけで「筏師のポーズ」を表現するというのは、「遊歴の俳人画家」たる蕪村の「遊び心」で、「ほのぼのとしていながら印象的である」と鑑賞している(上記の解説)。
 ここで、この「筏師画賛=B」は、何時頃制作されたのかということについては、この賛に書かれている発句「いかたしの/ミのや/あらしの/花衣」の成立時期との関連で、凡その見当はついてくるであろう。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-06-08

蕪村花衣.jpg

蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)=A
【寺村百池の「箱書き」(括弧書き=読みと注)は次のとおりである。
[ これは是、老師夜半翁(蕪村)世に在(ま)す頃、四明山下金福寺に諸子会しける日、帰路三本樹(京都市上京区の地名=三本木、その南北に走る東三本木通りは、江戸時代花街として栄えた)なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く。時に越(こし=北陸道の古名)の桃睡(とうすい)、酔に乗じて衣を脱ぎ師に筆を乞ふ。とみに肯(うべな)ひ、麁墨(そぼく)禿筆(とくひつ)を採(とり)てかいつけ給ふものなり。余(百池)も其(その)傍に有りて燭をとり立廻(たちめぐ)りたりしが、日月梭(ひ)の如く三十年を経て、さらに軸をつけ壁上の観となし、其(その)よしをしるせよと責(せめ)けるこそ、そゞろ懐古の情に堪へず、たゞ老師の磊落(らいらく)なる事を述(のべ)て今のぬしにあたへ侍りぬ。 ]
(『蕪村全集一 発句)』所収「2377 左注・頭注・脚注」)
 さらに、『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」として、「雨日嵐山
に春を惜しむ」との前書きのある「み尽して雨もつ春の山のかひ」という句が所出されている。
 すなわち、蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の三月二十三日、上記の百池の「箱書き」に記載されている句会が、金福寺芭蕉庵で開かれて、その帰途に、三本樹の井筒楼で宴会があり、その宴席での、即興的な「席画」(宴席や会合の席上で、求めに応じて即興的に絵を描かくこと。また、その絵)が、上記の「筏士自画賛=A」なのである。
 これは、百池の「箱書き」によって、桃睡の「衣」に描いた、すなわち、「絹本墨画」の「筏士自画賛」ということになる。ところが、「紙本墨画淡彩」の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)も現存するのである。これは、後述することとして、その前に、上記の「筏士自画賛=A」の賛の発句や落款について触れて置きたい。
 この画中の右の冒頭に、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」として、「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」の句が中央に書かれている。それに続いて、画面の左に、「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」と落款し、その最後に、蕪村常用の「花押」が捺されている。
 このことから、蕪村は、亡くなる最晩年にも、この独特の花押を常用していたことが明瞭となって来る。
 ここで、蕪村が最晩年の立場に立って、生涯の発句の中から後世に残すに足るものとして自撰した『自筆句帳』の内容を伝える『蕪村句集(几董編)』の「巻之上・春之部」では、「雨日嵐山にあそぶ」として「筏士(いかだし)の蓑(みの)やあらしの花衣(はなごろも)」の句形で採られている。
 この句形からすると、出光美術館所蔵の「筏師画賛=B」(「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》のこころ』」図録中「作品38」)も「筏士画賛」のネーミングも当然に想定されたものであろう。おそらく、「筏士自画賛=A」と区別したいという意図があるのかも知れない。】

(参考その三)其角の「日の春を」(貞享三丙寅年正月『初懐紙』)周辺

https://suzuroyasyoko.jimdofree.com/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%96%A2%E4%BF%82/%E8%95%89%E9%96%80%E4%BF%B3%E8%AB%A7%E9%9B%86-%E4%B8%8A/%E6%97%A5%E3%81%AE%E6%98%A5%E3%82%92-%E3%81%AE%E5%B7%BB/

「日の春を」の巻(貞享三丙寅年正月『初懐紙』)

初表
 日の春をさすがに鶴の歩ミ哉   其角
   砌に高き去年の桐の実    文鱗
 雪村が柳見にゆく棹さして    枳風
   酒の幌に入あひの月     コ斎
 秋の山手束の弓の鳥売ん     芳重
   炭竃こねて冬のこしらへ   杉風
 里々の麦ほのかなるむら緑    仙花
   我のる駒に雨おほひせよ   李下

初裏
 朝まだき三嶋を拝む道なれば   挙白
   念仏にくるふ僧いづくより  朱絃
 あさましく連歌の興をさます覧  蚊足
   敵よせ来るむら松の声    ちり
 有明の梨打烏帽子着たりける   芭蕉
   うき世の露を宴の見おさめ  筆
 にくまれし宿の木槿の散たびに  文鱗
   後住む女きぬたうちうち   其角
 山ふかみ乳をのむ猿の声悲し   コ斎
   命を甲斐の筏ともみよ    枳風
 法の土我剃リ髪を埋ミ置ん    杉風
   はづかしの記をとづる草の戸 芳重
 さく日より車かぞゆる花の陰   李下
   橋は小雨をもゆるかげろふ  仙花

ニ表
 残る雪のこる案山子のめづらしく 朱絃
   しづかに酔て蝶をとる歌   挙白
 殿守がねぶたがりつるあさぼらけ ちり
   はげたる眉をかくすきぬぎぬ 芭蕉
 罌子咲て情に見ゆる宿なれや   枳風
   はわけの風よ矢箆切に入   コ斎
 かかれとて下手のかけたる狐わな 其角
   あられ月夜のくもる傘    文鱗
 石の戸樋鞍馬の坊に音すみて   挙白
   われ三代の刀うつ鍛冶    李下
 永禄は金乏しく松の風      仙花
   近江の田植美濃に耻らん   朱絃
 とく起て聞勝にせん時鳥     芳重
   船に茶の湯の浦あはれ也   其角

二裏
 つくしまで人の娘をめしつれて  李下
   弥勒の堂におもひうちふし  枳風
 待かひの鐘は墜たる草の上    はせを
   友よぶ蟾の物うきの声    仙花
 雨さへぞいやしかりける鄙ぐもり コ斎
   門は魚ほす磯ぎはの寺    挙白
 理不尽に物くふ武者等六七騎   芳重
   あら野の牧の御召撰ミに   其角
 鵙の一声夕日を月にあらためて  文鱗
   糺の飴屋秋さむきなり    李下
 電の木の間を花のこころせば   挙白
   つれなきひじり野に笈をとく 枳風
 人あまた年とる物をかつぎ行   揚水
   さかもりいさむ金山がはら  朱絃

三表
 此国の武仙を名ある絵にかかせ  其角
   京に汲する醒井の水     コ斎
 玉川やをのをの六ツの所みて   芭蕉
   江湖江湖に年よりにけり   仙花
 卯花の皆精にもよめるかな    芳重
   竹うごかせば雀かたよる   揚水
 南むく葛屋の畑の霜消て     不卜
   親と碁をうつ昼のつれづれ  文鱗
 餅作る奈良の広葉を打合セ    枳風
   贅に買るる秋の心は     はせを
 鹿の音を物いはぬ人も聞つらめ  朱絃
   にくき男の鼾すむ月     不卜
 苫の雨袂七里をぬらす覧     李下
   生駒河内の冬の川づら    揚水

三裏
 水車米つく音はあらしにて    其角
   梅はさかりの院々を閉    千春
 二月の蓬莱人もすさめずや    コ斎
   姉待牛のおそき日の影    芳重
 胸あはぬ越の縮をおりかねて   芭蕉
   おもひあらはに菅の刈さし  枳風
 菱のはをしがらみふせてたかべ嶋 文鱗
   木魚きこゆる山陰にしも   李下
 囚をやがて休むる朝月夜     コ斎
   萩さし出す長がつれあひ   不卜
 問し時露と禿に名を付て     千春
   心なからん世は蝉のから   朱絃
 三度ふむよし野の桜芳野山    仙化
   あるじは春か草の崩れ屋   李下

名表
 傾城を忘れぬきのふけふことし  文鱗
   経よみ習ふ声のうつくし   芳重
 竹深き笋折に駕籠かりて     挙白
   梅まだ苦キ匂ひなりけり   コ斎
 村雨に石の灯ふき消ぬ      峡水
   鮑とる夜の沖も静に     仙化
 伊勢を乗ル月に朝日の有がたき  不卜
   欅よりきて橋造る秋     李下
 信長の治れる代や聞ゆらん    揚水
   居士とよばるるから国の児  文鱗
 紅に牡丹十里の香を分て     千春
   雲すむ谷に出る湯をきく   峡水
 岩ねふみ重き地蔵を荷ひ捨    其角
   笑へや三井の若法師ども   コ斎

名裏
 逢ぬ恋よしなきやつに返歌して  仙化
   管弦をさます宵は泣るる   芳重
 足引の廬山に泊るさびしさよ   揚水
   千声となふる観音の御名   其角
 舟いくつ涼みながらの川伝い   枳風
   をなごにまじる松の白鷺   峡水
 寝筵の七府に契る花匂へ     不卜
   連衆くははる春ぞ久しき   挙白
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第四 椎の木かげ(4-10) [第四 椎の木かげ]

4-10 蒼鷹(そうよう)の拳はなれて江戸の色

季語=蒼鷹(そうよう)=鷹(たか)三冬

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2878

【子季語】 のすり、八角鷹、熊鷹、鶚、青鷹、蒼鷹、もろがへり、大鷹

【解説】 ワシ、タカ科の中形の鳥類の総称で、色彩は主に暗褐色。嘴は強く鋭く曲がり、脚には強い大きな鉤爪があり小動物を襲って食べる。鷹狩に使われているのは主に大鷹である。蒼鷹(もろがえり)は、生後三年を経たたかのこと。

【例句】

鷹一つ見付けてうれし伊良古崎 芭蕉「笈の小文」

夢よりも現の鷹ぞ頼もしき   芭蕉「鵲尾冠」

鷹の目の枯野にすわるあらしかな 丈草「菊の香」

あら浪に山やはなれて鷹の影   麦水「葛箒」

落し来る鷹にこぼるる松葉かな  白雄「白雄句集」

鷹来るや蝦夷を去る事一百里   一茶「寛政句帖」

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-10.html


葛飾北斎「桜に鷹」 天保5年(1834)頃 前北斎為一筆 長大判錦絵 52.0×23.6㎝ 森屋治兵衛

https://intojapanwaraku.com/art/2317/

 句意は、「鷹匠(たかじょう)の拳を放れた青鷹(あおたか)は、今まさに、江戸爛漫の宙(そら)に輝いている。」

※「青鷹・蒼鷹(あおたか・あをたか・そうよう)」=「おおたか(大鷹)」の古名。古来、鷹狩り用として、最も珍重された種類。もろがえり。

※万葉(8C後)一七・四〇一一「鷹はしも 数多(あまた)あれども 矢形尾(やかたを)の 吾が大黒に〈大黒は蒼鷹の名なり〉 白塗の 鈴取り附けて」()

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-10.html

酒井抱一筆「植物の上の鷹(カラー木版画)」

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-10.html

「同上(部分拡大図)

https://www.meisterdrucke.jp/fine-art-prints/Sakai-Hoitsu/1033857/%E6%A4%8D%E7%89%A9%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E9%B7%B9%EF%BC%88%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9C%A8%E7%89%88%E7%94%BB.html
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第四 椎の木かげ(4-9) [第四 椎の木かげ]

4-9 おし鳥のふすまの下や大紅蓮(ぐれん)

季語=「おし鳥」=鴛鴦(おしどり、をしどり)三冬

https://kigosai.sub.jp/001/archives/3158

【子季語】 匹鳥、銀杏羽、思羽、剣羽、番鴛鴦、離れ鴛鴦、鴛鴦の契、鴛鴦の浮寝、鴛鴦の独寝

【解説】 ガンカモ科の水禽。雄の羽根の造形は華麗で色も鮮やか。靜かに水に浮いている様は九谷焼の置物のごとし。「鴛鴦夫婦」のことばがあるように、雌雄仲が良い。夏に山の渓流、湖などで繁殖、秋、里に現れる。里でも繁殖する。

【例句】

里過て古江に鴛を見付たり 蕪村「蕪村句集」

鴛や池におとなき樫の雨  蕪村「落日庵句集」

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-9.html


「酒井抱一 中人物左牡丹右鴛鴦」の「鴛鴦」(部分図)

https://www.tobunken.go.jp/materials/gahou/109627.html

 句意は、「鴛鴦(おしどり)が、仲睦まじき泳いでいる。それは、水墨画の枯淡の図ではなく、誠に、濃艶な、『大紅蓮(ぐれん)』の光景であることよ。」

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-9.html


「紅蓮」とはどんな花?

https://domani.shogakukan.co.jp/667075
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第四 椎の木かげ(4-8) [第四 椎の木かげ]

4-8 木兎(みみづく)も末社の神の頭巾かな 

季語=木兎(みみづく)=木菟(みみずく/みみづく) 三冬

https://kigosai.sub.jp/001/archives/8744

【子季語】 木菟/五郎助/大木葉木菟/虎斑木菟

【解説】 フクロウ科の猛禽。頭部に耳と呼ばれる羽毛を持つ。夜行性で野鼠やかえるなどを捕食する。夜間人里近い森などでホーホーと低い声で鳴く。

【例句】

木菟や上手に眠る竿の先 一茶「九番日記」

※「末社」=「① 神社で、本社に付属し、その支配を受ける小社。摂社に次ぐ格式を有するもの。※吾妻鏡‐文治五年(1189)九月一〇日「鶴岡末社熱田祭也」② (「客」を「大尽(だいじん)」というのを「大神」に言いかけ、それを取りまく「末社」の意でいう) 遊里で客の取り持ちをする者。太鼓持。幇間。〔評判記・色道大鏡(1678)〕③ 転じて、取り巻きの人。※洒落本・禁現大福帳(1755)五「末(マッ)社一人ばくの縄目の三尺手拭にて尻からげ」」(「精選版 日本国語大辞典」)

(画像)→  https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-8.html


Title:百千鳥 「木兎 市仲住 鷽 笹葉鈴成」 Scops Owl (Mimizuku) and Bullfinches (Uso), from the album Momo chidori kyôka awase (Myriad Birds: A Kyôka Competition)

Artist:喜多川歌麿 Kitagawa Utamaro

Dates:1790年頃

木兎 鳥とともになきつわらひつくどく身を それぞときかぬ君がみみづく

https://paradjanov.biz/art/favorite_art/favorites_j/4469/

 句意は、「木兎(みみづく)は、「大神(だいじん)の本社」に取り巻く『末社』の風情で、それは、『大尽(だいじん)』の取り巻きの『太鼓持ち・幇間』の、その『頭巾』を被っている風情に似ていることよ。」
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第四 椎の木かげ(4-7) [第四 椎の木かげ]

4-7 山陵(みささぎ)の吸筒さがす夕(ゆうべ)かな (初案の「詠み」と「句意」)
  山陵(やまがら)の吸筒さがす夕(ゆうべ)かな (再案の「詠み」と「句意」)

(再案の「詠み」と「句意」)

 この句は、其角の「山陵(カラ)の壱歩をまはす師走哉 (『いつを昔』)」の句を踏まえての一句と解するのが妥当のようである。

句意=「山雀(やまがら・三夏)」が「山陵(みささぎ)」で「夕べ」の「吸筒(水筒・水飲み場)を探している。其角の句を踏まえると、「山雀利口」(座頭市から高利の借金をして当座の遣り繰りをする者)が「三両(山陵)一歩」の「高利貸し」に、この「夕べ」の「吸筒(食い扶持))」に四苦八苦している。

http://yahantei.blogspot.com/2007/03/blog-post_24.html

【(謎解き・五十)

〇 山陵(カラ)の壱歩をまはす師走哉 (其角『いつを昔』)

「とにかくにもてあつかふはこゝろなりけり 光俊」の前書きがある。「山がらの廻すくるみのとにかくにもてあつかふはこゝろなりけり」(『夫木和歌抄』巻二十七・光俊朝臣)を踏まえている。訓読みの「やまがら(山雀))」と音読みの「さんりょう(三両)」を掛けている。これは当時の「三両一歩」の「座頭金」(高利)を風刺した句である。座頭金は幕府が盲人の保護政策として高利貸しの営業を認め、後に高利の代名詞に「三両一歩」の語が生じたことによる(今泉・前掲書)。また、「山雀利口」(小利口で実際の役に立たないもの)で、師走の遣り繰りに困って、利子を一歩(一歩は一両の四分の一)を先払いして、二両三歩を手にしたが、山雀小利口で、前書きの光俊の歌にあるように「もてあつかふ」(始末に困る)ということになるというのである(今泉・前掲書)。表面的な句意は、「山稜鳥の異名を持つ山雀は胡桃をころころ廻してもてあそぶ習性があるが、その足の一歩でこの師走の忙しい時に、胡桃をもてあそんでいる」。そして、その背後の意味は、「その山雀と同じように、山雀小利口で、師走の資金繰りに困って、山陵鳥ならず、三両を一歩の利子という高利で座頭金を借りて、利子を前払いして、当座の遣り繰りをころころと胡桃のように廻しているが、とどのつまりは、そんな遣り繰りはうまくいかず、仕舞いには、どうにも始末が困ってしまうことになる」というようなことである。これは、其角の「聞えがたき」(意味が分からない)句の、いわゆる「謎句」の範疇に入る句の一つであろう。この種の謎句は、「洒落風」ともいわれ、「一般に芭蕉没後、とくに顕著になる其角独特の作風をさし、武士口調のもじり、世相の風刺などにその一例が見られる」(今泉・前掲書)ところのものであろう。この種の其角の世相風刺などのの句として、前にもその幾つかは紹介したが、次のようなものがある。】

https://paradjanov.biz/art/favorite_art/favorites_j/4473/

山雀・鶯(歌麿).jpg

Title:百千鳥 「山雀 紀定丸 鶯 則有遊」 Penduline Tit (Yamagara) and Bush Warbler (Uguisu), from the album Momo chidori kyôka awase (Myriad Birds: A Kyôka Competition)
Artist:喜多川歌麿 Kitagawa Utamaro
Dates:1790年頃
山雀 君は床をもぬけのくるみわればかり ちからおとしの恋の山がら
鶯 のきちかくほほうとつくる一声は 我恋中をみたかうぐいす


(初案の「詠み」と「句意」)

季語=山陵(みささぎ)=鵲(かささぎ)三秋(「鵲」の「捩り」詠み)

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2233

【子季語】 高麗鴉、朝鮮鴉、唐鴉、筑後鴉、肥前鴉、烏鵲、勝鴉

【関連季語】 鵲の橋、鵲の巣

【解説】 七夕伝説に登場する鳥。天の川を渡る織姫のために羽を連ねて橋を作るという。カラスに似ているが腹部が白いのでカラスと見分けられる。

【文学での言及】 

かささぎの渡せる橋におく霜の白きをみれば夜ぞふけにける 大伴家持『新古今集』

【実証的見解】 鵲は、スズメ目カラス科の鳥で、日本ではおもに北九州地方に生息する。体長約四十センチで、全体的に黒く、肩や羽、腹部の一部が白い。穀類や木の実などを食べるほか、秋にはイナゴなどの害虫も食べることから、益鳥とされる。十二月ころから三月ころまでが繁殖期で、枝や竹、ハンガーなどを用いて高い木の梢や電柱の上に巣を作る。産卵数は五個から八個くらいで、四月ころから巣立ちを始める。

【例句】

かささぎや石を重りの橋も有り 其角「浮世の北」

※山陵(みささぎ)=「山陵(さんりょう)」=「君主の墓。帝王の墓。天皇・皇后などの墓。みささぎ。御陵」(「精選版 日本国語大辞典」)が本意であるが、その「みささぎ」の詠みから「かささぎ(鵲)」を「捩り(もじり=表現を変えて滑稽化している)詠み」していると解する。

※吸筒(すいづつ)=酒や水などを入れて持ち歩いた、竹筒または筒型の容器。水筒。

※俳諧・鷹筑波(1638)二「さとりて見ればからき世の中 すひ筒に酒入てをくぜん坊主〈時之〉」(「精選版 日本国語大辞典」)

 句意は、「鵲(かささぎ)が、山陵(みささぎ)の近辺で、夕べの吸筒(水を飲む所)を探している。その図は、『かささぎ』ならず「みささぎ」の名が相応しい。」

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-7.html


渡辺省亭『花鳥画帖(迎賓館赤坂離宮七宝下絵)』より「鵲図」東京国立博物館蔵

http://bluediary2.jugem.jp/?eid=4614
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第四 椎の木かげ(4-6) [第四 椎の木かげ]

4-6 田の畔に居眠る雁や旅つかれ 

季語=雁(かり)=雁(かり)晩秋

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2607

【子季語】 雁(がん)、かりがね、真雁、菱喰、沼太郎、酒面雁、雲井の雁、小田の雁、病雁、四十雀雁、白雁、黒雁、初雁、雁渡る、天津雁、雁の棹、雁行、雁の列、落雁、雁鳴く、雁が音

【解説】 晩秋に北方から来て春には帰る。体は肥っていて灰褐色。頚が長く尾は短い。グァングァンと声を発しつつ棹型や鉤型に並んで飛翔する。雁をかりがねと呼ぶのは古来、多くの人がその声をめでたからである。

【例句】

病雁の夜寒に落ちて旅寝かな 芭蕉「猿蓑」

雲とへだつ友かや雁のいきわかれ 芭蕉「蕉翁全伝」

雁の腹見すかす空や船の上 其角「其便」

雲冷ゆる夜半に低し雁の聲 丈草「誹諧曽我」

初雁や通り過して聲ばかり 千代尼「千代尼句集」

初雁に羽織の紐を忘れけり 蕪村「新五子稿」

(画像)→ https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-6.html


歌川広重筆「月に雁」(部分図)

https://intojapanwaraku.com/art/1110/

 句意は、「晩秋を彩る雁の群れが、田の畔で居眠りをしている。長い旅路の疲れを癒していることよ。」
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