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第六 潮のあと(一) [第六 潮のおと]

第六 潮のあと(一)

  是年文化丙寅春二月二十九日晋子の
  百回忌たるにより、肖像百幅を畫き、
  上に一句を題して、人々にまゐらせ
  ける。又追福の一句をなす。
 囀れや魔佛一如の花むしろ  (『屠龍之技』「第六 潮のおと」)

 「文化丙寅春二月二十九日」は、文化三年(一八〇八)二月二十九日、其角(一六六一~一七〇七)の百回忌に祥当した。その百回忌を営む抱一は、四十六歳、そして、いみじくも、営まれる其角は、四十七歳で没した、その因縁に当たる年ということになる。
そして、この句の「魔佛一如(まぶついちにょ)」とは、「魔界の魔王と佛界の佛とは全く同一であって、別のものではない」(『仏教語大辞典』)の仏教語で、「花むしろ(莚))」は、花が一面に咲いたさま、あるいは散り敷いたさまを指す。表面的には、「美しい花も、そうでない花も等しく野に咲いている。そこで囀れ」ということになる(『岩波新書 酒井抱一(井田太郎著))。
しかし、この句の作者(酒井抱一)の、この句に託した真の意図(隠された意図)は、この「魔佛一如」(謡曲『善界(ぜかい)』と其角遺稿集『類柑子』所収「歌の島幷恋の丸」)、そして、「囀れや」(『類柑子』所収「晋子終焉記」の「鶯の暁寒しきりぎりす」)に潜ませているようなのである(『井田・前掲書』)。
 この「歌の島幷恋の丸」に、「風雅の狐狸なれば、弶(わな)をのがれて産業となる事、和光同塵のことはり、魔仏一如の見ゆる成べし」という一節があり、この句の「魔佛一如の花むしろ」というのは、当時の江戸座の混沌とした俳壇状況を踏まえての、「風雅(花莚)に巣食う現今の俳諧宗匠たちは、まさしく狐狸妖怪の類で、凡聖不二(ぼんしょうふじ)の『魔仏一如』の体たらくだ」と弾じているようなのである。そして、この「囀れや」というのは、これらの俗物宗匠たちを退散させて、この混沌とした状況を打開するために、どうか、亡き其角宗匠の「鶯」の一声を、天下に発して欲しいという意が込められているようなのである(『井田・前掲書』)。

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-23

(再掲)

【   辛酉 春興
   今や誹諧蜂の如くに起り
   麻のごとくにみだれその
   糸口をしらず
 貞徳も出よ長閑(のどけ)き酉のとし

 「辛酉」は、享和一年(一八〇一)、抱一、四十一歳時のもので、「春興」は、「新年の会席において詠まれた発句・三つ物のこと」である。「貞徳」は、松永貞徳(元亀二(一五七一)~承応二(一六五三)、貞門俳諧の祖。松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。歌人・狂歌師としても名高い)である。
 当時の抱一は、浅草寺北の千束村に転居し、その住まいを「軽挙草堂」と称していた。寛政九年(一七九七)、三十七歳時の、剃髪得度した年に、京都の西本願寺に挨拶のため上洛したが、その折りの随行者は、「俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴をした」(『軽挙観(館)句藻』)と、画人との交遊よりも、俳人との交遊関係の方が主であった頃である。
 「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」の、「鵬斎・文晁」との交遊関係も、享和二年(一八〇二)、四十二歳時に、「五月、君山君積の案内で、谷文晁、亀田鵬斎らと、常州若芝の金龍寺に旅し、江月洞文筆『蘇東坡像』を閲覧する」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(松尾知子編)」)と、その一端が今に知られている。
 その上で、この前書き「今や誹諧(俳諧)蜂の如くに起り/麻のごとくにみだれその/糸口をしらず」とは、俳諧宗匠・酒井抱一(「抱一」の号は、寛政十年(一七九八)、三十八歳時の『軽挙観(館)句藻』「千つかの稲」が初出)の、当時の江戸俳壇に対する真摯なる感慨ということになろう。
 そして、「貞徳も出よ長閑(のどけ)き酉のとし」の句は、新年の抱一門句会の、抱一の歳旦吟であると同時に、「貞徳を出(いで)よ」、その混迷した江戸俳壇に一指標を見出したいという、抱一の自負を込めての一句ということになろう。 】

  貞徳も出よ長閑(のどけ)き酉のとし(享和元年、抱一、四十一歳時の作)
  囀れや魔佛一如の花むしろ (文化三年、抱一、四十六歳時の作)

 「酒井抱一略年譜」((『井田・前掲書』)所収)により、「其角百回忌」(文化三年=一八〇六=四十六歳)から「光琳百回忌」(文化十二年=五十五歳)までの主要な事項は次のとおりとなる。

文化三年(一八〇六、四六歳)二月、其角百回忌、(肖像百幅)、『軽挙観句藻』(「かみきぬた」)開始。
文化四年(一八〇七、四七歳)四月、尾形家系図を紹介、十一月、「人麿図」(抱一暉真)。
文化五年(一八〇八、四八歳)九月、加藤千蔭没。
文化六年(一八〇九、四九歳)九月、鈴木蠣潭(弟子)元服、年末、『軽挙観句藻』(「京うぐひす」)開始。この頃から「鶯邨・鶯村」を名乗ったか。
文化七年(一八一〇、五〇歳)七月、『軽挙観句藻』(「花ぬふとり」)開始。九月、千蔭三回忌。
文化八年(一八一一、五一歳)七月、松村呉春没。『軽挙観句藻』(「花ぬふとり」)開始。
文化九年(一八一二、五二歳)二月、田中抱二(弟子)、生誕。
文化一〇年(一八一三、五三歳)自撰句集『屠龍之技』刊行か。鈴木其一(弟子)、入門。
文化一一年(一八一四、五四歳)九月、酒井忠実、四代目姫路藩主に成る。十一月、建部巣兆没。『軽挙観句藻』(「氷の枝」)終了。
文化一二年(一八一五、五五歳)六月、光琳百回忌、(光琳忌百幅)。十一月、千住酒合戦。十二月、『軽挙観句藻』(「遷鶯」)開始。光琳百回忌にやや遅れ、『光琳百図』前編を刊行か。

 俳人・抱一(屠龍)は、文化三年(一八〇六、四六歳)時の、「其角百回忌」の追善「其角肖像百幅」を手向けて、文化一〇年(一八一三、五三歳)時に、自撰句集『屠龍之技』刊行し、その名を俳諧史上に留めたということになる。そして、画人、抱一(光琳末弟抱一暉真)は、文化一二年(一八一五、五五歳)時の、「光琳百回忌」の、「尾形光琳居士一百週諱展覧会」開催、「尾形流略印譜」の刊行、さらに、『光琳百図』の刊行などを以て、その名を絵画史上に金字塔を樹立したということになる。

「其角肖像百幅」(抱一筆・賛=其角句)については、次のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-30

酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」と「抱一と蕪村」との関連などについては、次のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-22

(再掲)

補記一 西鶴抱一句集(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875058/1

補記二 抱一の俳句

http://haiku575tanka57577.blogspot.jp/2012/10/blog-post_6.html

1  よの中は團十郎や今朝の春
2  いく度も清少納言はつがすみ
3  田から田に降ゆく雨の蛙哉
4  錢突(ぜについ)て花に別るゝ出茶屋かな
5  ゆきとのみいろはに櫻ちりぬるを
6  新蕎麥のかけ札早し呼子鳥
7  一幅の春掛ものやまどの富士
8  膝抱いて誰もう月の空ながめ
9  解脱して魔界崩るゝ芥子の花
10 紫陽花や田の字づくしの濡ゆかた
11 すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓
12 素麺にわたせる箸や銀河あまのがは
13 星一ッ殘して落る花火かな
14 水田返す初いなづまや鍬の先
15 黒樂の茶碗の缺かけやいなびかり
16 魚一ッ花野の中の水溜り
17 名月や曇ながらも無提灯
18 先一葉秋に捨たるうちは哉
19 新蕎麥や一とふね秋の湊入り
20 沙魚(はぜ)釣りや蒼海原の田うへ笠
21 もみぢ折る人や車の醉さまし
22 又もみぢ赤き木間の宮居かな
23 紅葉見やこの頃人もふところ手
24 あゝ欠(あく)び唐土迄も秋の暮
25 燕(つばくろ)の殘りて一羽九月盡くぐわつじん
26 山川のいわなやまめや散もみぢ
27 河豚喰た日はふぐくうた心かな
28 寒菊の葉や山川の魚の鰭
29 此年も狐舞せて越えにけり

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